4 前田由香 8月1日 17時10分
「お呼びでしょうか、ご主人様?」
さっきから後ろのテーブルがうるさいのは気づいていたのだが、『ゆったん』という単語が出てきたところで、わたしはようやくピンときた。
さっき入ってきた客が常連客だということはなんとなく覚えていたのだが、一週間くらい前にやたらしつこく、わたしの本名を聞いてきたヤツだということまでは思い出せなかった。
しつこく話しかけてくる客はいっぱいいる。
「名前教えてよ」と言ってくる客も少なくない。(わたしの本名を知って、わたしの何を知ったつもりになろうというのだろうか?)
個人的な情報は一切教えないのがルールだし、実際教えることなんかほぼないのだが、多分その日のわたしはどうかしていたんだと思う。
キモオタの中でもよりによって、なんでこんなレベルの高いところに教えちゃうかな~?
わたしのバカめ!
「ゆったん……」
なおも名前を呼ばれそうになったので、小さい子に「シーッ」ってやるように人差し指を彼の口元に持っていった。
「ご主人様、私はあんずと申します」
さっきまで彼の対応をしてくれていたみるくちゃんに軽く頷くと、意図を察してくれたのか、そっと別の場所へ行ってくれた。
「メッセージですね?なんとお書きすればよろしいでしょうか?」
オムライスの上のプレーンな卵焼きを見つけた。こういう時はなるべく関係性を事務的なものに戻したほうが賢明だろう。
わたしの顔をずっと見ていた彼も皿の上に目を落とした。
「えっと、じゃあ……『こうくんLOVE』って書いてもらっていいですか?」
アタシは聞くが早いがパン屋のスタッフ顔負けのスピードで正確に文字を書いていった。そして、ついでにもう一つ自分から仕事を申し出た。
「ご主人様、うずまきカフェモカにおいしくなる魔法はかかっていますか?」
「……あ、まだです」
「では、ご主人様もご一緒に魔法をかけていただいてよろしいですか?」
「あ、はい……」
「ではいきますよ~。せーの、ぐるぐるぐるぐるモ~カモカ。ぐるぐるぐるぐるモ~カモカ…………」
わたしは「いーとーまきまき」の動作をしながら(わかるかな?)、自分自身も右にゆっくり回っていき、おいしくなる魔法をかけた。
キモヲタのご主人様もそれに倣う。
(……何やってんだろ、わたしは?)
ふと、窓ガラスに自分と彼の姿が映る。
メイドカフェにほぼ毎日来る、目の前のご主人様ははっきり言ってとても下らない。でも、そんな人間の相手をすることで生活費を稼いでいるわたしもコイツと同じくらいには下らない人間だ。じゃあ、たとえば店長はこの店で一番偉いぶんだけ、わたしよりも下らないのだろうか?
思考を停止して魔法を唱え終わる。
「おいしくな~れ!……は~い、ご主人様もがんばってくれたので、とってもおいしくなりましたよ~!」
薄い照れ笑いを浮かべたご主人様を残し、わたしはカウンターに戻ることにする。
「では、ごゆっくりお過ごし下さいませ!何かありましたらすぐにお呼び下さいませ」
カウンターまでのほんの数メートルの間に思い出されたのは、さっきの『いーとーまきまき』の動きだった。その動きが昔よく見ていたある動作ととても似ていたからだ。
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