レネゲイズオリジン/ジェネシス・ゼロ
八話読了後推奨
SCENE1『林檎』
女は蛇に答えた。 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。 「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
──────────創世記 3:2-5 新共同訳
◆
二十一年前。
中東某国、とある露店街。
「気をつけろ日本人!」
ガラの悪い大男に肩で突き飛ばされた白衣の青年は、勢いよく尻もちを着くと、紙袋の中を盛大にぶちまけた。
「いっつつ・・・・・・え、わ、ちょっと・・・・・・!」
ついさっき市塲で購入した林檎だ。随分買ったらしく、ずさんな整地の影響で勾配と凹凸が激しい路面を、赤い玉が次々と転がっていく。
親切に青年の紙袋に林檎を返していく者や、ひとつならばバレないとタカをくくってくすねていく者。とにかく、青年のドジが余りにも派手だったため、周囲の人々がぞろぞろと集まってきた。
現地民である大男───────オットーは、想定より騒ぎが大きくなってしまったので、舌打ちをひとつ打つとポケットに手を突っ込んでその場を立ち去ろうとする。
「ちょっと待った、君今スっただろ」
その腕を、誰かが掴んだ。
「!」
オットーは一瞬目を剥いて驚いたが、呼び止めた相手の顔を見ると態度を一変させた。
黄色人種らしき肌に、野暮ったく伸びた黒い髪と無精髭。厚手の黒コートの下に覗く肉体は、引き締まってはいるが随分と細身だ。オマケに片手にはいかにも観光客が使いそうな大容量のスーツケースを転がしている。
観光客が相手ならしめた話だ。強めに腕を振り払って少し脅してしまえばしっぽを巻くに決まっている。
「何だテメェ、さっきのヤブ医者の連れか? 平和ボケした
身長差は大人と子供ほどもある。オットーは、つり上がった眉といかにもスラムめいた口調で黒い男を恫喝した。掴まれた腕だって、乱暴に振り回せば細い身体ごと紙くずのように跳ね除けられるだろう。
「痛い目ぇ見たくなきゃ・・・・・・ッ!?」
・・・・・・そこまで考えてようやく気づいた。
掴まれた腕が、動かせない。
まるで手首から先がセメントで固められてしまったかのように、引っ張っても振り解こうとしてもビクともしないのだ。
(コイツ・・・・・・! 枯れ木みてえな体でなんて握力だ! て、抵抗すれば折られる・・・・・・ッ!)
とうとうポケットから引きずり出された大男の手には、安物のがま口財布が握られている。あまりの握力で握られているものだから、手を開くことすらできないのだ。
周囲の目を気にして焦るオットーを尻目に、黒コートの青年は呆れたように呟いた。
「酷い国だ。兵士がスリを働くとはね」
意外な言葉に、しばし軋みをあげる腕の痛みすら忘れて心中を声に出してしまった。
「・・・・・・なんで俺が兵士って?」
軍服を着込んでいる訳ではなく、大層な銃をぶら下げているわけでもない。現在のオットーを兵士であると断定する要素はないはずだ。
男は淡々と答える。
「君の頬から顎にかけての痣・・・・・・恐らくライフルを頬付けして撃った跡だ。痣が残るということは相当リコイルの強い銃を使ったか、日常的に訓練などで長時間銃を扱っているか・・・・・・どちらにせよ兵士の可能性が高い。この辺りは紛争地帯が近いからね」
オットーは思わず生唾を呑んだ。
万力のような握力、常人離れした胆力、そして・・・・・・戦場を知っていなければ気づかない些細な点から素性を言い当てる洞察力。
こいつ、素人じゃない。この一瞬でわかった。恐らく、自分より余程秀でた兵士だ。
東洋人の兵士は珍しいが居ないわけじゃない。欧州諸国の外人部隊員か、某共産主義国家の工作兵。しかし、国連の仲立ちによる幾度の和平交渉が失敗に終わり泥沼化しているこの国の内乱に派兵している先進国はほとんど存在しない。
(コイツ・・・・・・いったいどこの・・・・・・!)
