SCENE3『ルシフェルウィング』

「はぁっ・・・・・・! はぁ・・・・・・っ、は、ぁ・・・・・・っく、ぅ・・・・・・!」


 苗渕ハルカは優等生だ。

 今日に至るまで、『テスト』と名のつくものは大体上位をキープしてきたし、本部においてローティーンのエージェントを養成する『中等課ジュニアハイスクール』と呼ばれる機関は主席で修了している。無論、その中には走力のテストもあった。《ハヌマーン》や《キュマイラ》のエージェントの独壇場にあって、それでもハルカは上位の成績を残していたのである。


「はぁっ・・・・・・はっ─────ぁ、こんのっ・・・・・・!!」


 そのハルカの全力疾走を賢二はちょっとしたランニング程度のフォームでぶっちぎりかける。


(あいつ・・・・・・! あのテストどんだけ手ぇ抜いてたのよ・・・・・・!!)


 賢二もハルカと同じ養成機関出身だ。だが、ハルカの覚えている限り、生徒時代の賢二は座学も実技も平均かそれより少し上ぐらいの成績だった。今思うと、悪目立ちしないように加減していたのだろう。

 そういうの、ハルカは大嫌いである。


(ほんっと・・・・・・いけ好かないやつ)


 彼が『ややこしい出自』をしていることなど、ファミリーネームを一目見れば誰でも分かる。だから賢二は、露骨なほどに周囲と距離を置いていた。

 臑に傷を持つ人間が差別されるのは、一般社会から隔絶されたUGNでも変わらない。ましてや、常軌を逸した能力を持つのであれば、それは尚更だろう。

 だから面倒事が起こる前に自分の方から人と距離を置くようになった・・・・・・気持ちと理屈はわかる。わかるのだが、やはりいけ好かないのだ。その達観の根底にあるものは、初見で人と関係を持つことを諦めてしまう卑屈さと傲慢さであるような気がして。

 人間、卑屈なやつに見下されるのが一番ムカつくものである。


 そうして息を切らせながら走り続けること五分弱。前日の雨で少し水気を残した土手を半ば転げるような形で降りると、ようやっとその場に立ち止まる賢二の背中が見えた。

 彼が足を止めたのは、細い清流が静脈のように安らかに流れる河川敷だった。

 この川は字桐市の一部を切り取り線のように区切るそこそこ大きな川であり、辿りに辿れば東京湾に到達する。車道付近には大小数本の橋が掛かっており、たった今いる地点は中でも二番目に大きな橋の近くだ。学校が近いこともあって、学生カップルが初々しく逢瀬していたり、絶滅危惧種になりつつある不良少年たちが高架下でタバコをふかしていたりと、この時間帯であれば何かと騒々しいイメージがある。


 ─────無論、今のこの場所はそういった喧騒の面影は残していない。人影はおろか、都心部であればどうあっても逃れられない車の駆動音すらも聞こえない。耳が痛いほどの静寂だ。

 これが《ワーディング》。日常風景を書割とし、戦場から隔離するオーヴァードの特権だ。このセカイでは『昼間の住人』たちは活動できない。

 故に。

 この状況下で、動く『モノ』があるとすれば───────


「──────苗渕ッ!!」


「・・・・・・っ!!」


 余裕を失った賢二の声に背を押されるようにして、ハルカはその場から飛び退いた。


 意識の外。

 慮外の急襲を回避したのは、決して短くない養成機関での訓練の日々が無駄ではなかったことの証左であろう。


 ほとんど直感頼りに地面を蹴ると、直後に今まで自分がいた場所が強靭な爪を携えた獣の前脚に叩きつけられる。

 人外じみた膂力は石畳の地面をビスケットのように容易く破砕すると、礫が飛び散ってハルカの頬を擦過した。ぴりっと静電気のような灼熱感が走り、冷や汗と一緒に血が滴る。


(獣の爪・・・・・・《キュマイラ》系のジャーム!)


