第6話

 長い黒髪、引き締まった細い体、ぱっちりした黒目。一条雅があいつに似ているのはそういった外見の特徴だけだ。顔形は違うし、纏う香りも喋り方もクセも違う。なのにどうしてこんな感情になるんだろう。俺はそんなに未練がましかったのか。


 放課後の音楽室で、一条雅が一人机で微睡んでいる。窓から射す夕陽が彼女の髪を茜色に染め、長い睫毛が彼女の小麦色の肌に影を落としている。開いた窓から風が入り込んできて、彼女の髪の毛をふんわりと揺らした。黒髪から覗く蜂蜜色の耳に白いイヤホンが刺さっている所を見ると、音楽か何かを聴きながら眠ってしまったのだろう。俺はその小振りの耳に指先を伸べた。

 人差し指と親指の先に伝わる体温はひんやり冷たい。俺はなだらかな円を描く耳介をゆっくりとなぞってみた。


「……ん」


 一条雅が僅かに身じろぐ。俺は耳の窪みを何度か撫でると、その指をそのままうなじに滑らせた。


「ふっ……ん……」


 甘い声が俺の脳髄を痺れさせ、むずかるように一条雅の眉根が寄る。

 すると唐突に大きな黒目がぱちりと見開いた。


「……え? 鷹村君??」

「!!!」


 ヤバい! 俺は慌てて手を引いた。というか今まで何してたんだ俺は。これはあいつじゃない──じゃなくてこんなことバレたら痴漢扱いされるだろうがっ!

 だが一条雅は焦りまくる俺をきょとりと見上げた後、体を起こし周囲を見回した。


「……え? 今何時? 私寝ちゃってた??」


 その言葉に大きな息を吐く。命拾いした。特に彼女に不審を抱かれなかったらしい。


「──よく寝ていたみたいですね。一条先輩、部活もあって疲れているんじゃないですか。今日はもう帰った方がいいと思いますよ」

「そうかも。ごめんね。起こしてくれてありがとう」

「……いえ」


 髪をかき上げ照れ笑いする一条雅にどきりと鳴った心臓を無理やり抑え、後輩らしく適度な距離を保った笑顔を心がける。そのくらいできなきゃ社会人なんてやってられない。

 帰り支度を始めた彼女を尻目に、俺は窓を閉めていく。防音効果のあるガラス窓はやや重く、力加減に気を付けないと勢い余ってしまう。慎重に最後のひとつを閉めていると、するりと首筋を何かが掠めた。ぞくりと震えが全身に広がる。振り向くと、いつの間にか背後に立っていた一条雅が、俺の首元を撫であげた左手を胸元に戻し、人差し指を立てて口元にあてると目を細めた。


「ふふ。驚いた? くすぐって起こすなんてダメよ。びっくりしちゃうんだから」


 ごく近い位置で俺の顔を覗き込んだ一条雅が、優しく笑う。その笑顔から目を離せないでいる俺の前で、彼女がくるりと身を翻す。

 ブルーハワイのような甘く透明な香りが鼻孔ををくすぐり、残り香が俺に纏わりつく。俺は、足を動かせない。俺は彼女を追えない。

 去っていく背中を呆然と見送るだけの俺の耳に、無常な声が降ってくる。


『プレイヤー鷹村理人、陥落かんらくしました』


 ────ッわかってるよ、ちくしょうっっ!!








 わたしの攻略対象の一人、一年下の木村セオは白い肌、栗色の髪、くっきりした目鼻立ちを持つ、英国人とのハーフだった。


「こんにちはまどか! また会えたね。応援に来てくれたの? だったら嬉しいな!」


 ルックスは王子様、性格は素直で優しい。好みの問題はあるかもしれないが、文句のつけようのない攻略対象だと思う。

 彼は休み時間によく校庭で友達とサッカーをして遊んでいる。どうやらサッカー部らしい。だから見つけるのはそれほど難しくはないが、何しろこれは恋愛ゲームだ。こちらに惚れてもらうために行動を起こさなきゃ始まらない。

 ゲーム会社にいると言っても、わたしの担当は主にRPGだから、恋愛ゲームというものは実はよくわからない。装備の魅力をアップさせたら倒されてくれるのかしら。制服の魅力をアップするってどうすればいいのかしらね。スカートを短くするとか?

