第8話 概ね平穏な天国

「さて、どうじゃ? ここでの暮らしは?」


 祐治が死んでから数日、彼に割り当てられたはずの部屋を我が物顔で入り浸っているリルリーシャがそんなことを尋ねる。地べたに座った2人の間には等間隔で縦横に線が書かれた板、そしてその上には剣や槍や盾など、様々な武器をかたどったオブジェが置かれている。リルリーシャが館のどこからか持ってきたボードゲームだ。


「意外と元の世界と変わらないものなんだな。これだって似たのがあるしあまり不便はないかな」


 弓の駒を動かす。ルールとしてはチェスと似たようなものだ。カードも持ち出してきたが、絵柄の種類や番号に差異があるだけのトランプである。その遊び方も聞いたことがあるようなものか、すぐに理解できるようなものばかりであった。

 ボロボロになりながらも館に残っている他の道具や家具も同じである。多少差異はあっても使い方が想像できる形をしていて、桶は桶で箒は箒である。そもそも使い手である人間が生前の世界と同じような姿形であるからそう不思議ではないことなのかもしれない。


「あっ……ま、まあ、それならよいのじゃ」


 祐治のその手によって、リルリーシャの主力の駒が危機に陥る。キングとクイーンの両取りに近いような状態だ。リルリーシャの手が盤の上空で止まった。


「まあ、不便しないのはこの体のおかげかもしれないけどな」


 リルリーシャが作ったこれは基本的な身体能力が秀でているだけではない。魔力で全身の感覚と肉体を維持しているこの体は飢えることはない。かといって食物を食べられないわけではなく味覚もあるそうだ。五感は通常通り備わっており、生前の体と比べてほとんど違和感がない一方で、痛みなどの強烈な刺激に関してはある程度遮断することも可能である。

 それらのおかげで、現代世界と比較すると全くライフラインが通っていないこの館でもほとんど不便なく暮らすことができている。


「私の魔法にかかれば簡単なことじゃ。……それより、一手戻してくれんか?」

「……はいはい」


 リルリーシャはこの手のゲームは得意ではなさそうだ。祐治とてこの手のものはたまに時間つぶしに遊ぶ程度だがそれにも全く及ばない。年寄りくさい言葉遣いをするが意外にも考えは短絡的で2,3手先のことも考えていない。


「お主、今私をバカにしたじゃろう?」

「うぇっ! 魔法で心まで読めるのか!?」

「……その手があったか。いや、私はそんな卑怯な真似せんぞ!」


 リルリーシャは強力な駒である斧槍を持ち上げると盤に叩きつけた。その手もあまり良くない。


「できるのかよ……」


 この前に軽く魔法についてレクチャーを受けたが、リルリーシャが言うには魔法とは「理を超えたわがままを世界に押し通させる力」らしい。当然世の摂理を大きく超える魔法は難しい魔法ということになり、難しい魔法ほど強い意志と魔力、そして体力が必要になるとのことだ。魔力はその交渉力、簡単に言うと「わがままを言う声」らしい。魔力が高い、つまり声が大きいほど無茶な願いを押し通せる、ということらしい。もちろん、それはノーリスクではない。世の理を曲げた反動はその者の生命と精神に来るらしい。


「さあな。だが、難しいじゃろう。他人の精神、肉体に干渉するものは本人の抵抗に大きく影響される。心を読まれたい者はいないじゃろう? 逆に治癒魔法などは本人の後押しもあってそれほど難しくはないぞ。逆に自分の考えを送り込むとかも難しくなさそうじゃな」

「ふーん。そんなものなのか。じゃああの剣を出す魔法、簡単にやってたけど難しい部類なのか」

「あれは私の得意魔法じゃが、基本的に物質の生成は簡単ではないな。私も剣しか作れぬ」


 剣しか、そう言うリルリーシャの瞳の奥に暗いものが見えたような気がした。剣に対して何か思うことがあるのだろうか。それを聞こうとして祐治は何とか飲み込む。触れてはいけないような気がした。