 即座に視界の内に獲物を捉える。隆起した靱やか筋肉と、それを満遍なく覆う黒い体毛。前脚と呼ぶには細長く延びた指の先には、研ぎたてのナイフよりも鋭い爪が備えられている。顔の骨格はシャープに鼻先を突き出し、引き裂かれたように大きな口には打製石器を思い起こさせる巨大な牙があった。

 それは如何にも狼男でございという感じの風体で、人間の名残を残している部分といえば、パツパツに張り詰めたミリタリーパンツと二足歩行だけだった。


 《キュマイラ》シンドロームの比較的ポピュラーなエフェクトに、自身の肉体を獣のそれへと完全に変容させるというものがある。こうなってしまえば人間だった頃の面影は完全に消え失せ、童話に出てくるような恐ろしい怪物に成り果ててしまうのだ。

 もちろん、正しく理性を残したオーヴァードであれば少しの訓練で人間の姿に戻ることができるが、心を失ってジャーム化した《キュマイラ》オーヴァードは変容を解除できず、ついには本物の獣の如くになってしまうケースがある。


 ─────コイツはそのクチだろう、とハルカは判断した。


「・・・・・・シンドローム構成は見ての通りってワケ?」


「いや、襲撃の直前まで足音が全くしなかった────────恐らく《ハヌマーン》辺りが噛んでいるだろう」


 口振りから察するに、賢二は気配でなく目視で確認してコイツの奇襲をハルカに知らせたのか。

 なるほど、隠密特化の《エンジェルハィロゥ》であれば光の反射を利用して姿そのものを隠す。小賢しく音のみを隠しているのであれば、それは音波操作の《ハヌマーン》の領分だ。


「となると・・・・・・バリバリの近接型ね。こっちとしても都合がいいわ」


「・・・・・・む。なんだ貴様、アレと遣り合うつもりか。この程度の距離を疾駆するだけで駄犬のように息を切らしていたクセに」


「はあっ!? それはアンタが自分勝手にトばしまくったからでしょ!? 私はスピード型のシンドローム構成じゃないんだからちょっとは加減しなさいよ! というかアンタ人様に向かって『駄犬』って・・・・・・!!」


 顔を真っ赤にして怒鳴り散らすハルカと、涼しい顔でそれを受け流す賢二。狼に似た野性を有する獣化ジャームがその隙を見逃すはずもない。

 不意打ちを外したのであれば、スピードで翻弄すればいい。《キュマイラ》に由来する獣の脚力、加えて風を操る《ハヌマーン》の加速力。その速度は、もはや他のどんな生物の追随も許すまい。

 先ずは跳躍。

 直後に高架下の支脚を、急勾配の土手を、そして橋の裏面を蹴り穿って肉体を加速させる。狙うは頭上。背面に次ぐ生物の絶対的死角だ。

 文字通りに空を切り、その代償に吹き荒れるべき突風すら獣の動きには着いてこれていない。眼下のエージェントたちは、獣が狩りを開始したことすら認識していまい。


「“───────・・・・・・”」


 狩りの成功を確信する。超高速の世界で、獣は引き裂かれたような口の端を吊り上げ──────


「“・・・・・・ッ!?”」


 目を疑った。

 《キュマイラ》シンドロームによるものではなく、もっと根本的な生物としての直感で、彼は命の危機を悟った。


 ぎょろり、と。

 伊庭賢二と苗渕ハルカ。二人のエージェントの四つの目が同時に獣の巨躯を見据えたからだ。


 “──────有り得ない。ただの人間が、この亜音速の世界に対応できるはずがない・・・・・・!”


 緊急回避はもはや間に合わない。二人のエージェントに向けて半ば射出のような形で勢いづけてしまった黒い獣身は、もう後退のネジが外れてしまっている。


教本通りテンプレの対応おつかれさま」


 反撃したのはハルカだ。一直線に飛び込んでくるジャームに対して、予測落下地点に『置いておく』ような形で毒々しい紫炎を発現させた。

 ──────0.5秒後の未来は分かりきっている。


「“ギ───────ッ!!”」


 指向性を有した爆炎に煽られ、獣の肉体は扇風機の前のちり紙の様に吹き飛ばされた。音速だとか超高速だとか、そんなものはこの火力の前には関係がない。誤差だ。だいいち───────


