SCENE8『BAR “ORIGIN”』

「うげっ」


 重い扉を開けた途端、見知った顔のバーテンダーがものすごい勢いで眉をひそめた。似合いもしないシックなユニフォームで隆々とした筋骨を隠す男は、かつて耕助こうすけの財布をスり蔵人くろうどに突っかかった結果、なぜか破傷風の手術を受け一命を取り留めた元兵士だ。

 名前は確か、オットーと言ったか。髭を剃り頭を丸め、オマケに眉まで整えられている。パッと見じゃ誰か分からないほどだ。


「・・・・・・・・・・・・見上げた更生ぶりだな」


 オットーが中指を立てる。・・・・・・結構本音だったのだが。

 落ち着きのある色合いの黄色灯に、煉瓦造りの内装。極めつけはジャズの風味を効かせたヒーリング・ミュージック。店内の清掃は行き届いており、この地域にしては上等な佇まいだ。バーカウンター越しに見える酒のラインナップは、詳しくない蔵人から見てもそれなりに充実しているように見える。


「驚いたな。随分と本格的だ」


「アメリカ人が開いた店だ。この辺りは教義上、酒が飲めないやつも多いから外人向け。だが、国産酒も捨てたもんじゃないぞ」


 そう言いながらオットーはカウンターに二枚、コースターを引く。ここに座れというサインだ。店内には他に客もいないというのにわざわざご指定というのは、バーテンにあるまじきおしゃべり好きの表れか。


「『国教』の方では意外と酒を禁じてないんだっけ?」


 耕助は質素なカウンターチェアに腰掛けながら質問した。知らぬ間に随分と打ち解けていたようで、オットーはアイスピックやロックグラスをチェックしながら事もなげに答える。


「その代わり食事にゃ妙ちくりんな制限がある。チーズバーガーとフレンチフライが食えねえ世界をなんて呼ぶか知ってるか? 地獄ってんだぜ、覚えとけ」


 かくいうオットーはというと、神などまるで意に介する様子はなかった。

 この国は現在、紛争状態にある。それは石油資源などの地理的条件と先進諸国の合従連衡に並んで、この地を取り巻く宗教的イデオロギーが大きく関わっている。国教と世界宗教のせめぎあい、ひいていえば民族的なアイデンティティの対立が半世紀以上も断続的に血の雨を降らせている。


 馬鹿馬鹿しいと、蔵人は思う。

 宗教もアイデンティティも、人が『善く生きる』ためのものだ。宗教なかりせば、道徳や良心は生まれない。アイデンティティなかりせば、尊厳や帰属意識は生まれない。これらを欠如したまま生きるならば、人は獣と同じだ。ともがらの肉を喰らい合い、いつかは滅びる。これらは、人が人であるためのなのだ。


 にもかかわらず。

 人は宗教やアイデンティティのために争う。戦場で生まれ、戦場で生きた蔵人は知っている。戦争は、人を獣以下の魔道へと堕とす。年寄りの主張する正しき戦争などありはしない。死にたくも殺したくもない人々が殺し合う。あんなものは人がいていい場所ではない。


 故に、理解できない。


『────────我々はッ! 戦争クリークを求めている!!』


 あれは狂人の戯言ではないのか?

 人は、戦争を求めているというのか?

 『善く生きる』ための教えを殺し合いの大義名分に利用してしまうほどに?


