第8話 交渉と疑惑

感情を爆発させたのは、彼が軽率な行動をとったから。


バン!と机を叩き、椅子を蹴って立ち上がる。



鬼の形相を浮かべ、カッカッカッ!と靴を鳴らして向かうのは、玄関口。



部屋を出る前に上着を乱暴に羽織り、近くの女中を呼びつけた。



「お待ちください!今日は、午後から習い事があります!」



だが、行動を止められた。



「黙りなさいっ。一大事よ。今日は中止にして。今から雪都様に会うから、馬車を用意して」



それだけ強く言うと、彼女はハッとして言葉を飲み込み、「わかりました」と頭を下げた。




バタバタと離れていく彼女を見て軽くため息をつき、昂っている感情を発散するように、大きくため息をついて、ガッ!と力強く床を踏みつける。



…幾分、それで、気持ちがスッキリした。



「なにをしたの?雪都様」



三日振りの手紙は、雪都様の物ではなかった。


何故か、苓様の物だった。



女学院の近くを恋人のように歩いたその三日が経ち、同学生や他からの質問攻めに合いつつ、仲睦まじく見せた姿に彼等は羨ましいのだの、良かったのだの、素敵だっただの、好き勝手に感想を聞かされた。



まあ、それは予想していたので、笑顔で受け答えして流したが。



「苓様が、会いたいなんて!やっぱり、あの事よね」



母屋を通り過ぎ玄関を出て、ハラハラしながら、用意された馬車に乗り込む。



御者の講さんが馬に鞭を打ち、馬車が動き出した。



握りしめて離さなかった手紙に気づき、ハッと離すと、くしゃくしゃになったそれを広げる。



もう一度、手紙に目を通した。



『兄との企みは知っております。その件について、お話があります。午後十四時。旧鹿鳴館通り、帝国ホテルにて』



この手紙が届いたのは、三時間ほど前だった。



読んですぐに支度して、もう一度読み直し、感情が爆発した。



苓様からの手紙にこの内容。失敗したからだと、私はこれを提案した雪都様に対し、怒りが湧いた。



でも、それは…先ほどの蹴りで薄れた。自分も賛同して行動しているのだから、彼だけのせいではないのだ。



自己嫌悪した。


馬車は文明開花した外国用の建物が並ぶ大通りを通り、待ち合わせの帝国ホテルに近づくにつれ、不安が募っていった。



「お嬢様。ホテルの前に着きましたよ」



簡単に、入れない。



華族御用達の高級ホテルと言ってもいい。



尻込みしながらも、私は馬車を降りた。



「ありがとう、講さん。迎えはいいですから」



それだけ伝えると、講さんが馬に鞭を入れ、馬車は元来た道を戻って行った。



「ふぅ…。よしっ、行こう」



馬車を見送ると、私は気合いを入れて、聳え立つ帝国ホテルの方に振り向いた。



帝国ホテルには祖父に連れられて、二度ほど行ったことがある。



だが、自分はまだ幼かったため、祖父が何の用事があってここに来たのかまでは記憶になかった。



ぼんやりと頭の片隅に浮かぶのは、厳格である祖父が、ここで同じ歳ほどの男性と、それも派手な容貌の人と会っていた。その相手にはどこか気さくで、砕けた口調で話をされていたので、きっと古い友人だと思う。



その男性と話し合っている祖父の横で、私はどこの誰かは分からない、同じ年頃の男の子と遊んでいたような気がする。



薄ら覚えている記憶を辿りつつ、楽しそうにしていた祖父の姿を思い出していると…。



「相も変わらず素敵でしたね!もう、本当に驚きましたわ!」



一際高い女性の声が、ホテルの方から聞こえてきた。



その声にハッとして我に返ると、二人の三十代ほどのご婦人がこちらに向かって歩いて来ている。



「そうよねぇ。あの優しい眼差しに、麗しい顔。私がもう少し若かったら、あのような方とお付き合いできたかもしれないわ!」



もう一人のご婦人が乙女のようにうっとりした顔を見せる。



「まぁまぁ、洋子さんったら!哲さんという素敵な旦那様がいるのに悪いわよ!」



「いやねぇ、旦那は旦那!そう言う琴葉さんもあの方にお声をかけようかと、はしゃいでいたじゃない!まぁ、でも、あの場所でお一人でいるなんて、お仕事の関係の人と待ち合わせをされていたのかしら?それにしても、妙に物思いに耽っていらっしゃったわ」