「─────速いだけのジャームにすら対応できないようじゃ本部エージェントなんかやってけないっつーの。スピード型にはスピード型への対処法ってもんがあんのよ」


 たとえば、敵の姿を目で追えなくなった時に真っ先に警戒すべき場所だとか。速度に差のある相手に攻撃を当てる方法だとか。

 その程度のことは、UGNエージェントであれば誰しもが共有しているレネゲイド戦の基本だ。


「“ガ、ギ・・・・・・ァ───────”」


 白煙を立ち昇らせて、なお獣は立ち上がる。分厚い毛皮に守られたのか、外見に反してダメージは軽微だったようだ。


「“ォォォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!”」


 夜闇を切り裂くような咆哮と共に、獣が再起動する。


「まるで効いておらんぞ」


「うるさい! ・・・・・・こっからだっての」


 不屈の獣人に対して、苗渕ハルカはゴミを見るような冷たい瞳で告げた。


「吸い込みなさい」


 そう。

 ──────ここからが“鮮烈な死スパークルヴェノム”の本領。


「“カ──────ッ!!”」


 老人が寝てる間に吐瀉物を喉に詰まらせたような、不快にして不健康な咳嗽音だった。

 思うように呼吸ができないのか、獣はさながら人間のように喉を押さえて膝を着く。

 苗渕ハルカのシンドローム構成は熱量を操る《サラマンダー》と化学物質を生成する《ソラリス》の混血種(クロスブリード)だ。獣の突貫を迎え撃つように展開された爆炎は、派手な見た目に反してその実大した破壊力はない。それでも凡百のオーヴァードからすれば一撃必殺級だが、UGN本部エージェントに求められる火力にはとても及ばない。

 だが、ハルカはそもそも『こっち』の殺傷力には期待していない。彼女の本命はその先──────


(毒煙────派手な爆風はこれを隠すためのカムフラージュか)


 賢二は感心したように顎に手を当てて目を細める。

 派手な爆発と、それによって発生した煙を媒介にしての毒散布。炎をやり過ごして気を抜いたところに音もなく忍び寄る見えない刃。隙を生じぬ二段構えというヤツだ。やられる方は相当嫌だろう。


「ふんっ、それ見たことか! この程度の相手、私一人で余裕なのよっ!」


 くるりと上機嫌に振り返って、ない胸を張る苗渕ハルカ。何に張り合っているのか、敵ではなく賢二に対して勝ち誇ったように笑っている。


「────戯けッ! 戦いが終わる前から敵に目を背ける莫迦がいるか!!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・はえ?」


 一喝。

 ギシギシギシ、と。ヤシの木が軋むような音が背後から聞こえてきたのは、それとほとんど同時だった。


「うそ・・・・・・っ!!」


 有り得ない。あの猛毒を食らって生きていられるはずがない。奴は十分に吸い込んだはず。たとえ死んでいないとしても、神経系の麻痺毒だ。立ち上がれるはずがない。戦える、はずが─────!


 筋肥大を起こした強靭な前脚が振り下ろされる。今度は爪ではない。もっと単純に、虫でも殺すように平手でハルカの細い身体を叩き潰しにかかる。


 ────だめだ。これ死ぬやつだ。


 着弾まで一秒もない。脳からの司令が追いつかず、肉体が強ばる。戦闘態勢は解かれている。

 ────今度こそは、避けられない。

 今吹き付けている風圧が、人生で感じる最後の風となるだろう。

 UGNエージェントなんてやっている以上はある程度は覚悟していたが、いくら何でも早すぎる。呆気なすぎる。


「────────っ!!」


 思わず、ぎゅっと目を瞑る。

 なんて情けない表情カオ。勇敢な本部エージェントらしからぬ、惨めったらしい最期。

 瞼の裏側の色彩は、いつも以上に昏かった。

 ────だからハルカは目の当たりにすることはできなかった。


 星が瞬くような、真っ黒なヒカリを。


 ふわり、と。

 絶叫マシーンが落ちる瞬間のような、心地のいい浮遊感。びっくりはしたが、声を出す暇はなかった。


 訪れるべき終焉は訪れず。

 断絶するべき意識は、まだ未練がましく継続している。


「っ、え・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」


 おっかなびっくり目を開ける。少女の碧い瞳に映ったのは──────


「────怪我はないな、苗渕」


「なっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 互いの吐息がかかるほど近くに、伊庭賢二の端正な顔があった。


「~~~~~~~~~~~っ!!」


 心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。咄嗟に飛びのこうとしたが、どうやら地に足が着いていない。

