第6話 内緒内緒っ
朝の9時。始業時間に奴がやってきた。
「ういーす、寿彦おはよーさん」
「小林か」
性格の悪い男、役に立たない男、弾け飛んで欲しい男の3部門で1位に輝いている、同期の小林だ。
「昨日は大変だったみたいだな〜」
「同期が大変な目に遭ってるのに他人事かよ」
「まあ俺は昨日もまーちゃんと愛しあってたからな」
おっと、今一番嫌いな男でも第一位になったぞこいつ。
すごいな、ぶっ飛ばそう。
「でも逆に俺がお前に心配だってメール送ったら怖くね?」
「送るのが当たり前だバカタレ」
お前の茶髪、全部刈り上げてやろうか。
丸坊主の方が似合ってそうだぞ。さっさと別れやがれ。
小林の方は特に悪いと思っている様子もなく、バッグを床に置いてうーっと背伸びをした。
「そんで、昨日はどうしたの? ホテルにでも泊まった?」
「いやそのことなんだがな……」
小林に聞かれたので、俺は昨日の出来事をひとつひとつ話した。
山口さんに泊めてもらった経緯あたりを中心に丁寧に話す。
するといつ以来かわからない、小林が驚いた顔をしていた。
「マジ? え、じゃあもう……できちゃった?」
「なんで事を済ませた前提なんだよ。何もしてねえわ」
「うっそ」
信じられない、という顔で小林が見ている。そりゃこいつはいつもまーちゃんとかいう生き物とちゅっちゅいちゃいちゃしてるもんな。頭の中がピンク色なんだろう。
しかしそんな驚く声が大きかったからか、俺の向かい側のデスクにいる星崎が声をかけてきた。
「何かあったんですか?」
「いや、それがな〜俊彦のやつがグフッ」
何か良くないことを言われる前に腹パンチをしておいた。
もちろん息の根を止めるため——じゃなくて口封じのため……でもなくて、あれなんて言うんだっけ。先んじて、ってこれもなんか違うな。
いかんいかん、殺意のせいで単語のチョイスが下手になってる。
「ってめぇ、覚えとけよ……?」
「すまん、普通に手が滑った」
「普通に手が滑るってなんだよゴラ」
俺たちの会話に、星崎も意味がわからないと言う顔でまたパソコンに向かい直した。
ふう、頭のいいあいつでもそこまではわからなかったか。よかったよかった。なんかゴミを見る目で見られたけどグッジョブ。
「それでお前、今日はどうすんの?」
星崎の注意がそれたことで、また小林が話を戻す。
「そうだな……まさかお前が泊めてくれたりとかは?」
「嫌だ」
「じゃあホテルでも取るかな……保険降りるまでもうちょっと時間かかるだろうし、あんまり金は使いたくないけど仕方ないな」
アイドルの握手券のためにお金を使っていたのは内緒だ。
別に人気グループではないけど、握手券を買うと言う
「山口さんがもう1日泊めてくれるって言ったら?」
「それはさすがに悪いからな〜たぶん遠慮すると思う」
心優しい山口さんならそう言ってくれるかもしれないが、その好意に甘えすぎるのもよくないと思った。
「おっけ。じゃあまた困ったら連絡しろよ。星崎ちゃんになんとかするように頼むから」
「お前が解決してくれるわけじゃないのな」
そう言って俺たちはまた仕事に戻った。
夜の5時過ぎ。
そろそろいつものように残業の声がかかるはずだったが、いつまで経っても山口さんが何も言ってこない。
とそんなことを考えていたら、ちょうど山口さんがこっちへ向かってきた。
「阿賀くん、これの整理しておいて」
「?」
最初に疑問に思ったのは、残業というワードがなかったことだ。
クリアファイルをぽんと渡されただけ。中には2、3枚書類が入っているようだけど、もしかしてこれの処理がめちゃくちゃ面倒だったりするのか……?
などとそんな変な妄想をしていた俺だったが、クリアファイルの裏に黄色い付箋が貼ってあることに気がついた。
「なんだこれ?」
裏に何か書いてあるのかと思いぴっと取ると、そこには小さな字でこう書いてあった。
『お疲れ様。今日は定時で帰っていいわ。このクリアファイルの中に鍵入れてあるから。先に帰ってて』
「〜〜〜〜っ!」
きゅんです。きゅん。惚れます、こんなの。
まずお疲れ様って書いてある。え〜言葉にされるとこんなに嬉しいのこの言葉。
それに大事な単語『定時』という言葉も入っている。この言葉は『ジャンヌダルク』とか『解の公式』とかよりも大事な言葉だ。俺はたしか中学生の時にそう習った。
しかも鍵。これって信用の証だ。見ず知らずの人に自分の家の鍵を渡すことは無理だ。つまり俺は長年の残業の甲斐があって、山口さんに信頼されているということだった。
そしてダメ押しに先に帰っててっていう言葉。うわ〜これカップル感がすげえ。付箋でのやりとりも内緒な感じがして、いけない社内恋愛してるみたいですごいドキドキするな。
「いや、でも……」
だがそんなお気楽なことを考えていた俺だが、ふと思考の端に陰りが生まれる。
この鍵を受け取るということは今日もお世話になるということだ。
二日連続である。
そこで申し訳なさを感じない人間はいないだろう。あっちも気を遣ってこんなことを言ってくれているのだから、こっちも気を使わなければ。
「あの、課長……」
だが、俺がデスクを立つと課長がこっちをまっすぐ見ていた。
そして顔を横にぶるぶると振る。「変な遠慮はいらない」とそう言っていた。
「……そうだな。遠慮よりもお礼を言う方が先だ」
課長の優しさに触れた俺は、その後の時間を仕事に集中した。
—————————————————
全員が帰ってからも、山口は一人仕事をしていた。
彼女は優秀な人間ではない。優秀さで言えば後輩の阿賀や、そのさらに後輩の星崎の方が優秀だと言えるだろう。
だからこそ、人よりも努力をする。
失敗がないように念入りにチェックを入れるし、勉強の時間も多く取る。
それが彼女の生き方だった。
「…………だ、大胆に鍵を渡しちゃった……!」
しかし一人の空間ではどうしても素の自分が出てしまう。
「い、いやでも、残業はしてもらってないし……、うん、だ、大丈夫なはず」
ここに小林でもいたら「何が大丈夫なのか」とツッコミを入れていただろう。
ただ今は一人なので、山口の中ではOKということになった。
「というか明日から休日だし……ど、ど、どうしよう……」
彼女の独り言は、誰にも聞こえないまま暗闇に溶け込んでいった。
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