 祐治は言葉を返す代わりに弓を先とは違う場所に動かす。数秒固まった後、リルリーシャはふてくされるように背中から寝転がった。


「もういい。私の負けじゃ。全然面白くない。お主、強すぎじゃ」

「いや、リルリーシャが……」

「弱くて悪かったのう」


 拗ねるように転がったリルリーシャを見て祐治はため息を吐いた。

 少し一緒に過ごして祐治は気付いたがリルリーシャは意外に子供っぽい。初めに出会ったときは、その人間離れした力に手の届かない存在にも見えたものだが、そのイメージは徐々に溶けつつあった。確かに強大な力を持っていることは事実なのだが隙も多い。普通の子供並には面倒を見たくなってしまう。それが妖精のように幻想的で可憐な少女であればなおさらのことだ。


「起きろって。汚れちまうぞ」

「そんなに部屋の掃除を怠っているのか……?」


 リルリーシャはそう言ってうつ伏せになり、指を床に擦り付ける。鑑定するようにまじまじと指先を見つめ、ホコリを飛ばすように小さく息を吐いた。この館ではやることが無くて掃除は祐治の日課になってしまっているからそんなものはあるはずないが。


「お主もこっちへ来い。一緒に横になるのじゃ」

「えぇ……」


 リルリーシャは平気でこんな距離感を無視した発言が多く、祐治としては悪い気はしないが、困っていた。

 ぶつからないように盤を片付け、祐治はリルリーシャの横に寝転がる。体が触れないように慎重に。


「うむ、それでよい」


 隣から満足そうな声が聞こえた。こんな風に何もせずに一緒にいることを要求されることはこの数日でもよくあることだった。ある日には隣に座らされ、目の前に鏡を置かれて。リルリーシャはそれを見て微笑んでいた。幻想的に美しい景色でも見ているかのように、恍惚として。

 一方で、祐治にはどうにも鏡を見るのは好きになれない。生前、並以下の容姿を見るのが苦痛だったこともあるが、自分が映るはずの位置に全く知らない人間がいるというのはそれ以上に不快なものがある。その男の体を動かしているのは間違いなく自分なのだが、この西洋風の爽やかな美男子が自分だと認識できるにはまだまだ時間がかかりそうだった。そう考えると今回は鏡がないだけマシなのかもしれない。


「手をに触れていいかのう?」


 返事を待たずにリルリーシャが祐治の手に触れ、指が絡まった。祐治は動悸が激しくなるのを感じた。

 嫌なわけではない。だが、女性経験が無かった祐治にとってすんなりと受け入れられるようなことでもなかった。一切の綻びもない絹織物のように滑らかな指はこの体の手だけではなく、心をも鷲掴みにされるようだった。


「ふふっ、お主を感じるぞ。他人を感じるというのは、ああ、やはりこんなに素晴らしいものなのだな」


 リルリーシャはそのまま掴んだ手を自分の胸の上まで運び、宝物を抱くように両手で包み込んだ。

 その様子に祐治は本能的に危ういものを感じながらも、手を振り払うなんてことはできるはずもない。そんなことをしたら、彼女が壊れてしまいそうに思えた。彼女はひび割れた宝石のように脆そうで、そのひび故には光を歪に曲げ、一層輝いて見えてしまう。


「なあ、いい友達になるのに1つ思いついたことがあるのじゃ」


 リルリーシャがじっと探るように瞳を見つめてくる。


「それはな、互いを理解しあうこと。他人と友達の線引きは、やっぱり相手を知っているか否かも大きいと思うのじゃよ。より深く知り合えばより深い仲になるのもであろう?」


 どこか狂人じみている彼女も考えることは存外まともである。祐治もリルリーシャの言葉を否定しようとは思わなかった。


「だからな、ちょっと目を閉じていてくれぬか?」


 そして裕司には前後の文脈の繋がりがよくわからないのもよくあることだ。だが、世界が違って魔法という理解不能な力まで存在するとなればば多少論理が違うことも当然なのかもしれない。祐治は疑問を持ちながらもリルリーシャに従って目を閉じた。


