第9話 来訪者
「しかし、どうしてこんなに……」
祐治はベッドに少女を降ろして思わず呟いた。ここまで来るのがいかに過酷な道だったのかは全身が示している。亜麻色の簡素なワンピースは枝に引っかかったのかぼろぼろで、そして傷は服だけで済んではいない。顔にもいくつか切り傷が付いており、膝の辺りは赤いシミが付いている。リルリーシャが言うには近くの村からは大の大人でも半日近くかかるそうだ。こんな小さな体では日が昇ると同時に発っても、暗くなる前につけるかどうか。そもそもこの館にたどり着いたことが奇跡だと称した。
「……さあな。だが、放っておくこともできまい」
そう言ってリルリーシャはベッドに近づいて少女の胸の上に手をかざす。
「どうするんだ?」
「少し治してやる」
そう言うリルリーシャの手は震えていた。声に不安げな様子はないが。まるで大舞台を前に緊張しているかのようだ。
「大丈夫なのか?」
「どういう意味じゃ?」
「その……手が」
「ふふっ、他人と顔を合わせる度に命を狙われてな、誰かを助けるなんて初めてなのじゃ。緊張もしよう」
どこか自嘲気味にリルリーシャが笑うと彼女の手のひらが輝き始めた。見ているだけでも心が安らぐような、暖かな光だ。きっとこれが癒やしの光なのだろう。少女の顔から苦痛の色が消えていき、対照的にリルリーシャの顔が辛そうに歪む。
治癒の魔法はそれを難しいものではないという話であったが、全くそんな風に見えなかった。自分の命を削って分け与えているようだ。見知らぬ子供をそんなにまでして救おうとするなんて、と思って祐治は自分が死んだときのことを思い出した。人のことを言える立場ではない。
それならば、と祐治はリルリーシャと同じように少女に手を重ねてみた。
「俺もわがままを言ってみようかな。多分、聞き入れてもらえるだろ」
この体は魔法で動いているというのだから、自分に魔法が使えない道理はない。あってもそれを捻じ曲げるものが魔法なのだろう。
祐治はじっと少女の体が治るのをイメージしてみる。すると手のひらが弱々しくも温かな光に包まれる。
傷がふさがり、癒えていく少女の体。……いや、それは違う。リルリーシャは極度の疲労だと言っていたのを思い出し、祐治は考え直す。実際に致命的な傷は見えない。ならば、彼女が元気になるのをイメージすることにしよう。
まだ10歳くらいの子供だろうか。見た目で言えばリルリーシャよりも幼い。異世界のことはよくわからないが、きっとこの子は外を駆け回るのがよく似合いそうだ。細くも健康そうな四肢と日に焼けた肌がその証拠だ。黒い髪をなびかせて、邪魔なときは縛ったりもするのだろうか。元気いっぱいに飛び跳ねて。そう、これくらいの子がこんなに衰弱していいはずはない。早く目を覚ますといい。
心なしか光が強くなったように見えた。それで効果があるのかはわからないが、祐治の体には明らかな変化が訪れていた。貧血のようなめまいに襲われ、脚がおぼつかなくなってくる。その様子にリルリーシャが気付いたようだった。
「馬鹿者。私の仕事を増やすつもりか」
「そういうつもりじゃないんだけどな……」
かっこよくリルリーシャを助けられるかと祐治は思ったが現実はそう甘くない。しかし、そう言うリルリーシャも自分に劣らず辛そうに見える。
「他に何か手伝えることはないのか?」
「そうじゃな……少し支えてくれ」
そう言うとリルリーシャはふらりと倒れてきた。祐治は彼女の体を受け止めるが、体に力が入らず背中から床に落ちた。
「大丈夫か?」
「ああ。すぐに元気に目覚めるじゃろう」
「そうじゃなくて……」
「私か? 少し足腰が立たないだけじゃ。ふふっ、お主と一緒じゃな」
腕の中でリルリーシャが笑った。立ち上がろうという気配は全くない。
「この程度の治癒魔法なら何の問題もないはずなのじゃが……」
そう言ってリルリーシャが祐治の瞳をちらりと見た。
「まあよい。目が覚めたらこやつをいったいどうしたものか……」
リルリーシャが祐治の膝の上を占領したまま思案し始める。彼女の近くにいると甘い匂いが香ってくる気がする。彼女だって体を洗うときは濡らした布で拭くくらいしかしていないはずなのに。
「どうしてこんなところに来たんだろうな。魔女に会いに来たようだったけど」
「だが、殺しに来たのではないようじゃな」
「こんな小さな子がそれはないだろ。……例えば何か力を貸してほしいとか?」
祐治が思い付きを口に出した。どんな形であれ森の中に人智を超えた血色の瞳の魔女がいると知れ渡っているのなら、その力に救いを求める人がいてもおかしくない。
「……やっぱり、そうなのじゃろうか」
リルリーシャがぼそりと呟いた。彼女の小さな背中が余計に小さく見える。
「嫌なのか?」
「そんなことはない! ないのじゃが……こんな風に来るなんて思ってなくて……」
「リルリーシャなら大丈夫だろ」
安心させるように優しくそう言って祐治の腕が彼女の頭に伸びた。転がり落ちた宝石に手を伸ばすように自然に祐治の手は誘われたのだった。
祐治の理性はまずいと判断し反射的に手を引っ込めようとしたが、基本的に彼女はいい子なのだ。撫でてやりたくなってもきっと当然のことである。背中越しに何かを感じ取ったのか、リルリーシャは振り向いて小鳥のように首をかしげて祐治を見上げている。
