第19話 減ポイントポイント

 頭が冷えてきて正常な思考が戻ったのは、会社から家に向かう道の途中だった。


「……はぁ、やっちまった……」


 処分がどうなるかは分からないが、最悪の場合はクビってこともありうる。

 そうなったらいよいよ無職だ。


「はぁ……」


 足が重い。課長の家に帰るのが非常に心地悪い。

 それはたぶん、今まで育ててもらった課長に対して、今回裏切るようなことをしてしまったからだろう。


「ちょっと寄り道するか……」


 家を遠ざけるようにふらふらと歩き続ける。

 なんて情けない人間なのだろうか。あまりの情けなさに思わず涙が出そう。


 グダグダと行く宛もなく歩いていると、やがて見知った看板が見えてきた。


「あれ、ヒコくん?」

「なぎっちゃん……?」


 そしてその前には、にゃははーと笑いながら野良猫に餌をあげているなぎっちゃんの姿があった。

 俺はいつの間にか、なぎっちゃんがバイトをしているカフェの前にいた。


 なぎっちゃんは俺に気がつくと、にぱっと花が咲くように笑う。


「どしたの〜? まだ朝早くだよ? あ、もしかして……サボった?」

「サボっては……いや、そんなところ、ですかね」

「…………何かあったの?」


 俺はいつも通りに振る舞っていたつもりだったが、どうやらなぎっちゃんにはわかってしまうらしい。

 俺が下を向くと、その顔を見るかのようにさらに下から覗き込んできた。


「どしたの? 話聞くよ?」

「いや、でも、それは……」


 ファンである俺が、推しに対して相談するのはおかしいと思った。

 それも聞いていて不愉快になるような内容だ。


 でもなぎっちゃんはそうは思わなかった。


「大丈夫。ファンの子を元気づけるのがアイドルの仕事なんだから、ねっ」


 そう言って「ほら」となぎっちゃんに急かされるがまま、俺は店の中に入っていった。




 俺となぎっちゃんはカフェの一席で、向かい合って座っていた。


「そんなことがあったんだ〜」


 さっきまでの俺の迷いはなんだったのか、なぎっちゃんの導くままに俺は全てを話していた。

 いや、違うんだ。なぎっちゃんがあまりにも聞き上手だっただけなんだ!


「怒っただけで手を出すとか、中学生かって話ですよね……あはは」


 自嘲気味に言うと、なぎっちゃんも「うーん」と唸る。


「さすがに暴力は減点ポイントかな〜。減ポイントポイントかな〜」

「減ポイントポイントですよね……」


 やはり減ポイントポイントだった。なんだ減ポイントポイントって。


 でも、何もかもを慰めてくるわけじゃないところに少し安心する。

 それだけなぎっちゃんは正直に話してくれているって思えるのだ。


「向こうさんのお怪我はどんな感じ?」

「あんまり覚えてないですね……顔だけは避けたような、避けてないような……」

「そこは避けてるって言うところじゃないんだ……」


 呆れ顔のなぎっちゃん。

 でもしょうがない。あの時は我を忘れていて記憶が本当にない。


 なんかそんなところも嫌になってくるな。都合のいいように記憶が無いとか。

 改めて俺という人間に辟易へきえきする。


「でも、後輩ちゃんのために怒ることができたのは、プラスポイントじゃん」

「……なぎっちゃん?」


 しかしそんなタイミングでなぎっちゃんは遠くを見ながらそんなことを言った。


「だって、本当に大事に思ってないと、そんな風に怒れないでしょ?」

「後輩の悪口言われたら、普通誰でも怒ると思いますけど」

「嫌な気持ちになる人はいても、ヒコくんみたいに動ける人はそんなにいないよ」


 彼女はちょっと待ってて、と言うとカフェの奥に消えていく。

 そして戻ってきた彼女の手にあったのは、携帯電話だった。


「これ見て」

「なんですか?」


 携帯の画面を見せてくる。

 そこに写っていたのは、何人かの女性が集まって撮った集合写真だった。


「これは……にゃんジュースのメンバーで撮ったやつですか?」

「そう。まだ配信もやってなかったし大した活動もしてなかったから、ヒコくんが知らない頃だと思うけど」

「へーそうなんですね」


 若い頃のなぎっちゃんもそこにいた。笑顔で笑っている。

 ただそこに、一つだけ違和感があった。


「この子、誰です?」


 そう、そこには俺の知らないメンバーがいたのだった。


「この子はさつきちゃん。実はアイドル辞めちゃったの」

「辞めた?」

「そう。ファンの人から暴言を言われてね」


 なぎっちゃんの方を見ると、何かを思い出しているようだった。


「わたし、怖くてさつきちゃんを守れなかったの。そのファンの人に言い返したら、自分が今度は標的になるんじゃないかって思って」

「……それは、仕方ないんじゃ……」

「わたしは大事な人がいたのに守れなかった。何もできなかったよ」


 なぎっちゃんは自分を責めるかのように言う。

 彼女にとって苦い記憶であることは疑いようがない。


「いや、でもだからこそ」


 しかし声色が明るくなったかと思うと、彼女は立ち上がって俺の隣までやってきた。

 そしてはっきりと言った。


「ヒコくんに助けられたときに本当に驚いたんだ。私なんて大切なメンバーすら助けられなかったのに、見ず知らずの人を助ける人がいるんだって思った」

「そんなの当たり前で……」

「ううん、当たり前じゃない。ヒコくんがそれを当たり前だって思えるなら、それはヒコくんがすごいだけなの」


 自分はできなかったから、と音にならないセリフが聞こえた気がした。


「そして私がすごいと思ったヒコくんが、今度は身近な人のことを思って動いてくれた。たぶんその後輩ちゃんも救われてると思うよ」


 星崎が救われているイメージはできなかったが、なぎっちゃんが言う言葉は素直に信じることができた。

 さすが、なぎっちゃんだ。


「だから元気出して。クビになってもヒコくんなら絶対に大丈夫」

「うん、そうだ」


 あれだけ重かった足取りが、カフェを出る頃には嘘のように軽くなっていた。

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