全てを喰らう災厄の王

ヘイ

第1話 人間ニ非ズ

 

「…………」

 

 カラスの五月蝿い夕刻。

 西に落ちる太陽は橙色に燃え上がり、世界を茜に染める。例えば、今、この瞬間に窓の外から怪物が現れて。

 或いはテロリストが学校内に入ってきて、一番初めに自分を殺してくれはしないだろうか。できるだけ痛くないように、と。

 そんな想像をする事も少なくない。

 未来への展望も、生きる事の希望も無いくせに、自分から死ぬ勇気はないと言う臆病者。なら、事故であったなら仕方がないと諦めもつくだろうか。

 ボンヤリと外の景色を眺めても代わり映えなどない。

 蜻蛉が羽音を鳴らして、飛んでいくが精々だろう。

 

「はあ」

 

 三階、一年生の教室。

 教室の中にはたった一人の少年を除いて誰の姿もない。ただ、鞄は確認できることから帰った訳でもないのだと言うことはわかる。

 春になったばかりだと言うのに、熱心な事だ。溜息も吐きたくなる。

 学生の本分など、親に言われたことをやる。大人に逆らわない。なんて物が一番重要なのだろう。従順な生徒は気に入られるし、たとえ優秀であったとしても教師を誹る者は嫌われる。当然だ。

 だから、勉学も運動も真実、教師は大切だとは思っていないのだ。

 

「帰るか……」

 

 情熱もない。

 興味もない。

 なら、こんな場所にいる理由はひとつもない。どうしてか、ぼうっとしていただけ。何となく、帰るような気分にはならなかったのも他の誰かが頑張っている中を何もしない自分が本当に何もなく帰ることに嫌気が差した。そんな物。

 

「……なんかやろうかな」

 

 部活でもバイトでも。

 それか、自分ができるような個人的な活動か。考えたって纏まらない。もう少し、時間が欲しい。ズルズルと失っていっても、モラトリアムだ。悪くはないだろう。

 立ち上がりながら、言い訳を頭の中で捻り出し窓の方に体が向いた一瞬。

 

 ────落ちていく少女と目が合った。

 

 助けられないだろう。

 自由落下をしていく少女は窓の閉じた先。机三つ分。距離からして三メートル。只、間に合うわけがない。

 諦めたかったか、と問われたなら否定するだろう。仕方がなかったと言い訳をしたいだけだ。

 

「自、殺?」

 

 頭を過った言葉を、口に出していた。

 驚きと不安を心内に覚えながらも窓に向かって左足が前に出る。

 怖いもの見たさ。

 或いは勘違いだと思うことにして、心を安定させようとする作用か。冷静になって考えれば、馬鹿な話と、ただの野次馬だとこき下ろすことだ。

 ただ、その瞬間の行動を誰にも否定できない。

 彼は確かめようとした。

 これだけで話は終わりだ。

 

「うっ……ぶ」

 

 覗き込んだ九メートル先の地面に彼女は倒れていた。頭が砕け、目は空を見つめ右手と右足がありえない方向に折れ曲がっている。広がっていく血の染みは、コンクリートの地面に溶け込んでいく。

 黒い髪は赤の染液に染められていく。

 

「あ、あ……」

 

 ヘタリと、腰が抜けた。

 初めて、見た。

 

「うっ……おぇええ……」

 

 人の死体。

 棺の中に収めるための処理もされていない、血に塗れた野良の死体。綺麗だと言う言葉は絶対に吐けない。

 先程までの死への軽薄な羨望が塗り潰される。

 

「ねえ」

 

 声が響いた。

 扉が開いた音は聞こえなかった。

 

「何が、見えたの?」

 

 顔面蒼白のままに顔を上げた。

 ぴちゃりと垂れたのは、口の端を濡らす涎。

 

「ひ、とがし、死んだ……死んだ、ん……だ」

「あはっ、そうだねぇ……」

 

 ぬるり。

 この表現が正しい。

 懐に入り込み、やけに冷たい少女の指先が少年の顎を撫でた。

 

「名前は? 私はレイ。ね、キミは?」

「ぁ……さ、佐久間さくま……りく

「じゃあ、リク。今から……始まるよ」

 

 ドクン。

 教室が大きく揺れた。

 

