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「チッ…チッ…チッ…」家主不在の部屋に時計の音が響く。


「タッ…タッ…タッ…」水道の蛇口から水が垂れている。


ひとつの音にはそれぞれの周期があり、一定の時間を置いて最小公倍数的に重なる。時々ふたつの音は奇妙なシンクロのうちにひとつの音楽を創り出す。ただそれも一瞬のうちにすぐまた無秩序の世界に戻る。


コンクリート調の壁と白色の床で構成される六畳間は灰色の印象を抱かせる。その灰色の壁には朝の日差しが差し込んでおり、日の当たる部分とそうでない部分のコントラストが家具、空気、そこに舞う埃など、部屋という空間を構成する全ての要素に朝を自覚させていた。


玄関に掛かっているカレンダーには、ゴミ出しの曜日が赤ペンで書き込まれている。今日は七月二十二日、ちょうど昨日から近隣の小学校では夏休みが始まっていた。「ガチャ…」ノブをひねり、ドアの開く音と共に家主が帰ってきた。




ランドリーから戻った川村静夜はバタンと体を投げ出した。起きてすぐ運動したからか、血の不足する感覚と共に手足がビリビリと痺れ、視界が白く霞んだ。布団から立ちのぼる埃はお日様の匂いがして、休日の朝は空気も柔らかい。


大学二年生の夏休み、アルバイトもしていない静夜の毎日は窓から見える青い空のように清々しく澄み切った空虚さだった。去年の春、大学進学を機に引越し、一人暮らしを始めた。元々一人でいるのが好きな静夜にとって、この街での生活は気楽なものだった。


ボンヤリと窓越しに向かいに建つ三階建てのアパートを見つめる。そこに住む人々の生活についてあれこれ思いをめぐらせてみる。


ネームプレートの横に可愛らしい猫のイラストが描かれている二〇一号室の佐藤さんは美容学校に通っている女子大生で、バイトを掛け持ちしながら同棲中のクズな彼氏を養っているとか、二〇二号室の佐伯さんは真面目で気難しいサラリーマンで、昆布のおにぎりに目がないとか、苗字という情報のみでも妄想ははかどり案外に面白かった。

さて、次の部屋の人は…と思い二〇三号室に目をやると、ちょうどドアが開いた。中から出てきたのは小柄な女性で、背に大きなギターケースを背負っている。深い緑色に赤のラインが入った柄シャツに黒のスキニー、ボブの髪は白みの強い灰色で、外にハネている。アニメに出てくるような派手な髪色が不思議と違和感なく、落ち着いた印象さえ感じる。

なにか急いでいる様子で階段を降りようとする彼女をしばらく目で追っていると、ふと顔を上げた彼女と目が合った。全てのパーツがバランスよく配置された顔は、垂れ目のせいかどことなく暗いような、自信のなさげな様子だった。

静夜はしまったと思い慌てて視線を逸らそうとする。しかしどうしたことだろう、体が微動だにしない。ボンヤリと空を見つめるように見開かれた目は焦点があっていないように見える。数秒の沈黙の後、彼女は目線を右の方に移し、伏し目がちになったかと思うと、そのままスタスタと階段を降りていってしまった。自分が生きていることを思い出したように体が動き始める。呼吸が再開し、静夜はハァハァと大きく肩を上下させた。

時計を見ると十時を少し過ぎた頃、先程まで感じていた眠気はすっかりと無くなっていた。彼女の出てきた部屋の二〇三号室を見てみる。ネームプレートには何も書かれていなかった。

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