「手頃なブランデーをロックで」


 蔵人が磨き上げられたバーカウンターの木目を見つめながらそんなことを考えていると、やにわに耕助がオーダーを入れた。蔵人がこういった空間に慣れていないことを察したのだろう。

 頭を丸めた男は「はいはい」と冷凍庫から氷塊を取り出すと、桶のような木製の氷嚢の上でアイスピックを用いて器用に細工する。ある程度形ができてくると、下手をすれば戦場で出回っているものより見事なナイフで氷の形を整えた。


「ほほー・・・・・・オットーくんたら、バーテンが板に付いてきたねえ。はじめの頃はアイスピックで手のひら突いて包帯だらけだったのに!」


「っせーな! んな昔のことは忘れたっつーの!」


「いや、まだひと月ほども経ってないからね? 手のひらのカサブタ見えてるからね??」


 耕助が感心している間にも氷細工は終わってしまい、ガラス製のロックグラスにダイヤモンド型の氷を置くと、安価なコニャックだろう朱のボトルからメジャーカップでもって深い飴色の液体を注ぎ入れた。


「おまちどお。ヘネシーV.Sのオン・ザ・ロック、一応コニャックだ」


 ・・・・・・なるほど、見事な手際だ。

 元来手先は器用だったのか、軍式ナイフ格闘術の賜物なのか、実物なら何億という値がつきそうな大粒のダイヤモンドは、事実、実物と見紛うほどの美品だった。


「おお〜! めちゃくちゃ美味そう! あっぱれ!」


 耕助がグラスと掲げると多面体の氷はバーの暖色灯とキャラメル色の洋酒を透明な肌で反射し、直下のカウンターには水影が幾何学的な紋様を写している。耕助の黒い瞳の中では黄金の光が転がるように照り返っている。まさに、目を輝かせるとはこの事だ。


「で? お前さんは?」


 さぞかし嬉しそうにグラスを傾ける耕助を満足気に見遣ると、オットーは蔵人にも注文を促した。そういえばここは酒を眺める場所ではなく飲む場所だった、と、気を取り直して蔵人は答える。


「水を」


「フザケんな、バーに来たんなら酒飲めや」


 丸坊主の大男がギロリと睨みをキかせる。射すくめられた蔵人は、目をそらすようにして耕助へ無言で助けを求めた。

 既に赤ら顔の耕助は、親指で口の端を拭いながら困ったように笑う。


「そんな雨でびしょびしょの捨て犬みたいな顔するなよ・・・・・・言っただろう? 今日は私の奢りだ」


 耕助が「彼にも同じものを」と告げると、先程と同様のスマートな手際で、用を成していなかった蔵人のコースターの上にブランデー入りのロックグラスが置かれた。



(──────────なるほど)


 蔵人は嘆息する。

 思わず魅入ってしまうほどの見事な手際。美術品のような氷と洋酒の佇まい。それらに気を取られているうちに、


(酒など一滴も飲んだことがないと言い出すタイミングを完全に逸した────────)


 神楽音蔵人、24歳。

 成人式や同窓会とは無縁の人生を送ってきた男である。飲みたいと思ったこともなければ、飲まなければならないイベントもこれまで一度たりともなかった(※タバコは別に成人前から吸っていた)のだ。ちなみに好きな飲み物はブラックコーヒーとダイエットコーラである。


(ブランデー。果実酒を蒸留しオーク樽で一定期間熟成させた洋酒、か・・・・・・)


 定義は知っている。

 が、


(───────まるで味の想像がつかない)


 果実酒を蒸留? 樽で熟成??

 それ結論何味なにあじ???



「・・・・・・・・・・・・」


 再び、ちらりと耕助の方を見やる。

 からんころん、と分厚いグラスを傾ける度に透明な音を鳴らす氷を楽しみながら、このよくわからない液体をちびちびと嗜んでいる。



「んん〜、いい香りだ。アーモンドやトーストのようなリッチな甘みの奥に、芳醇なぶどうのテイストが隠されているねぇ〜〜・・・・・・」


 一言も意味がわからない。

 本当に何言ってるんだこいつ。最終「隠されている」が味の感想でいいのか?


「おや、ブランデーは初めてかい? ヘネシーはブリュレのようにクリーミーでありながら果実のフレッシュさでフィニッシュを迎えるから初心者向けだよ」


 そのモードのまま話しかけてくるな。

 というかこれ本当に思ったことを言っているのか? 万一嘘をつかれていたとしても分からないんだが?