 木村セオの倒し方をかなり真剣に考えていると、ほんの少しだけ高い位置にある彼の顔が目の前に近づいてきた。男の子にしては甘めの若々しい香りがほのかに漂う。


「まーどか。お願いだから僕と話している時は僕のことを見て。僕の前で僕以外のこと考えられると、悲しくなっちゃう」

「あっごめん。セオのこと考えすぎちゃったわ」


 確かに礼儀として宜しくない。茶目っ気を乗せながらも素直に謝ると、セオはふふと笑った。


「嬉しい! まどかには、いつでもどこでも僕のことをいっぱい考えてほしいよ。でも実はね。僕もよくまどかの可愛い所いっぱい考えるんだ。裏表ない所とか、僕を見かけた時のゆるんだ笑顔とか──」

「ちょ、セオ、ストップ! ストーップ!!」


 色々節操のないセオの口を両手で覆うと、目を丸くしたセオがわたしの手を優しく口元から外して笑った。


「意外と照れ屋な所とか。ほら可愛い」

「!!!」


 セオの好感度はまだ五十にも満たない。だからこれは彼の素だ。何度かのやり取りでそれはわかってる。わかってるんだけど。


『プレイヤー藤堂円架、陥落かんらくしました』


 ──わかっててもダメです勘弁して! 捻くれた社会人生活を送るお姉さんは、下心もない純粋ドストレートな褒め言葉に慣れてないのよ!!

 ってかプロジェクトマネージャー誰よ出てきなさいっ! わたしへの好感度低い相手ってつまり低レベルの敵ってことじゃない。それでこの強さとかバランス悪すぎっ! これをどう攻略しろって言うのよ!?


  こうしてわたしの二周目は、ゲームバランスに文句を言いながら終わった。






「こんな所で会うなんて奇遇だねまどか! 友達と待ち合わせ?」


 その日、セオは屋上に一人でいた。三周目にもなると流石に彼のストレートな言葉にも慣れ、いちいち感情を揺らすこともなくなってきていた。


「まどかはリラックスできる声を持っているよね。ずっと聞いていたくなる。かけている眼鏡もクールだ。まどかの可愛さにスパイスが加わってコケティッシュでチャーミング」


 そうでもなかった。落ち着け、落ち着けと呪文のように胸中で唱えながらわたしは何とか笑顔を作る。


「ありがとう。本当は裸眼でもいいんだけど、折角お褒めの言葉をもらったのだから今後もずっと眼鏡をしてようかしら」

「そうなの? それなら僕は眼鏡のないまどかの方がいい。まどかを隠す物なんてひとつでも少ない方がいい」

「セオ、それ一歩間違えるとセクハラに聞こえるわ」

「まどかは可愛くて好きだよと言われるのが嫌なの?」

「……嫌とかそういうのじゃないわ」


 彼のあまりにもストレートな物言いに早々に白旗を上げ、準備していた武器で攻撃することにした。いつもわたしが後攻なのよねぇ。素早さ上げるアイテムどこにあるかしら。


「それよりセオを探してたの。前の時間、調理実習でドライフルーツのケーキ作ったの。もし良かったら食べてみない? 自分一人で食べたら太っちゃうから、嫌いじゃなければもらってくれると嬉しいわ」