「ちょっと待っておれよ……」


 微かな吐息が祐治の頬を撫でた。

 2人きりの部屋で指先を絡めあい、互いの息を感じられるほど身を寄せて、瞳を閉じるようねだられる。まさか、と思って薄く目を開けると唇が触れ合いそうなくらい顔を寄せてきたリルリーシャが居た。


「おわぁああ!!」


 祐治は反射的にリルリーシャを突き飛ばした。下から突き上げられる形になった彼女の体は、放物線を描きながら2、3回転して部屋の壁にぶつかる。


「あぁ……その……ごめん」


 祐治は体を起こし、半ば後悔しながら謝った。

 リルリーシャは痛そうに頭を押さえながらゆっくりと立ち上がり腹立たしげに言った。


「……互いの理解が足りないとこうなるのじゃよ。魔法で私の記憶をちょっとお主の頭に注ぎ込んでやろうとしただけなのに……」

「それは……理解の上でも突き飛ばしたかもな」

「なんでじゃよ! それが一番手取り早いじゃろ!」

「それはそうかもしれないけど、お互いを知るって言ったら少しずつ話し合ったりして、そういうのはよくないんじゃないかなと」

「お主、意外とわがままなんじゃな」


 ボソリと恨みがましくリルリーシャが呟く。


「何か言ったか?」

「別に何も言っとらん」


 リルリーシャは憎々しげにそう言い、数歩歩くと急に足を止めた。そして集中する様に瞳を閉じ、下を向く。


「リルリーシャ?」

「……誰か来たようじゃな。この前の男か? いやこの感じは……」

 その呟きを聞いて祐治は森の中で銃を向けてきた男を思い出し、不安に駆られたがすぐにそれも消えた。情けない話だがこの人智を超えた魔女様なら簡単に追い返してくれるだろう。多少子供っぽい部分はあっても、その力は絶大だ。


「ごめん……ください……」


 そんな考えは知らない声にかき消された。最後の力の絞りかすのような、微かな声だったがそれでもはっきりと祐治の耳には聞こえた。


「今、声が……玄関か?」

「うむ、だろうな。見に行くとするか」


 祐治は部屋を出ていくリルリーシャに続いた。

 聞こえたのは若い女の声だった気がする。それも小さな子の声だ。まさかそんな子が魔女を殺しに来ることはないだろう。祐治の足取りは重くはなかった。


「ごめん、ください……!」


 玄関の扉の向こうからもう一度声が聞こえた。間違いなく女の子だ。酷く苦しげでだいぶ衰弱しているように聞こえる。

 祐治は急いで扉に近づき、思い切り引き開けた。同時に小さな体が倒れ込み、黒く長い髪が舞う。目を奪われたわけではないが手で支える暇も無く、祐治は彼女を抱きとめる。


「大丈夫か?」


 少女は力なく顔を上げた。そして祐治の瞳をじっと見つめ、微かに笑った。


「やったぁ……魔女、さまだ……」


 そう呟くように言葉を漏らして、彼女の全身から力が抜ける。糸を切られたマリオネットのようだった。


「おいっ、しっかりしろっ!!」


 もしや息を引き取ってしまったのかと、焦った祐治は少女の体を揺らす。返事はない。祐治は思わず助けを求めるように振り返った。

 リルリーシャは想定外の来客に驚き、呆然としているようだったが、祐治の視線に気付くと少女をまじまじと見て、呟いた。


「……死んではおらん。極度の疲労じゃな。中に運んでやろう」

「本当か!? じゃあとりあえず……俺の部屋か?」


 祐治に与えられている部屋はこの屋敷で一番マシなのだ。1つしかないベッドもそこにある。

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