「・・・・・・・・・・・・」


 しかし、恍惚の表情で酒を呷る耕助は、人生や世界に何一つとして悩みや不満がないかのようにすら映る。



 酒は───────いや、この世の愉悦のほとんどは、自分を対象にしたものではないと思っていた。事実、そういうものとは切り離された世界を生きてきた。

 獣以下の魔道に堕ち、腐った亡骸から血を啜ってでも生き延びた。人血を啜ったその口で、美酒のグラスに口をつけようなどとは一度も思わなかった。良心の呵責とか烏滸がましいとかそういう話ではなく、本当にそういう発想と機会がなかったのだ。

 結果、レネゲイド被爆前に鎮痛剤代わりとして利用していた大麻の名残りである安タバコが、蔵人にとって唯一の嗜好品となっていた。


 だけど。

 目の前にある一杯のブランデーは、。あまつさえ、隣には同じ酒に酔う同い年の男がいる。こんなことは、蔵人の短い生涯では初めてのことだった。


(腑抜けた顔しやがって・・・・・・ブランデーがどれほどのものだというんだ)


 だが、おかげで少しだけ興味は湧いた。蔵人は冷たいグラスを手に取ると、耕助を真似て氷を転がしてみたりして──────やはりそれほど楽しくなかったので、いっそ一息に飲み下してやることにした。




 ─────────ごくんっ




「なっ・・・・・・」



 耕助とオットーのどちらが発したか、とかくに素っ頓狂な声が聞こえた。見れば、真ん丸な四つの目はたかだか40ml程度の液体を水のように飲み干した蔵人の方を一斉に向いている。

 蔵人はなにか間違ったかと疑問符を浮かべる、その直後────────


 

 ────────冷たい溶岩マグマが、青年の喉から食道を灼いた。



「がふぉっ・・・・・・!?!?!?」



 まず感じたのは、灼熱感にも似たアルコールの刺激。続いて渋く強烈な割にはいやに爽やかな甘苦い風味が鼻腔を蹂躙する。ジュースやコーヒーとも違う、異様に情報量の多い味のテクスチャが蔵人の味蕾を侵掠する。おまけに、それらが一瞬にして熱量に置換され、全身の臓器に伝播していく感覚がしばらく続く。


 その感覚に釣られたのか、視界もなんだかおかしくなってきた。だって椅子に座ってるはずなのに何故か天井が見えてるし、隣にいた耕助もなんか上から顔をのぞきこんでる気がする。



「く、蔵人・・・・・・!? マーライオンがジェットコースターに乗ったみたいだったけどだいじょ・・・・・・うわあ白目剥いてる!! オットーくん水!!」


「だーもう!! ロシアン・マフィアじゃねえんだから蒸留酒なんか一気飲みすんなや!!」



 ドタバタと慌ただしい巨体の足音。図体の割に機敏なオットーがテキパキと動いている。つい先日仕留めた『ゴリアテ』とかいう超人兵士もこんな感じだったなあ。



 ───────無論、こうなったのは蔵人がめちゃくちゃ酒に弱いからというだけが理由ではない。

 神楽音蔵人に宿るレネゲイドが齎した力、それは戦場においては未来予知すら可能とする異次元の『情報感受性』。それは視覚や聴覚のみならず味覚をも強化している。つまり蔵人には、。初めてのアルコール摂取に加え、蒸留酒特有の暴力的なまでの風味を前に、蔵人の感覚器官はオーバーヒートを起こしたのだ。



 ───────そこから先の記憶は無い。その日は結局、いつの間にか運び込まれていた能見診療所のベッドで朝日が昇るまで眠りこけたからだ。


 この屈辱的な一日以来、蔵人は密かにブランデーの克服を誓うようになり、結果として能見とともにこの『バー・オリジン』へ通うことが多くなった。

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