まるで甘えるようではあったが、こういう勘違いはよろしくない。祐治は迷いながらも手を引っ込めた。自分が撫でたいのと彼女が撫でられたいかは別なのである。
「……そ、そう言えばあの子は具合どうだろう。もう、目覚めてたり……あっ」
話を逸らそうと、祐治が顔を上げると少女と目が合った。困惑しているようだ。
「えっと……その……おはようございます」
言葉に悩んだ末に、出てきたのが挨拶。礼儀正しい子のようだった。
「……おはよう」
どこから見られていたのだろうか。祐治の背筋に冷たい汗が流れる。問題なことはしていないはずだが、第3者の視線なんてものは全く意識していなかったからかとても恥ずかしく感じてしまう。
少女は祐治とリルリーシャへ曇りない無垢な眼差しを向け、首を傾げた。
「魔女様、ですよね? 2人? 男の人?」
その問にどう答えるべきか、祐治は迷った。リルリーシャは間違いなく魔女なのだろう。自分はどうなのだろうか。森の中で会った男の様子から察するに赤い瞳が魔女の特徴であるようだが、自分はただそれを譲り受けただけなのだ。それも踏まえて、男だけど魔女と名乗っていいのか、魔女のしもべくらいになっておくべきか。
「い、いかにも。私がお主らの言う、血色の瞳の魔女。リルリーシャじゃ。そしてこやつは……こやつは私の……」
リルリーシャは緊張したように声を震わせ、祐治を背負うように腕を自分の前で交差させて抱きしめた。
少女はその様子を見て、合点がいったようだった。
「えっと、兄妹なんですね。私はサーラって言います。えっと、助けてくれてありがとうございました。魔女のお兄様が抱きとめてくれたんですよね。覚えています」
そう言って少女は頭を下げた。やはり礼儀正しい子である。
彼女の勘違いを正すべきか祐治は迷ったが、彼女の想像に任せることにした。説明を求められても困ってしまう。
「俺がやったのはそれだけさ。倒れた後、リルリーシャが魔法で治してくれていたんだよ」
「嘘っ、本当ですか!? 妹様もありがとうございます!」
「……その呼び方はやめよ。私は妹ではないし、こやつも兄ではない」
リルリーシャ妹扱いが気に入らなかったようで少し不機嫌そうに言った。祐治は顔をしかめる。
少女は目を白黒させて2人を見比べ、恐る恐る口を開く。
「じゃあ、えっと……お父さんですか?」
「なわけあるか!」
リルリーシャは一蹴した。
むしろ、その逆が一番近いだろうなと祐治は心のなかで呟いた。血の関係は皆無とはいえ、リルリーシャは祐治の生みの親のような存在に近い。
「まあまあ、とりあえず気にしないでくれ。こっちはリルリーシャで俺は祐治。それでいいだろ?」
「……はい。リルリーシャ様、祐治様」
「うむ、それで良いのじゃ」
「いや、俺は様付けは……」
「でも、魔女様ですから。祐治様って呼ばせてください」
どこかの窓口で呼ばれるのとはわけが違う。小さな子にこんな呼び方をさせてしまい、祐治の胸が痛む。
「そんなことより、お主はなぜこんなところに来たのじゃ?」
リルリーシャの声色が少し和らいでいる。少女のどこか気が抜ける発言で緊張がほぐれたようだ。
「それは……魔女様にお願いがあって……」
「何じゃ? 言ってみよ」
「お母さんの病気が、酷くて……」
「病か……どんな具合なのじゃ?」
「咳が止まらなくて、ご飯も食べられないくらいなの。昨日なんて、咳と一緒に血まで出てきちゃって……」
「んむ……なるほど……心当たりはあるが、まあ、見なくてはわからぬな」
「魔女様なら治せる?」
「……当然じゃ」
態度こそ偉そうだが、祐治の膝の上に収まっているリルリーシャにその威厳は無い。だが、サーラは魔女に会えた喜びでそんなことは気にも留めていないようだった。サーラは祐治の膝の上のリルリーシャを崇拝するような目で見つめている。そして、それが不意に祐治の方へ向いた。
「祐治様も約束してくれますか?」
「あ、ああ。多分、治せるよ……」
祐治はサーラから目を逸らして答えた。リルリーシャができると言っているなら多分できるのだろう。自分も無責任に彼女を勇気づけたばかりだ。それに合わせるしかない。
それを聞いてサーラは決意するように一つ深呼吸をして、震える声で尋ねる。
「お父さんが魔女様に銃を向けたって聞きました。男の人と、小さな女の子。赤い瞳だったって。そ、それでも、お母さんを助けてくれますか……?」
脳裏に森の中で会った男が浮かぶ。明確に向けられた憎しみと殺意。そしてそれを示すかのように向けられた長銃。祐治は言葉を返せなかった。
リルリーシャは祐治の腕に爪を食い込ませながら、はっきりと答えた。
「当然じゃ。そんなもの関係ないわ」
リルリーシャのその返答を聞いた瞬間、少女の目からポロポロと涙の雫が溢れ出す。その表情に悲しみの色は無い。安堵の笑みを浮かべ、幸せそうにしている。それでも表しきれない感情が行き場を失い涙となっているようだった。
「やったぁ……お母さん、治るんだ……」
だが、それがどんなものであれ裕治は女の子をあやすような技術は持ち合わせてはいない。リルリーシャもそれは同じようで2人は少女の気が済むまで泣かせるしかなかった。
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