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ドアを開けた途端、外の熱が体中を包み込んだ。クーラーを効かせた自室との気温の差にまず驚き、次に温かい湯に体を浸からせたような皮膚の快感を感じる。その数秒後には既に体からじんわり汗が出はじめ、温かさは暑さに変わる。

日が落ちはじめたとはいえ、気温は三十度を超えていた。外に出るのがわりあいに好きで散歩を日課としている静夜も最近は夕暮れ時か夜を選んで歩いていた。ボンヤリと、何を考えるでもなく街を歩く。今朝出会った彼女のことが思い浮かんだ。


彼女は不思議な目をしていた。反射して映る光は水面に映る提灯の火のように淡く暗く、橙色に揺れていた。瞳孔は黒く、深く、そして冷たかった。

目が合った時、静夜は何かこれまでの自分の人生の根本をなす地盤が瓦解するような感覚に陥った。自分の信じてきた事実が、実は幻想であることを告げられたような、そんな類の不安だった。目に映るもの全てが事実ではない、そして同時に、目に映らない現実からはみ出た部分に存在する事実もあるのである。


街の中心を南北に走る川から吹く風が静夜の全身をなでるように吹き抜けていった。涼しさを通り抜けて、それは悪寒に近い。得体の知れない恐怖を振り払うかのように静夜は足早に歩を進めた。

町内に流れる唯一の川である鷺津川は川幅が広く水深が浅い。いちばん深い所でも成人男性が入って膝小僧が隠れるか隠れないか程の深さしかなく、夏になれば子供たちの遊び場となる。百年程前、伝承の上ではたった一度だけ、この川が氾濫したことがある。その日は快晴で、上流の山の方にも雲は見えず、増水の兆しはなかった。しかし夕暮れ時になり、突然川岸にとまっていた鷺たちが一斉に鳴き始めた。異変を察知した村人たちが辺りを注意して見渡すと川の上流の方からごうごうと低い音を立てて大水が迫ってきていた。濁流は周囲の民家とそこに住む人々を一瞬のうちに飲み込みさり、後には何も残らなかったという。川の名前はこの伝承に由来したものだ。


鷺津川を隔てて東側には住宅街、西側には繁華街が形成されておりその向こうに駅がある。両者を嬬橋という大きな橋が繋いでいる。この橋は前述の水害の直後に建設されたもので、全体が朱色に塗られている。

その嬬橋の中腹に立って静夜は鷺津川の川底を見下ろしていた。川底にびっしりと生えている水草は水流を受けてゆらゆらとゆっくり揺れている。よく見ると小さな魚が群れをなして水草の間を縫い縫い泳いでいる。夏の涼が眼前に広がっていた。

美しい光景は静夜のこころのやわらかい部分にするりと入り込み、冷たい手のひらの中で心臓を優しく包み込む。実際には静夜の浮き立つ不安は随分前に根を張っていた。あくまで彼女の眼差しはそのことを彼に自覚させるきっかけに過ぎなかった。


家を出てから一時間程が経過していた。夕暮れの嬬橋は商店街に夕食の材料を買いに行く人、駅から帰ってくる人と往来が多い。今、母親と手を繋ぎながら歩いていた少女が立ち止まった。少女は橋の真ん中で川を見下ろす静夜の顔を見て、怯えてしまったのだ。大きく見開かれた目は空の一点を凝視していたが、その黒は絵の中のもののようにのっぺりとしていて奥行きが感じられなかった。

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