第17話 ウェンツェルという男
祐治はベッドの上で目を覚ました。眼の前には見慣れない美しい女性の顔。それが街中で会ったメイドだと気付いた瞬間、祐治は声を上げそうになったがなんとかそれを飲み込む。
ここはどこなのだろうか。祐治が状況を確認するために、こっそり身を起こそうとした瞬間、ヴィクトリアの目が開いた。長いまつげのベールの奥から緑色の瞳が祐治を射抜いてくる。
「……目を覚ましましたか。ですがお待ちを。外には見張りのメイドがいます。聞かれたくないのでこのまま少し話をさせてください」
ヴィクトリアは囁くように声を潜めて言った。
思いも寄らない要求に少し迷ったが、祐治は彼女の話を聞くことにした。
「あの魔女はこの城の地下の牢獄に閉じ込めています。私に力を貸してくれるのなら逃げるのを手伝って差し上げます」
祐治は視界が広いのに気付いて思わず左目に手を当てる。包帯は外されていた。二人が噂の魔女であるということは既に知られているのだろう。捕まった魔女がどんなに目に合うかは祐治にも容易に想像できた。
「何をすればいい?」
「ウェンツェル様のふりを。貴方は別人なのでしょう?」
「それは……」
ヴィクトリアの問に祐治は答えに詰まった。素直にそうだと答えてしまっていいのだろうか。自分は異世界の人間で魂だけここに呼び出されたと。それを考えて祐治に一つの考えがひらめいた。自分が入ったこの器が、本当に彼女の言うウェンツェルなのかもしれない。それともいっそ、記憶喪失とでも適当にごまかすべきか。
「いいえ、貴方が誰であってもいいんです。とりあえずウェンツェル様が戻ってきた、そういうことにするのが重要なのですから。ちなみに従わないのでしたら、魔女ともども速やかに死刑にするように進言させて頂きます」
表情に乏しいヴィクトリアのその言葉は冗談には聞こえなかった。
「選択肢は無いじゃないか」
「そうですよ。どうします?」
「従うよ。だけど、いくつか頼みがある」
そもそもこの話だってどこまで本気なのかもわかりはしない。祐治は半ば投げやりに従うことにした。仮にこのメイドの言葉が嘘であったとしてもこの体なら多少無理すれば逃げられる自信が祐治にはあった。
「あら、中々強気なことで。何ですか?」
「紅咳の薬を一人分。その辺で手に入るものなんだよな?」
「そんなもの何に……ま、いいでしょう。買い物に出るときにでも手に入れておきます。他は何ですか?」
「リルリーシャに会わせて欲しい」
向こうがリルリーシャを人質に取るのならその無事を確認するのは必須だろう。無駄に利用されるのは避けたい。
祐治の要望にヴィクトリアは少し困ったように、目を逸らした。
「……今はできません」
「いつならできるんだ?」
「さあ? 少なくとも貴方がウェンツェル様であると回りに信じさせてからでしょうか。その前に城の中を歩き回せるわけにはいきませんから」
「それなら具体的にどうすればいい?」
「それは……もちろんウェンツェル様のように振る舞うのが一番かと。あの方はどうしようもないクズでしたからね。燃え盛る炎のような傲慢さに、心は水たまりよりも狭い。それでいてその底は闇夜よりも暗く、邪悪で、そこに宿るのは星の瞬きのように微かな知性と力。この館で最も下等な人間と言えば、そう、貴方なのです」
楽しく歌うようなヴィクトリアの言葉に祐治は驚きを隠せなかった。一体こいつの主はどんな人間だったのだろうか。このメイドはまともではなようだがこうまで自分の使用人に言われるなんて普通ではない。そして自分はそのフリをしないといけないとは。
「ま、そんな演技をするのは大変でしょう。ですから、私にいい作戦があります」
そう言ってヴィクトリアは祐治の耳元に口を近づけた。
祐治の直感がろくでもない作戦だと告げる。そういう前振りから出てくる作戦は大抵ろくなものではないのだ。
「外に見張りのメイドがいます。私が連れてきますので軽く胸でも揉みましょうか。とっても大きい子ですよ」
「は?」
「その事実が広まればみんな勝手に勘違いしてくれるはずです。そういうお方でしたから」
ヴィクトリアが提案した作戦は祐治の想像を遥かに下回っていた。
クズさをアピールしろと言われても、そこには膨大な選択肢があり、どれが最も効果的に自分の価値を貶めることができるか正確に判断するのは難しいだろう。いきなり路上で人に殴りかかるのといきなり全裸になるのではどちらが効果的に人間的な価値を下げられるのか、誰が断言できるだろう。だが、それでも祐治はヴィクトリアの作戦に効果があるのは認めざるを得なかった。権力の盾に、使用人とは言え婦女子の体を弄ぶ。誰がこれを正当化できるだろうか。
しかし、それでも祐治は口から溢れる言葉を止められなかった。
「……なんで俺が?」
「なぜ、ですか。……特に理由が無い方がクズっぽいと思うのですが、確かにわざとらしくならないように適当に理由を付けた方がいいですね。でしたら……『私の胸では満足できなかったから』ということにしましょう」
そう言ってヴィクトリアは祐治の手を取って、恥ずかしがる素振りもなくぐりぐりと祐治の掌を胸に押し付ける。
「ほら、満足いただけないでしょう?」
確かに豊満な体とは言えなかった。だが、そんな次元の話ではなかった。
いくらヴィクトリアが綺麗な女性だと言っても、祐治にとって敵と言ってもいいような存在。そんな相手の胸を、しかもいきなり無理やり揉まされても、嬉しい嬉しくないの話ではなく、困惑しか感じない。もちろん、こんな状況でもなければ喜んでいたかもしれないが。メイド服の下に隠れている控えめな膨らみも、実際に手に触れてみれば確かに存在し、祐治の手を優しく迎えてくれている。ベッドの上のこんな状況でも彼女の表情は色気には乏しいが、それもまた彼女の人形のような美しさを引き立てており、余計扇情的に見えるかもしれない。
「はっ、離せ!」
祐治は焦るようにヴィクトリアの手を振り解いた。
「うふふっ、触れるのも嫌だなんて……では、呼んできますね」
「ちょっと待てって……」
祐治の制止も及ばず、ヴィクトリアはベッドから下りて部屋から出ていった。追いかけるような真似はできなかった。結局自分は彼女に従うしかないのだから。祐治はとりあえず身を起こす。
ヴィクトリアが出ていってすぐに声が漏れてきた。無理やり毒牙に身を差し出さなければならない、見張りのメイドの越えだろう。
漏れてくる話によると、5年程も行方不明になった挙げ句、魔女に呪われて記憶をなくしたウェンツェル様はいきなり胸を揉むことを所望しているようだ。しかも、専属のメイドであるヴィクトリアの胸では満足できないから他のメイドを差し出せと命令し、従わない場合は口にするのもおぞましい罰を受けさせるらしい。
「そういう行いが似合うっていうのか。こいつは……」
祐治は自分の手の平を眺めて呟いた。
「……どうしてこいつだったんだ?」
自分はこの体を器として魂だけ移されたとリルリーシャは言っていた。ならば、どうしてこの体だったのだろうか。何か大きな理由があってのことだったのか。それに、元々会ったはずの中身、ウェンツェルの魂はどこへ行ったのだろうか。祐治の頭に多くの疑問が湧き上がる。今まで自分がどうやって出来上がったのか、あまり考えないようにしていたが、自分が元々実在した人間の体を使っているのだとこうも実感させられては無視もできない。
だが、そんな思考は部屋に入ってきたメイドに遮られた。
「し、失礼いたします……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます