現場では見えないことが、現場にいないから見える。ジョン・ハッティ「教育の効果」

訴求力の強すぎる「劇薬」?

この本は、教育の効果に関するメタ分析の結果をさらにメタ分析して統合するという研究手法(僕は教育統計はエクセターの大学院でかじった程度なので、正直ちゃんと理解してる自信ありません)をによって、138の要因(日本語版では78)ごとに学力に与える効果量を検討したものである。効果量d=0.4を「教師が生徒に教える時の基準値」として、それ以上であれば「高い効果が見込める」、それ以下であれば「期待ほどの効果が得られない」としている。学力に与える効果を「学習者要因」「家庭要因」「学校要因」「教師要因」「指導方法要因」として、それぞれの要因ごとに効果量を算出して、ランキングするという研究だ。


この研究手法がとても訴求力が高い「劇薬」である。僕たちのような(統計に詳しくない)現場教員としては、結論だけ取り出して「この教育方法が最強!」「これはダメ!」と数値にだけ飛びつきかねない「危険な魅力」のある本。


でも、そのようにのみ使われることを、筆者も、そして監訳者も、とても懸念している。いたるところで「効果量は絶対ではない」「なぜその手法が現状効果がある/ないのか、その理由を考察することが、この本の主眼である」ことを強調しているほどだ。だから、この本の「監訳者の解説」や、研究結果の章「以外」の章(第1〜3章&10章)は、効果量の比較を直接行っている他の章よりも、ずっと大事だなあと思う。ここ、僕もまた読み直す必要ある。


イデオロギーにブレーキをかけてくれる本

色々と面白いトピックはあったのだけど、初読の感想として僕が思ったのは、「こういう研究は、僕たち現場教員がつい抱きがちな「イデオロギー」にブレーキをかけてくれるから、ありがたいなあ」ということだ。


小規模学級の効果は?

例えば、一般には人数が少ない方がいいと思われがちな学級規模。僕たちは40人学級より20人学級の方がちゃんと教えられる(学習効果が高い)と思いがちなのである。


ところが、この本の研究では、小規模学級の学力への効果量はd=0.21と低い。 「普通に学習すると一年後にはこの基準に達するだろう」という期待の基準が効果量d=0.4なので、現状の「小規模学級」には予算をかけて実施する価値はなさそうなのである。

でもまあ、ライティング・ワークショップに関しては、これは当てはまらないと思います。後述するけど、ここで効果量が低い理由は、小規模学級なのに教え方が一斉授業形式のまま変わらないことが大きいと思うので。

異学年学級や学習者自身による学習管理は?

また、「異学年・異年齢学級集団編成」や「学習者自身による学習の管理」に至っては、効果量がともにd=0.04で、これは要因全体でも効果量最低クラス(放っておくのとほぼ同じ)。学力向上の観点では、他の方法の方がずっと良いレベルなのだ。


上記の話、もちろん、教師の労働環境や人間性の涵養など、学力とは別の視点を導入すれば異なる結論もあるだろう。この本では学力についてしか調べていないから。でも、少なくとも学力向上の観点では、こうした取り組みでは、現状高い効果は得られていない。


だからダメ、と言えるのか?

なーんだ、では、小規模学級も異年齢学級集団も(学力向上の観点からは)ダメっていうことなのだろうか。すぐにそういう話にもならないのが、こうした研究の面白いところ。というのも、これも筆者が述べているように「学級規模縮小の効果量が小さいことの理由の一つとして、小規模学級を担当する教師が大規模学級で行ってきたことと同じような方法による指導を行う小規模学級の利点が生かされていない」(p118)ことが大いに考えられるからだ。少人数学級にせよ、異年齢学級にせよ、その利点を生かさなければ無意味であり、その認識がまだ広まっていないということなのだろう。