「は? え? ……な、何だよ!?」

 

 人が死んだと思えば、次は災害か。

 焦り。更なる不安。

 湧き上がる感情に蓋は出来ない。

 

「地縛霊の怨念が絡み合って、アレができる」

 

 教室を影が覆った。立ち上がって陸は窓の外を見ようとして、人間の死体の集合体、その巨大な化け物の赤い目が見えた。

 

「は、ひっ……!」

 

 気味の悪い。

 気色の悪い。

 口から漏れたのは小さな空気、笑い声。

 恐怖によって吐き出された感情はごちゃごちゃになった物だ。

 

「逃げないで、ねぇ。リク……キミは見たんだ。もう、遅いよ」

 

 目は鯨を象った怪物に釘付けのまま。

 

「…………ぇ」

 

 ただ、悲しげな、哀しげな、淋しげな紅い瞳が陸を見つめていた。恐れ、畏れ、惧れ。傷つけられる事に対する恐怖がありありと見える。

 

「何で、そんな目で」

 

 怪物。

 鯨の姿を作った、死人の集合。奇妙、いや人の精神を削る、存在するだけで悍ましいナニカ。生き物では無い。

 何せこれは、死んでいるのだから。

 血管のように見える赤い筋は、恐らくは死体から流れる血の跡だ。

 

「ほら、リク。アレを……どうしたい?」

「お、れは」

 

 何を言わせたい。

 何が目的だ。

 あの、死を。

 

「終わらせ、ないと……」

 

 陸は正しくは無い。

 陸は善人では無い。

 ただ、見ているだけで気分の悪くなるような、こんな化け物を野放しにはしていられないと。

 

「こんなのは……要らないだろ」

 

 不快に思ったから。

 

「うん。良いね……だから、キミを選んだんだよ」

 

 少女が口を綺麗に曲げて、窓を開いた。

 鼻を刺す刺激臭、鉄の臭い。腐乱臭。顔を顰めてしまうのは仕方がない。死のニオイの中に、僅かな焦げ付くようなニオイが混ざって。

 

「じゃあ、終わりにしようか……」

 

 つぶやいて、レイが窓から飛び降りた。

 死ぬだろう。

 このまま、死んでしまうだろう。

 それが人間であるのなら。

 

「付いてきてよ、リク」

 

 名前を呼ばれると、身体は引き寄せられるように右足が突き動かされ、そのまま、次いで左足が前に出る。交互に繰り返され、窓に向かって走り、彼は飛び込んでいた。

 気が狂った。

 頭が真っ白になった。

 ただ。

 

「レイ」

 

 こうするのが間違いではない。

 

「分かってるじゃん」

 

 地面に叩きつけられたレイの体がバラバラに砕け散り、血飛沫が上がる。赤い噴水の中に陸は躊躇もなく身を投じた。

 

「さて、お互いに怨みあっても仕方ない。だから、お前の恨みも全部受け止める」

 

 身体には力が宿る。

 灼けていくような感情。これは、仕方がない物だろう。陸は受け入れて、自身のものではないと切り捨てる。

 

「それが真実、この学校の怨霊って物だろ」

 

 地縛霊の集合。

 則ち、怨みの総集。

 ならば喰らい尽くせば良い。それをレイも認めたのだ。この怨みを呑み下すことを。

 

「来いよ、全部。お前らの怨みは食べちまおう」

 

 夕焼けの中に溶け込むような血のような紅蓮の髪と真っ赤な目、黒の学ランを風でたなびかせながら何もかもが変わった様子の陸が告げる。

 

「────憑喰ひょうさん

 

 空間にひずみが生じた。

 ぐわぱぁ。

 陳腐な音を立て、歪みが拡がる。

 開いた様相、まるで巨大な鬼の口。牙がぬらりと濡れている。どこまでも生物的。何より、鯨よりも巨大だ。

 鯨の大きさは校舎を優に上回る、長大さ。全長にして三十メートルは有るであろう、死の集合。それを飲み込むほどの口。

 学校全体を飲み込んでしまうのではないかと思える程。

 

「ごちそうさん……」

 

 ぱくんっ。

 怪物を一口で飲み込んで、歪みは消える。

 

「〜〜〜〜っ!!!!」

 