青年は見えてる範囲で武器は装備していない。黒いコートで隠れた懐の内にホルスターがあるのか、でなければスーツケースの中にでも隠しているのだろう。
だが、今のオットーにとって、そんなことは関係ない。この恐るべき身体能力に
・・・・・・そもそも、初手で利き腕を押えられた時点でこちらに勝ちの目はない。利き腕を砕かれた後、同じ力で首でも掴まれようものなら、その末路は語るまでもないだろう。
──────────つまるところ、今この瞬間オットーの生殺与奪は青年に握られていると言っていい。
「右足を引き摺っているな・・・・・・恐らく弾丸でも掠めて走れなくなったから除隊されたんだろうが、食い扶持がなくなったからといって人様から盗みを働くのは頂けない」
市場の喧噪さえ凪いで聞こえる緊迫。自分は体験したことがないが、戦場で地雷を踏んだ兵士はみな魂が抜けたような
きっと、今のオットーもそういう表情をしているだろう。
「あーっ! 私の財布!」
・・・・・・と。
張り詰めた空気を引き裂いたのは、ようやっとりんごを拾い終えたらしい
コートの男は、そちらを目の端で捉える。
後ろで結んだ黒い髪によれよれの白衣。貧血気味なのか血色も悪く、体つきも見るからに頼りない。なるほど、自分が言えたことではないが、確かに絶好のカモだ。
「・・・・・・もっと危機感を持った方がいい。君は今財布をスられ・・・・・・」
「拾ってくださったんですね、ありがとうございます!」
言い終える前に、白衣の青年はオットーの手から唐草模様のがま口財布を取り返した。
「・・・・・・!」
オットーと黒コートの男は思わずぱちくりと目を見合わせた。その間にも青年は屈託のない笑顔で二人の手を順番に取って感謝の言葉を述べ続ける。
「なんとお礼を言ったらいいか・・・・・・おや?」
青年は白い背を丸めるように屈み、オットーの迷彩柄のズボンの裾を捲りあげる。彼が凝視するのは、ちょうど弾丸を掠めたふくらはぎの辺りだ。
「何を・・・・・・」
するつもりだ、と言い切る前に青年は自分の言葉でそれを遮った。
「ここ数日間で口が開きにくくなったり、食べ物が飲み込みづらくなっていませんか?」
見上げた青年の目は先程までの頼りなさが嘘のように強い眼光を宿しており、身長2mを超えるオットーが気圧されるほどだった。ある意味では、つい先程まで一触即発だった黒コートの男よりも恐ろしいものを感じるほどに。
「は・・・・・? いや、別にそんな・・・・・・」
先程までの威勢は既に削がれている。
追いかけてきたら殴って追い返そうとまで思っていた相手に、さながら上司か愛想の悪い父親のような威厳らしきものさえ覚えているのだ。
「・・・・・・っ、いや、そういえば・・・・・・なんか最近ちょっと顎が突っぱるような・・・・・・」
オットーが淀みながら心当たりを答えると、彼は低く落ち着いた声で尋ねた。
「ふくらはぎを怪我したのはいつ?」
「・・・・・・四日前」
「ふむ・・・・・・」
青年は、自らの顎に手を遣って少し考え込む仕草をする。
その様子を傍から見ていた黒コートの男は、だんだんと雲行きが変わっていく二人の様子に当惑していた。当初の彼らは窃盗の被害者と加害者。それが今では、診察中の医者と固唾を飲んで病名宣告を待つ患者そのものだ。
(白衣・・・・・本物の医者か? 何者だ、この日本人・・・・・・?)