 見れば、少年の細い腕が、ハルカの身体をそれはもうがっちりとホールドしている。

 ────ちょうど、お姫様抱っこのような形で、だ。


「あん、た・・・・・・! ちょっ、どこ触ってんのよ・・・・・・っ!!」


 動けないのは分かっているが、それはそれとしてジタバタと抵抗する。賢二は特に苦もなくハルカを支えたまま、なんだったら怪訝そうに眉をひそめた。


「どこ・・・・・・と言われれば全身だが。正確に言うなら右手が臀部から大腿部、左手が腋窩から背部辺りに接触している」


「正確に言うんじゃないわよっ! 余計に意識しちゃうでしょーが!!」


 はてな、と小首を傾げるトップエージェント。


 助けられた。

 それは分かっている。直撃の瞬間、《ハヌマーン》の高速移動でハルカを回収して後退したのだろう。

 実際あの時は自分の力ではどうにも状況だったし、柄にもなく人生を儚んじゃったりしていたのだから、本来は真っ先に感謝すべき状況だ。


 でも、仮にも女の子のあんなところやこんなところを鷲掴みにしているのだから、ちょっとぐらい狼狽えたりしてもいいと思う。この男、仮にも男子高校生程度の年代のハズだろう。思春期らしい浮ついた感情とかないのか・・・・・・!?


(ああそう私みたいな貧相な女はモノ扱いってワケねこのトップエージェント様は・・・・・・ッ!!)


 ニキビひとつない頬を平手で張り倒してやりたい衝動に駆られるが、どうせフィジカル面では勝ち目がないのだから我慢する。


「まったく、一撃決めた程度で気を抜くとは・・・・・・《キュマイラ》シンドローム相手は、獣化が解除されるまで警戒を解くなと教わらなかったか?」


 で。

 口を開いたかと思えば、このお小言である。


「うっ・・・・・・喉抑えてうずくまったから、毒が回ったと思っちゃったのよ! 私の生み出す麻痺毒の症状と全く同じだったし!」


「未熟者め。《ハヌマーン》シンドロームの気体制御能力を忘れたか。

 吸い込んだのが毒だと認識した瞬間に体内から排気して、代わりの酸素を周囲からかき集めて呼吸を再開させたんだろうよ。多少は食らうが、《キュマイラ》の再生能力で問題なく回復できる。ケダモノに知恵較べで負けたのだ、貴様は」


「ぐぐぐ」と。痛いところを突かれて、呻くような声を漏らす。確かにそれはもう自分が100%悪いし口を挟む余地は全然ないんだが、現在進行形で女の子のお尻を触りながら言うことですかそれ!?


「分かった分かりましたっての! 説教は後で聞いたげるから、今はとにかく目の前の敵をなんとかしなきゃ・・・・・・!」


 慌てて周囲を見渡す。こうして話し込んでいる間に追撃が飛んできてもおかしくない。少量とはいえハルカの毒を吸い込んだのだから、以前のようには動き回れないだろうが、先程の攻勢を見るにまだまだ元気に暴れるだろう。


(いた・・・・・・! 結構遠いな、あの一瞬でこんなトコまで退いたのコイツ!?)


 果たして、黒狼は依然として元の高架下に立っていた。つい数十秒前までハルカがいた場所には巨大なクレーターが出来ている。賢二の助けがなかったら、と考えるとゾッとする。


「その必要はない」


 賢二の声にはまるで危機感がない。気を抜くなと言っていた本人がこれだ。


「はあ? 何言って────」


 抗議しようと振り返った途端に、頭の後ろからトマトを握り潰したような音が聞こえた。


 ────ぶちゅり、ぶしゅっ。ぼとぼとぼと。


 賢二の心底つまらなさそうな視線の先を追うと、ありえない光景を目の当たりにすることとなった。


「なっ───────」


 獣の上半身────伸び切ったミリタリーパンツから上が消失していた。断面からは、噴水のように血液がびゅーびゅーと吹き出している。


 上半分はどこにいった。

 獣本人が作ったクレーターの方に目をやると、スープ皿のような楕円の窪みに溜まった赤い液体の中に、ブロック状に細切れにされた獣の肉が転がっていた。

 ごろごろと、まるでカレーのじゃがいものようだった。


「─────戦いは既に終わっている。じきに《ワーディング》も解けるだろう」


 そう言って。

 賢二はようやくハルカを降ろした。


「うそ・・・・・・・・・・・・」


 ────────ありえない。いつ、どのタイミングで切り刻んだ? それも一度や二度の斬撃ではああはならない。


 《キュマイラ》混じりの賢二は腕を部分的に獣化させて対象を攻撃する。爪で切り裂くのだから、当然切り口は指の数と同じ五つになる。肉片の数からして、四度は引っ掻いたハズだ。


