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それに声をかけられた時、静夜の心は安堵の気持ちでいっぱいだった。例え相手がこの世のものでなかったとしても、自分以外の何者かがいるということは静夜にとって救いだった。

「君は何?」

体育座りのままで、小さな声で暗闇に向かって問いかけてみる。数秒の間を置いて、闇から声が返ってきた。

「難しい質問だね。だってそうでしょ?君だってあなたは何?って聞かれたら困っちゃうんじゃない?自分という存在をどう解釈するかってとても難しいことで、自分が一体何者なのか分かっているものなんてそうないんじゃないかな?それとも君は自分が何者なのか分かっているのかな?ねえ、どうかな?」それは早口にまくし立ててくる。

「僕は…人間だよ。」

「うわぁ、すごい。君はもう自分が何者か分かっているんだね、たいしたものだなぁ。ニンゲンね、ニンゲン、ニンゲン…それ僕知っているよ」闇の中から聞こえる声音は、道に生える雑草の名前を図鑑から探し出した少年のような、得意げな調子だ。

「あの、あれでしょ。二本足で立って、変な布で体を覆い隠してる。でもすごいよね、二本足で立てるなんて。いったいどうやってバランスをとっているのかな?なにかコツとかあるんですか?」

「そんなの…僕にも分からないよ。気付いた時には歩けるようになっていたし。ねえ、君はいったい何者なの?」

「うーん、そうだなぁ…。僕は、隙間だよ。昼と夜の隙間、有と無の隙間、窒素七十八%酸素二十一%の隙間。あらゆるものの間に僕は隠れているのさ。」

「よく分からないよ。君はこの世のものではないの?」

「だからさ、この世とあの世の間、ふたつのちょうど繋ぎ目が僕なんだよ。だって君は今僕と喋っているこの空間、この時間が現実なのか夢なのか、よく分かっていないでしょう?僕はそのふたつを繋ぐ橋のようなもので、その真ん中に君は今立っているんだね。」

「…。」頭で理解できる話ではなかった。

「自己紹介はおしまい。さて、何の話をしようか。残念だけど、君がここにいられる時間はそう長くない。誰かがここに来てくれることじたい、そうないことだから。僕は君から、君のこと、君の住む世界のこと、君の知っていることを少しでも教えて欲しいんだな。」少し哀愁を帯びた、いじらしい声だった。

なにか喋らなければ、と思ったが、考えれば考えるほど、何を語ればよいか分からなくなった。自分はなにを知っているのだろう。思い返すと静夜がこれまで生きてきた世界は掴みどころのない、輪郭のぼやけたものに思われた。

「ごめんね、困らせるつもりはなかったんだよ。じゃあさ、ニンゲンの世界のことで気になることがあるんだけどでひとつ聞いてもいいかな?」

黙ってこくりと頷く。

「あの、なにか箱みたいなものを叩いたり、縦長の、糸がいっぱい張ってあるものをはじいたり、その音に合わせて声を出しているニンゲンたちがいるよね?あれはいったい何をしているんだい?」

「それはきっと、音楽をしているのだと思うよ。」

「なるほど、あれはオンガクと言うんだね。オンガクってとても面白いものだね。聞いていると自然に体が動き出して、楽しい気持ちになる。」

「君にも体があるの?」

「もちろん。僕は隙間だから、僕が伸びたり縮んだりすると、それに合わせて世界のカタチも変わってしまうんだ。基本的に世界は秩序と調和で成り立っているのだけれど、そこにひずみができてしまう。時間にも空間にもほんの少しだけ、説明のつかない矛盾が生まれてしまう。」

「難しくて僕にはよく分からないよ。」

「大丈夫だよ。僕が動いても実際には殆ど誰も気付かない。小さな異変だからね。例えばほら、生活をしていると、たまにふと前に見たのと同じような光景を見ることはない?」

「あるよ。あれ?この場面何か知っている、何度か同じことをした気がするって。」

「それはね、僕が時間に干渉しているせいなんだよ。君の時間を数秒間前に戻してしまうんだ。そうすると君は数秒後一度見た光景をもう一度見ることになる。それが既視感の正体さ。」

火が消えてから随分と時間が経ったような気がする。これ程の時間を置いても、目は暗闇に対し一向に順応しない。視界だけでなく、風の感触、煙の匂い、底冷えする冬の寒さも今は感じない。五感は完全に消失していた。不思議と恐怖はなかった。彼が生み出した帳が静夜を現実世界から守っていた。夜の底から浮き上がるような浮遊感の中で、静夜は自分の中の虚飾が取り払われ、いのちがむき出しになっていくように感じた。

「学校に行きたくないんだ。僕は他人が怖いんだよ。何を考えているか、全然分からないから。みんながどうしてあんなに簡単に仲良くなれるのか分からない。せっかく誰かが話しかけてくれても、頭が真っ白になって何も応えられない。僕はどうしたらいいのかな?」

闇の中の存在が、なぜだか誰よりも親しく感じた。普段は言えないことも、彼になら言ってもいい気がした。

「いのちは、この世界に沢山あるけれど、どれひとつとして同じじゃない。人間も同じ人間なんて一人もいない。誰もが違う所を見ながら生きている。そりゃあ、一瞬その視線が交わることもあるかもしれないけど。たから、他の人を理解できないのは当たり前のこと。理解されないのも同じだね。でも生きていくためには他人と関わりを持たなくちゃいけない。ひたすら続く暗闇に目をこらし、笑いかけることが、すなわち生きる力なんだ。永遠にその暗闇は晴れることはない。でも見つめ続ける、その強さが君を救うし、誰かを救ってあげられるんだよ。」

暗闇の向こうで、彼が微笑んだ。

「もうそろそろ時間だね。そうだ、最後にもうひとつだけ聞いておきたいことがあったんだよ。あの、あれ、僕はあれがダイスキなんだ。夏になるとニンゲンたちが夜に神社に集まって、なにか食べたりオンガクに合わせて踊ったりするだろ?あれはなに?」

「それはお祭りだよ。」

「オマツリ!オマツリ…。うふふ。なんだかかわいい名前だね。あれはとっても面白いよ。大人も子供もみんな集まって騒いでいると、夜がぼんぼんと温かくなってくる。なんで毎日やらないのかな?あぁ、考えただけでなんだかふわふわしてきちゃった!」

空間が歪み、瞬く間にそこは夏祭りの一幕へと変わる。

太鼓の音がビリビリとした振動として頬に伝わる。にわかにくすぐったいような感触がした。祭囃子の音頭に合わせて踊るその流れの中に、静夜は立っていた。

「なにボーッとつっ立ってんだ。後がつかえて迷惑だろう。」

背後で懐かしい声がした。振り返るとそれは浴衣を着た父の姿だった。泣き出したくなるような安堵に包まれながら、静夜は父の言う通り流れに合わせて踊り始めた。小学校三年生の冬、あのキャンプ場でのやりとりを最後に四年生の夏祭りまで静夜の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまったかのように、無い。

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