これも自分が言えた義理ではないが、この街には似つかわしくない青年だ。
貧民街に日本人医師といえば、
(・・・・・・いや、考えすぎか。『同族』なら僕が感じ取れないはずがない)
一通りの問診を終えると、白衣の青年はあっさりと結論を出した。
「───────破傷風の初期症状だ。このまま放置したら死ぬね」
「死・・・・・・っ、はぁあっ!?」
このままでは、死ぬ。
そんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのか、オットーは吃驚の声を上げた。
「し、死ぬってお前・・・・・・そんな大袈裟な・・・・・・!」
「大袈裟でもなんでもないよ。先進国ではワクチンが行き渡ってるからそれほど危険ではないけど、一度発症すれば短期間のうちに高確率で死に至る恐ろしい病だ。
おおかた、戦場で杜撰な治療を受けてそのまま放り出されたのだろう。幸運にも私の医院には
先程までの素っ頓狂はどこへ行ったのか、つらつらと冷淡な面持ちで捲し立てる青年に、オットーと黒コートの男は二人して言葉を失っていた。
────────スリの腕を掴んだ時、男は相手の身体能力から格闘技術、そして服の下に隠された傷跡の深さまで瞬時に見抜いていた。それは職業柄身につけた観察眼の延長だが、ある事情から男は『それ』に絶対の自信を持っていた。
にも関わらず。
あろうことか、この青年にはその先・・・・・・傷口から感染した病のことまで見えていたのだ。
「切開・・・・・・待て、手術するってことか?」
───────明らかに様子が変わったのは、その言葉を口に出してからだろうか。
オットーは渇いて血を滲ませた唇を不自由そうにもごもご震わせながら言った。
「・・・・・・まあ、そうなるね。ああ、心配しないで。麻酔はちゃんとしたものを使うから」
「うるせえッ!! 俺は絶対に手術なんか受けねえぞ・・・・・・!!」
怒声、というよりはヒステリーだった。
怯えた小動物のような目の光はそのままに、オットーは先程までと打って変わって強烈な敵意を顕にして叫ぶ。
長髪の推定医師は意外そうにぴくりと眉を動かすが、あえて口を挟むことはしなかった。そんな青年の反応を尻目に、オットーはヒートアップしていく。
「いいかっ、医者なんてもんはな、人様の不幸で飯を食う外道だ!!」
その過剰なまでの敵意は、まさしく恐怖と猜疑心の裏返しだった。先ほどまでしきりに気にしていた顔見知りの視線も忘れて捲し立てた。
「
──────────対して、白衣の青年の回答は至ってシンプルだった。
「何を言っているんだ? 金なんか取るはずがないだろう!」
そして、半ば無理やりにオットーの片腕を肩に担ぐ。
「いいかい? 君は生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだ! 今、君の命より大事なものなんてどこにもない!!」
オットーは、今後こそ返す言葉を失った。
ああ、とコートの男はなにか腑に落ちた。被害者とか加害者とか、よそ者と現地民の確執などは、恐らく脚の傷を診た時にはもうどうでも良くなっているのだ。
ただ大男は命の危機に瀕していて、自分はそれを救うことができる。であれば、救わない理由がない。だって、命は大事なのだから。
(・・・・・・スられたことだって気づいているだろうに)
あれほど洞察力があって、この街ではありきたりな軽犯罪に気づかないはずがない。悪化しかけている傷口を認めていなければ、本当に落し物だったことにして放免していただろう。
「重っっ・・・・・・たいな君! ええと、そこの君! 手伝ってくれないかい!?」
突如として、白衣の青年がこちらを振り向いた。
「え、僕?」
「君以外に誰がいるんだ! ほら、彼に肩を貸してあげて! 私の医院はすぐそこだから!」
なんだかよく分からないまま、言われた通りに先ほどまで遣り合っていた男の肩を担ぐ。すると、今度は大男の方が慌てふためく。
「なっ・・・・・・おい! 一人で歩けるっての!」
「い・い・か・ら! 足に銃創があるのに大丈夫なわけないだろ、ほら一緒に行くよ!」
──────────そこからはもう、ひどいものだった。熊のような大男が黄色人種ふたりに肩を貸されて往来を闊歩する間抜けな三人四脚は、スリ騒ぎよりも多くの人目を集めた。
これは、すべての
後にレネゲイドを世界に拡散し文字通り全人類の日常を変貌させた男、
どこにでもいる善良な医者でしかなかった男、
出会いの物語。
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