 とはいえ、攻撃のタイミングなど、ハルカを救出するべく肉薄したあの瞬間しか存在しない。加えて、ハルカの身体を抱えて飛び退いた時には、人間の手に戻っていた。先ほどまで触れていた賢二の指の感触は、今なお太ももの辺りに残っている。


 接敵と腕の変容。

 最低でも四度に渡る斬撃。

 変容の解除。

 ハルカの救出と撤退。

 あの瞬間に、体感時間にして一秒もないあの刹那に、これだけのことをやってのけたというのか?


(────────信じらんない。どんだけデタラメなのよ・・・・・・!!)


 次元が違う。

 理解の及ぶ強さであれば、まだ対抗心なり劣等感なりを感じることが出来ただろう。だが、賢二のそれは常軌を逸している。


「・・・・・・・・・・・・っ」


 正直、舐めていた。トップエージェントの称号を侮っていた。賢二の思い上がりも、藤崎の評価も全て不当だと。

 けれど、この結果はどうだ。結局ジャームは賢二の独力で倒してしまったではないか。


 思い上がっていたのは、間違っていたのは自分だ。

 苗渕ハルカは、文字通り伊庭賢二のお荷物でしかなかったのだから。


「────苗渕。何をぼうっとしている。《ワーディング》が解けると言っただろう。早くジャームの死骸を灼いてしまえ」


 少年の呆れたような声に、ようやく現実に引き戻された。


 賢二の言う通り、惚けている暇はない。一般人だけでなく、この街のUGN支部にもバレてはいけないのだ。一般人や三下レベルのエージェントであれば記憶操作も容易だが、支部長レベルとなると厄介だ。時間はかかるし、記憶の整合性に違和感が生じる。そういう感覚の鋭いオーヴァードであれば、記憶操作を知覚するかもしれない。


 字桐市の支部は設立から三年程度しか経過しておらず、規模もエージェントのレベルもお粗末なものだ。しかし、支部長である能見耕助は相当なキレ者であるという。『あの』藤崎弦一がそう表現するのだから、それはもう紛れもない知将なのだろう。


 どこに敵が潜んでいてもおかしくない。それがUGN本部エージェントに課される任務の基本だ。特に、今回のような身内絡みの案件は非常に始末が悪い。獅子身中の虫とはまさにこの事だ。


「・・・・・・わかった」


 賢二の後を追って赤い水溜りの方へ駆けつける。細切れにされた肉が小島のように浮かんでおり、鉄臭い匂いが鼻につく。獣化が解けたのか、肉の表面に毛皮はもうなかった。

 吐き気を催す最悪の光景だが、エージェントである以上、この手の地獄絵図にはもう慣れている。訓練期間中に胃液が尽きるまで吐いてしまったので、涙と同じでそういう感性は枯れてしまっているのだ。


「燃やすわよ。

 ・・・・・・公衆トイレの百倍キツイ臭いがするから、吐きたくなかったら息止めてなさい」


 手のひらに炎を浮かべる。ハルカの場合、火力の低さを可燃性の化学物質で補っているため、燃やし切るのに少し時間がかかる。タンパク質が焼ける臭い。鉄分が蒸発する臭い。どれもこれも肉である以上、どこか香ばしく感じてしまう。

 その事実こそがおぞましい。

 おかげで、UGN加入以来、ハルカはビーフステーキを食べられない体になってしまった。


「待て」


 そういう苦悩とは無縁そうな童顔の少年は、何かに気付いたようにハルカを片手で静止した。


「早くしろって言ったり待てって言ったり・・・・・・もうっ、今度はなんなのよ!」


 ハルカが苛立たしげに手の内の炎を握り潰して消し止めると、賢二はなんの躊躇いもなく赤い水溜まりの中に素手を突っ込んだ。


「うわ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 じゃぶじゃぶ、と撹拌するように。ほかほかと湯気の立ち上ってきそうなスープを手探っていく。