 汗血馬の様に真っ赤な液体が陸の身体から吹き出して、何の抵抗も出来ずに地面に倒れる。

 

「っぁ…………!」

 

 一歩も動けない。

 嫌な汗、不愉快な痒み、骨が折れたと感じる程の痛み。脳を締め付ける様な感覚。

 

「無理したねぇ。……人間なのに」

 

 少女が笑う。

 彼女は余裕な表情で倒れた陸を見下ろしている。分かってはいた。

 

「お前、はっ……人間じゃ、ない……」

 

 キョトンとした顔を見せた後に、あはっ、と空気の漏れる様な笑い声を発する。

 

「うん。そうだね。でも、さ……遅いよね? だって、もうキミは私を利用したんだ。憑かれ易くなるのも当然」

 

 コイツは化け物だ。

 理性的で狡猾で、だからこそ鯨以上に性質が悪い。

 

「私は天喰鬼てんさんきのレイ、今後ともよろしく。リク」

 

 怨みはきっと食べてしまったのだろう。それだけは確かだ。

 死んだかの様に陸の瞼が落ちた。

 

 

 

 

 

『何処……お兄ちゃん……』

 

 灼ける世界で少女は泣く。

 燃え上がる視界の端で人が焼かれる。

 空からは何かが黒い塊を投棄する。

 知らないのだ。

 彼女は生きたがっていたこと。

 

『もう、ぃゃ……』

 

 自らの人生を投棄した彼らには。

 

「…………」

 

 何方も苦しかったのだろう。

 望まずして死んでしまった亡霊も、息苦しさを感じて死んだ彼らも。だから、恐れた。灼けた。砕けた。燃え尽きた。

 

「あ、ああぁぁぁあああああああっっっ!!!!」

 

 身体の全てを焼いていく。

 灰になる。

 そんな夢。

 

「はぁっ、はあ……」

 

 目が覚めた。

 身体は包帯でぐるぐる巻きだ。

 

「目は覚めたかね……佐久間陸くん。不躾ではあるが、君の学生証を見せてもらった」

 

 眼鏡を掛けた、白衣の三十代程の男性。

 

「私はさかき仁也じんや。見ての通りの……まあ、研究職さ。と言っても、オカルトなんて言う眉唾物だがね」

 

 ひっそりと笑った男。

 辺りを照らすのはディスプレイの目に痛い光。部屋の明かりは最低限。

 ボサボサの白髪。

 目の下の隈は濃い。一朝一夕でできる様なものではない。

 

「で、君は一つの失態を犯した。まあ、君は普通の人間であったし、まさかあんな事になるとは思わなかったんだが。……取り敢えず、君の中には今、数百の怨念と記憶がある」

 

 胸に手を当て、理解した。

 

「いつか、君は壊れる。君の身体を使って、あの鬼は受肉する。災厄の妖怪として」

 

 本当の名前は別にある。

 

「アレの力は、本来月と太陽を侵す物なのさ」

 

 何で、それを知っているのか。

 その力の一端を陸も理解していた。教えられるまでもなく。

 

「何でって顔だね。まあ、私も研究職を自称するからには知識は必要なのでね」

 

 なんて。

 彼は嘘吐きだ。

 

「…………何だい? 分かってるから、嘘は吐くなって言いたげだね。まあ、だとしてもそれが私の性質さ。流石に何でも嘘をつきはしないよ。君が困らない程度の嘘だけだ」

 

 仕方ないだろ。

 きっと、彼は賛同を求めている。否定など興味もないのだ。

 

「……俺は、これからどうなる」

「それはわからない。君が壊れても良いと言うなら、怨霊でも妖怪でも好きに食べれば良い」

 

 陸の性質は。

 

『私の性質は食べた分だけ強くなるってね』

 

 レイの性質、そのもの。

 ただ、身体に見合わない巨大な物。

 

「レイ……!?」

「私には見えないがね」

 

 陸のすぐ側にいるが、実際に見えていない。見えるのは陸だけだ。

 

『見せる相手は選べるんだよ』

 

 ニタリと気味が悪い金髪の彼女は嗤った。含み笑い。蝋燭に灯る火のような赤い目の奥は何かを企むようで。

 心を許す事がどこまでも罪深い。

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