第9話 逃した魚はビッグ
星崎とのトラブルはあったが、俺は山口さんよりも先に家に着いた。
山口さんとは仕事用のメールアドレス以外に連絡手段がないので、急いで帰った。
鍵は俺が持っているので、課長が先についていた場合は締め出されてしまう可能性があったあらだ。
「さて、遅れを取り戻すためにさっさと始めるか」
そして俺は夕食を作り始める。
今日は軽めにパスタと副菜くらいにしよう。
野菜を洗いながら、携帯で推しのアイドルの配信を見る。
すごい、平日の配信を生で見るの初めてかもしれん。ちょっと感動。
『そう、それで今日はいいことあったんですよぉ〜っ!』
『いいこと?』
『にゃんジュース』の不動のセンター、岸なぎさちゃん——通称なぎっちゃんがウキウキと喋る。
うふふ、かわいい。いつみてもかわいいなぁなぎっちゃんは。もちろん俺の最推しです、どうもミーハー人間です。
『それってここに来るときに言ってたやつ?』
『そうそう』
なぎっちゃんにいいことがあったなんて、おじさんニコニコしちゃうなあ。
『ダンスレッスンが終わって、酔っ払った男の人に襲われそうになったのよ』
「ほえ〜どこかで聞いたことある話だな」
レタスわしゃわしゃ。
『それをね、スーツを着た見知らぬ人に助けてもらったの!』
「おお、なんたる偶然」
ほうれん草わしゃわしゃ。
『連絡先渡そうとしたところで他の女の人が来ちゃったんだけど、はぁ、かっこよかったなぁ……』
「ワシや、ワシや……」
俺だ。それ。
——え、あれなぎっちゃんだったの⁉︎ いや全然雰囲気違いましたけどっていうか最推しの子に気が付かなかったの俺⁉︎
『なぎさ〜そんなこと言って大丈夫? ファンの子泣いちゃうよ?』
『えー普通に惚れちゃったけどなぁ〜』
「ぶふっ」
なぎっちゃんの言葉に、思わず吹き出してしまう。
ちなみに『にゃんジュース』はアイドルとしては珍しく、恋愛禁止がなされていないグループである。
配信を多くしていることからわかるように、かなり新しい価値観を持ったグループというのがコンセプト。そのため、「恋愛禁止のアイドルなんて古い!」という信条のもと、すでに結婚をしたメンバーもいる。
だがなぎっちゃんはその中でも、恋愛にはあんまり興味がないと常日頃言っていた。
だからこそ、惚れちゃったなどとあけすけに言ったことに俺は驚いた。
『どうする、その人がこのグループのファンだったら?』
ぎくっ。ぎくぎくぎくっ。
なんでそんな質問をするんだよぅ……。場合によってはこの場で撃沈なんてことも……。
い、いや一応俺ではない可能性もあるから、参考程度に聞こう。うん、参考程度。
『えーむしろ嬉しくない? お互いにアイドルとファンじゃないタイミングで出会って繋がりができるなんて、ロマンチックじゃん』
「天使かよ」
うふっ、うふっ。うれちぃ、うれちぃ……。
俺にもワンチャンスあるというんだな神よ!
『まあファンだったら、普通なぎっちゃんのことは気づくと思うけど』
『たしかに〜!』
あ、ないかも。次に会ったときは自称ファンって思われるかも。ファン失格かも。
よし、次に会ったときはまず言い訳から入ろう。あのときは残業続きで疲れてたんですって言おう。嘘は言ってないしな。うん。
……くそぅ、星崎がいなければ今ごろなぎっちゃんと連絡先を交換してたというのに。あいつ、絶対に許さん。
料理というものは不思議なもので、作っている途中に何かを考えていても作り終えると忘れているものだ。
つまりどういうことかといえば、料理を食卓に並べる頃には先ほどおった傷というか後悔は忘れ去られていた。
「山口さん、どうぞ」
「家に帰るとご飯があるというのはすごく助かるわね」
山口さんがお礼を言いながら食べ始める。
パスタを綺麗な所作でフォークに巻きつけると、そのまま小さい口に運んだ。
「ん、おいしい」
「それはよかったです。課長はいいものばかり食べていそうですから、口に合わないかもしれないと思ってました」
「人を富豪呼ばわりするつもり? 一人の時はいつも簡単に済ませてるわよ」
こうして生活を共にしてみると、相手の知らなかったことが色々と見えてくるものだ。
なるほど、同棲までいって別れるカップルの気持ちがわかったぞ。いや、俺は別に山口さんの嫌なところを見つけたとかじゃないけど、いちいち価値観が違ってくると疲れそうだもんな。
「そういえば帰りに星崎さんと会ってなかった?」
夕食の話題として、課長からそんなことを聞いてきた。
「会いましたよ。たまたまですけどね」
「そう。ち、ちなみに何を話したのかしら?」
「え?」
たわいのない雑談だと思っていたので、まさか突っ込まれるとは思わず驚く。
うーん、話した内容はアレだしなぁ……。適当のごまかしておくか
「ただの世間話ですよ」
「そう、言えないことなのね」
だが何を曲解したのか、課長はそんなことを言う。
まあ言えないことではあるけど、隠し事でもないんだよな。
というか星崎の話というのもあんまり実際は大したことがなく、それ以上に俺がアイドルに会っていたという衝撃の事実の方が隠したいくらいだ。
「まああれですね、仕事のこととかです」
「……そう」
誤魔化しているのは伝わってしまっただろうけど、それくらいは大丈夫だろう。
課長も星崎のことはあまり好きじゃないだろうし、それ以上この話にしておくのもまずい。
「それより燃えた家のことで保険会社と……」
そこから業務連絡を少し交わしたが、山口さんの顔は険しいままだった。
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