 最悪の水遊びである。


「・・・・・・・・・・・・アンタ。その手でさっきみたいに私の身体に触れたら承知しないわよ」


「口をつぐめ。今集中しているのだ」


 やっと見つけたのか、りんごみたいに真っ赤に染まった拳を血の池地獄の中から引き抜いた。その内には、何か布切れのようなものを握りこんでいる。


「・・・・・・・・・・・・やはりな」


 その布切れを拡げるなり、賢二はバツが悪そうに呟いた。


「・・・・・・何よ。何を見つけたの?」


 ハルカが訝しげにそう効くと、賢二はそれを彼女に手渡そうとする。・・・・・・それを拒否られると、仕方なく両手で端を持って彼女の鼻先に突き付けた。


「・・・・・・! これって・・・・・・・・・・・・」


 それは、軍服や隊服に縫い付けられるようなワッペンだった。獰猛な猟犬のシルエットに『UGN』のロゴ。UGNエージェントであれば誰しもが一度は目にしたことがある、UGN最強の戦闘部隊を表すエンブレムだった。


「“ストライクハウンド”・・・・・・ッ!?」


 ──────信じられない。

 当たり前の話であるが、UGN最強の戦闘部隊である“ストライクハウンド”は、UGNで最も危険な戦場へ赴く精鋭だ。その彼らが、こんな小さな街に動員されたばかりか、見る影もなくジャーム化してしまったというのか?


「・・・・・・藤崎に情報が回ってない。日本支部の独断だ」


 賢二が苦々しげに呟いた。

 少年は川の水で両手に付着した血の汚れを落とすと、


「死体を焼却次第、藤崎に報告しておけ・・・・・・撤退申請も忘れずにな」


 ハルカの方を見もせずにそう告げた。


「撤退申請って・・・・・・ここまで来て尻尾巻けっての!?」


 撤退申請。

 エージェントやイリーガルが現場判断で『任務続行は危険』と判断した場合、本部及び各地方支部はこれまでの報告書と証言を吟味して、撤退判断を下す義務がある。UGNの数少ない人道的措置・・・・・・と言ってしまえば聞こえはいいが、ほとんどの場合は戦場慣れしていないイリーガルが怖気付いて利用するものだ。本部エージェントの任務ともなると、申請されるのは大抵撤退ではなく増援である。

 つまり撤退申請とは、事実上の敗北宣言に他ならない。


 けれど、今回の場合はまず間違いなく申請は承認されるだろう。

 なぜなら・・・・・・


「この一件は想定よりずっと闇が深かった。俺の想定よりも・・・・・・そして、藤崎の想定よりもだ。お前の手に余る」


「っ・・・・・・!」


 それは事実だ。今更食ってかかるまでもない、歴然たる事実。けれど・・・・・・


「・・・・・・アンタはどうすんのよ」


「俺はもう少し残る。・・・・・・やることができた」


 やっぱりそうだ。

 この少年は、ハルカを安全な場所に送り返して、一人で向き合う気なのだ。

 ──────本部の想定を超えた、闇とやらに。


「そんなのっ・・・・・・・・・・・・」


 危険すぎる。

 そう言おうとして、自分自身の立場を思い出した。

 ・・・・・・お荷物が、何を偉そうに。


「・・・・・・弱者は素直に忠告を聞け」


 そうやって、突き放すように吐き捨てると、賢二は一人で河川敷を後にした。


 ああ、と思った。

 ここまで走ってきた時と同じだ。今はゆっくり歩いているというのに、少年の小さな背中が────


(────────遠い)


 足から力が抜ける。

 歩き疲れた迷子の子供みたいに、少女は膝を抱えるようにしてうずくまった。


 逃げ道を用意された。

 屈辱的なことのはずなのに、そう思うべきなのに。余計なお世話だと憤るのが当然の反応なのに。

 どこか安心してしまっている自分が、どうしようもないほどに腹立たしい。


「ああ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 困った。今はちょっと立てない。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・弱いなあ、私」


 黄昏刻の終わり頃。

 高架下から沈みゆく西日に照らされて、血の色は目立たなくなっていった。

 日常も非日常もない。


 どこにでもいるただの女の子が、独りで静かに泣いているだけだった。

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