恋に恋した女(巻四「娘野郎に恋慕し立退事 むすめやろうにれんぼしたちのくこと」)
江戸南鍋町の久兵衛という者に一人娘がいた。
十八歳の時に婚姻し、二年ほど結婚生活を送ったが、夫と死別し、実家に帰ってきた。
その頃、木挽町の歌舞伎役者に玉松右京と云うのがいた。
美男の聞こえ高く、娘は彼を見初め、深く想うようになり、召使いの下女を中遣いにして文を通わせ、
恋い慕う想いは募れど、親だけでなく、世間の目も厳しいので、忍ぶ恋の懊悩に沈んだ。
「かくなる上は、どこへなりとも妾を連れて行ってくださいませ。どのような憂き世渡りになろうとも、何を苦しく思いましょう。どこまでもお慕いいたします」
「慣れない身分の低い職業になろうが、なるまいが添い遂げようぞ」
娘と玉松右京は互いにこう云い交し、娘は小判百五十両を盗み出すと、その年の六月十一日の黄昏時に、下女に協力させ、ただ二人密かに出奔した。
予てより傍に控えさせていた迎えの駕籠に乗り込むと、飛ぶように行方知れずとなった。
「一体どこへ行ったのだ」
親は驚愕し、騒ぎ立てたが、捜索の手がかりもないので、空しく手をこまねいていたのだが、娘の手箱を改めたところ、遂に娘と玉松右京が交わした文の数々を見つけ出した。
深く憤った親や祖父らは御奉行所に訴え出た。
玉松右京の親の居所を辛うじて探し出したので、二人は捕えられた。
仲立ちした大額権兵衛と、二人を匿ったとされる玉松右京の親たちも諸共に獄舎に入れられ、禁獄された。
娘のみ許されて、親の預かりとなり、武蔵国の秩父の方へ再び嫁いだ。
しかし、そこでも不義の心を起こしたとして追い返されると、再び実家に戻った。
その頃には玉松右京も程なく許され、放免となっていたので、それを聞いた娘は、再び彼に密かに金子を送ったとか。
「一度の過ちを改めることもなく、再び同じことを繰り返すとは、なんと憎むべき心根だろうか」
そう人々は云い合った。
これのみならず、女の家の店子には、湯屋があったのだが、そこの息子が器量良しの若者であった。
それで、女は彼に懸想し、自宅の二階から向かいの彼の家の二階へ向けて、釣り竿の先に文を結いつけ、送りつけてきたのだが、湯屋の息子の心には響かなかった。
それを湯屋の親が聞きつけて、
「よしや若い時分には、一時の恋の過ちというものはあるものだ。もっとよく将来のことを考えなさい」
と強く云うので、息子は、
「我が親ながらなんと情けのないことを云うのですか。いかに身分の低い生業だったとしても、この女のような浮名を立てた人と、どうして連れ添いになどなるでしょうか。思いも寄らないことです」
そう恨み言を云い、自害しようとしたので、親も近所の人々も驚き慌てて出てきて、これを止めた。
詳しく事情を息子に尋ねれば、女の一方的な恋慕だということがわかり、女は恥の上に恥を重ねることとなった。
「この女が黄金二百両を持参したら、妻に迎えよう」
宿屋町鯉屋と云う者がこう云い出したので、女の件は終いとなった。
しかし、彼女の不義を知らない者はおらず、自ら災禍を招き入れるようなものである。
きっと何かしくじりがあった時に、それを口実に女を追い出して、持参金二百両だけ手に入れようという魂胆であろう。
疑わしいことである。
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