初めのご婦人が茶化すように弾んだ声を上げて、もう一人のご婦人も同じように返してから、首を傾げて不思議そうに言った。



「ああ、そうでしたわね。まさか、誰かと逢瀬なんてことも…!ああ、でも、そうなるとこのホテルで会うのは目立ちますわよねぇ」



初めのご婦人もその疑問に対して、腑に落ちない様子で話をされる。



その会話の内容に、私はドキッとした。



彼女達が誰の話をして、その誰が誰と会おうとしているのか、理解したからだ。



あの人達は、まさに今、私が会おうとしている苓様の事を話しているのだ。



「…まさか、そんなに目立っているの?」



侮っていました。彼の人気に。



ご婦人達は私の前を通り過ぎて行く。



話題にされていると分かると、ますます緊張した。



「はぁ〜…。本当、厄介だわ」



正直、今すぐ右回れして帰りたい。


でも、それはできないのはわかっている。すでに苓様を待たせているし、彼の誘いをお断りする事はできない。



気が滅入る中、重くなった足を動かして、私は帝国ホテルに足を踏み入れた。



入って一階ロビー、奥に机を囲む椅子。それが並び、広々としたそこから受付に向かう。



受付の方に、高良伯爵様の名前を出すと、奥へ向かうように言われた。



死角になった、窓際の席。



一人の男性が席に座っている。紺色のジャケット、黒のウェストコートを着て、静かに座って見えた。



机にはお皿とコップ。



絵に描いたような綺麗な顔には翳りを見せて、微かにため息をついている。



ここからでも分かるが、悩んでいるような憂いのある表情だ。



よく見れば、先ほどすれ違ったご婦人達と同じ、近くにいるご婦人達がチラチラと視線を送って、話しに花を咲かせている。



でも、彼はそのことに気づいていない。



私は緊張にごくり、と生唾を飲み込み、カチコチになった手足を動かして、彼に近づいた。



「高良伯爵様。お待たせいたしました」



この場所らしく、伯爵と呼ぶと、ハッとして彼が顔を上げた。



「お久しぶりでございます」



会釈をして続けて言うと、憂い顔が微かに綻んだ。



「あ、ああ、久しぶりだね、透子さん。さぁ、そこにおかけ下さい」



苓様に勧められて、向かいの席に腰をかけた。



チラッと、私は近くの右の席のご婦人に視線を向けると、彼女達は驚いたような表情を浮かべ、何やらヒソヒソと話をしている。



そこに、こほっと、苓様が軽く咳払いをした。ハッとしてそちらに集中すると、彼は私にいつもの優しい笑顔を向けていた。



「急な誘いだったのに、来てくれてありがとう。あ…そうだ、透子さん。あなたには紅茶を頼みました」



本題に入る前に、彼は注文の内容を口にした。


「えっ?あ、ええっ、そんなお構いなく。あの、それよりもお話と言うのは、雪都様との結婚についてですよね?」



お茶を飲んでいる余裕はない。


周りも気になるし、早々にここから立ち去りたい。



上擦った声を出して私から切り出すと、苓様は微かに顔を曇らせ、頷いた。



「あ、ああ…そうだね。ここに呼んだのは、もちろんその話について。二人が、この婚姻を快く思っていない事は薄々気づいていたよ。兄にそのことについて問い質したらそのような事を言っていたので…」



やはり、雪都様は、苓様にその話をしていたのか。


だが、彼はどこまで苓様に話したのだろうか?


「だけど、これはあなたたち二人だけの問題ではなく、両家と充分に話し合った結果なんだ。正直、今更、簡単に取り消す事はできない。兄はこの婚姻事態よくは思っていなかった。それは君も、同じ思いなのかな?」



ここにきて、初めて、苓様は困ったように私に尋ねる。



この結婚に、私がどう思っているのか、きちんと意見を聞きたいのだろう。



その問いに、私は微かに頷いた。



「そうですね。ええ、私はこの結婚に反対しました。手紙をもらって…いえ、もうその前から、苓様が気づいているのを、私達も知っていました。この結婚は両者共に望んでいなかった。だから阻止しようとしました。でも、それは私達だけの一存で決まらないのも、百も承知です」



充分、理解している。



それが政略結婚。今の時代、当たり前の、それが普通である両家が決めるお決まり事。



「…橙子さんがそう答えるのも理解している。お互い不満があるから、初の顔合わせの時や、この前の御披露会を中断させたのでしょう?」



「それは…っ」


言葉に詰まる。



苓様の話からして、計画を阻止…妨害する事はもう止めて、私達が仲の良い婚約者だと見せつける事については、まだ話していない様子だ。



きっとそのことは、秘密にしておいた方がいいだろう。


そう思って苓様の様子を見ると、コップに手をつけ撫でながら、私の方をじっと見つめている。



その視線にギクッとして、顔が少し強張った。



「兄は、この結婚に反対だと意思表示をしていたよ。でも、この三日前かなぁ?あなたたち二人が仲睦まじく、女学院近くの通りを歩いていた事に」



「…え?」



その問いに、ドキ!とする。



苓様が三日前の事を知っているのは、あの藤次郎という人から聞いたからだと思う。それが私達の新たな計画であるからだ。でも、それを彼は知らないはずだ。



「兄とは…橙子さんは、いつから知り合ったんだ?ほら、ずっと顔合わせできていなかったのに、いつから仲が良かったのか不思議で…。今日呼んだのは、本当はその件を聞きたくて呼んだんだよ」



聞かれて、またすぐに答えられない。



雪都様がどこまで話しているのか分かるまで、何も、私から答えられない。



「私達は……前に、写真館で会った事があるんです」



でも、真っ向から尋ねてくる彼に黙秘を貫く事はできず、ポツリと、淡々と答えた。


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