夢の背景

文月瑞姫

 

「運命なんてないんだってことだよ」


 美悠がアイスティーの氷をからからと鳴らすと、合わせるようにカウベルの音が響く。授業を放り出して喫茶店で過ごす昼下がり。美悠は確か三限が空きコマだから、丁度良かっただろう。


「悟ったこと言うの、咲那のクセだよね。どうせまたフラれたんでしょう?」


 呆れたようにストローを咥える美悠。彼女はどんな話も聞き流してくれるから、こういうときに便利なんだ。


「うん」

「やっぱりね。今度はどんな人だったの」

「いつもと同じだよ」

「ふうん」


 具体的にいつからと思い出すことはできないが、小学生半ばくらいの歳だったと思う。私は夢の中にいる男の子に気付いた。主役でもなければ脇役でもない。背景の一部として、彼はいつも本を読んでいた。私に分かるのはそのくらいで、何の本を読んでいるとか、どんな顔をしているとか、そういうことを見ようとすると途端に視野がぼやけてしまう。

 私はずっと、その男の子に恋をしていたんだと思う。彼の顔を一目見たくて、彼の声を一言聞きたくて、夢に関する本を漁り続けた。明晰夢に関する本はたくさんあったが、いざ明晰夢に立ち会ったとしても、彼だけはぼやけたままだった。


 大学生になってすぐ、学食の端にいた男の子に声を掛けた。人見知りがちな私が、それも異性に声を掛けるなんて、彼をあの夢の男の子と重ねて見た以外の理由はない。


「あの、夢でお会いしたことはありませんか」


 確か、こんな言葉だった。普通の人にこんなことを言えば、何か可笑しな人だと思われることだろう。それでも私は、「彼」なら笑わずに答えてくれるはずだと、そんな風に期待してしまっていた。

 勿論、そんなはずはない。そんなはずはないのだが、彼は不思議そうな顔をしながら私の名前を聞いて来た。お互いの名前を知ってから、彼の読んでいた本について語り合った。その出会いを運命だと疑わなかった私は彼と結ばれ、半年くらいの付き合いを続けた。

 そして、彼が「彼」でないことを知る。彼が夢について話すから聞いてみたら、彼は夢の主役を飾っていた。それはどうにも「彼」ではない。夢から目覚めた時の、高揚が終わる感覚と共に別れを告げた。


 それからも、似たような恋を続けた。今回もそんな、今となってはつまらない思い出を重ねた。


「要するに、夢に出てきた誰とも知らない男を探して、そうじゃないから別れたってわけ?」

「まあ、うん」


 美悠は飲み干したグラスを除けて、溜め息と共に頬杖を突く。


「いつまで夢見てんの。そういうのって中学生とか、良くて高校生までで終わらせるものでしょ」

「そうかも、うん」


 歯切れの悪い返事しかできない。私としても、そろそろ終わりにしたい。美悠にこんなことを話したのは、その背中を押してほしかったからだろう。朝になれば布団を剥がしてくれる母親みたいな、そんなものを求めていたのかもしれない。

 情けなく笑うと、三限が終わったのか学生の列が入店のカウベルを乱暴に鳴らした。


「行こうか」

「うん」


 やや騒がしくなった店内から抜け出す途中、視野の端に「彼」がいたような気がした。

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夢の背景 文月瑞姫 @HumidukiMiduki

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