大事なのは、方法ではなく…

ティームティーチングでも、似たようなことが言えるらしい。これも、効果的なやり方と組み合わせないと、意味がないということなのだ。筆者はこう述べていた。


たとえば、ティームティーチングは、それだけでは極めて低い効果しかない(d=0.19)。しかし、ティームティーチングを、教師が学習者の状況に注意深く目を配りながら行ったりティームを組んでいる教師同士で意見交換を行ったり、あるいは適度に挑戦しがいのある目標を設定したりして行うのであれば、その効果はもっと大きなものになりうる。つまり「方法」そのものが問題なのではなく、効果的な指導と学習の原理に基づいて実践してないことが問題なのである。(p265)


ここで大事なのは、「方法」そのものが問題なのではなく、「効果的な指導と学習の原理」に基づいて実践していないことが問題だ、という言葉だ。そういう点を抜きにして、単純に「この方法が最強!」「この方法はダメ!」とは言えないのである。


構成主義をベースにした学習方法は効果的ではない?

また、この本で面白いのは構成主義的な授業に批判的なところである。教師の間では、構成主義的な学力観をベースに「教師が教えるのではなく、生徒が自分で発見して意味を構築する」学習方法が好まれる傾向がある(僕も構成主義的な考えにシンパシーがあります。このブログの読者の方もそういう人が多そう…)。


そうして、「指導を最小限にとどめながら、自身で活動に取り組むことや、ディスカッション、リフレクションや他の学習者と考えを共有することを通じて知識の獲得と意味の構成ができるような機会をできるだけ多く持たせられるようにする」(p63)ことが、自明の「良いこと」として扱われがちだ。学習者中心の探究学習や、生徒が自分で問いを見つけていく学習が良しとされて、その反対に教師が直接教える直接教授法は評判が悪い。


ところが、筆者は書く。


このような考え方と次章以降で展開される効果的な指導や学習の方法とはほぼ相反している。(p63)


なかなかショッキングですね(笑)。なにぃ!?と思う人はぜひ本書を読んでください。


プロジェクト・フォロー・スルーの「失敗」

この話に関連して、1960年代と古い研究だが、プロジェクト・フォロー・スルーの話が引用されてて面白かった。

「プロジェクト・フォロー・スルー」は、効果的な学習方法を調べるために行われた大規模な研究プロジェクト。それが明らかにしたのは、当時のいくつかの教育法のうち、唯一効果があった指導法は、教師が直接明示的に教え、やって見せて、生徒に課題をやらせることを通じて熟達させる「直接教授法」だった、ということだったのだ。


ところが、教育関係者はこのエビデンスに納得せず、直接教授法を採用しなかったのである。おそらく教師や教育政策者の「好み」と異なっていたからなのだろう。


Carnine(2000)はこの件を、「確固とした科学的な基盤を欠き、個人的見解やイデオロギーを重視し、エビデンスを軽視するという、教師の専門性の未熟さを示す最たる例である」と痛烈に批判しているそうだ(p288)。


この辺の話は、とても面白かった。何しろ僕自身にもそういうイデオロギーがあり、そこからは自由にはなれないのだから。こういう点に自覚的になって、自分のイデオロギーや教室環境も含めて、どういう方法なら効果的なのかを、この本も参考に学んでいきたいなあ。


現場では見えないことが、現場にいないから見える

ジョン・ハッティ『教育の効果』は刺激的な本である。この本は、「この方法は素晴らしい!」「この方法はダメ!」という「答え」が載っている本ではない。むしろ、僕らが持っているそういう「思い込み」を相対化して、自分の現場での最善を考えるための参考資料である。


この本のおかげで、自分のイデオロギーに自覚的になり、少し冷静に自分の授業を振り返ることができる。現場にいては見えないことが、現場にいないからこそ見える。そういうことってあるな、研究の価値ってあるな、と思う一冊。


まだまだ気になるトピックはあるけど、もう長すぎになったので、いつか続きを書きます。今日のところは、ここまで!

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