「ホント!? 僕ドライフルーツのケーキ好きだよ! ありがとうまどか!」

「ホントはパイの方が好きなんでしょ? でも今回はケーキで我慢してね」

「次があるの!? うわぁ! 楽しみ!」


 目を輝かせたセオが、わたしの差し出す赤いリボンのついた袋を受け取り、中身を覗いている。当然攻略対象の好みはリサーチ済だ。クラスメイトの泣田紗枝は予想通りサポート能力を持っていて、情報に応じたターン数、例えば一ターンなら休み時間一回分消費すれば情報を調べてきてくれる。ちなみに戻ってきたらすぐ次のリサーチに動いてもらうので、紗枝ちゃんと遊べる機会はほぼない。可愛い子だからもっと構えたらいいのにな。

 つらつら考えている間に、セオはケーキを一つ取り出すとぱくりと食いついた。味見判定で問題なかったから、出来栄えは悪くないはず。


「ラブリー! 美味しいよまどか。うわぁこれどんどん食べたくなっちゃう。どうしよう」

「あはは。いくつか入ってるから、後で時間のある時にでも食べて」


 安心したのと、本当に困ったというセオの様子に素直な笑みがこぼれると、彼は笑顔で頷いた。


「うん。ありがと。でもまどかも一緒に食べよう? はい」


 と笑顔で差し出されたのは、小さく割られたケーキ。いわゆる半分こというヤツだ。えっと。


「セオ、わたしは食べたからいいの。それは貴方の分よ?」

「でも美味しいからこそ僕は今まどかと一緒に食べたい。だからほら半分こ」


 引きそうにない彼の様子に仕方なく手を出そうとすると、その前にセオがわたしの唇にケーキを押し付けてきた。ほろりと崩れ落ちそうなケーキの感触につい口を開けてしまうと、セオの指がわたしの口の中にケーキを押し込んでくる。仕方なくこぼさないよう注意しながら唇で咥え咀嚼すると、ケーキのしっとりした甘さとアプリコットの甘酸っぱさが口の中に広がった。うん。美味しいわ。──じゃなくて。

 じとりとセオを見ると、彼は目を細めて笑った。


「ふふ。まどか可愛い。言いたいことがあるなら、口の中の物が終わってから、ね?」


 一言物申したいが、確かにもごもご喋るのはみっともない。ホントこの子のやることなすこと、こっぱずかしいな。素でこれだからホント恐ろしい。ああそうだ。そろそろセオの好感度をチェックしに行ってもいいかもしれない。それとわたしの彼に対する数値も念のため。

 にこにこわたしを見詰めるセオの視線に居心地悪さを覚えながら、やっと口の中の物を飲み下すと、青い空を駆け巡るように鐘の音が鳴り響いた。


「あ。休み時間終わったみたいだね。つい長居しすぎちゃった。そろそろ教室に戻ろうか。……って、え? まどかどうしたの? 顔が青い……というか白いよ? 大丈夫?」


 セオは大抵校庭にいる。いない場合は、一年の教室、もしくはここ屋上だ。だから彼に会おうと思ったら順に回っていくんだけど、今回は先に校庭を見にいってしまっため、かなり時間をロスした。

 悩んだのよ。危険かなーとも思ったのよ。でも家庭科の授業後の差し入れイベントって、どう考えても好感度大幅アップの特殊イベな感じするじゃない。しかも味は時間がたつにつれ落ちていくとか、ご丁寧にも家庭科の先生が教えてくれたんだもの、すぐにでも持っていきたいと思うじゃない!

 戻りたくない。戻りたくない。心配そうなセオに背中を押され、仕方なくよろよろと重い足を進める。セオが校舎に続く扉を開ける。扉の向こうに誰もいなかったことに心底ほっとして、二人で階段を降りる。でもわたしは甘かった。U字型になった踊り場を折り返して下を見ると、階下には今最も見たくない長身──担任の鏡圭司かがみけいしの姿が、あった。


「──藤堂さん? 授業をサボるとはいいご身分ですねえ」


 定型文のようなその言葉に、血の気が引く。助けを求めるように隣を見ると、セオは失敗したという表情で首を竦めた。


「まどかゴメン、僕のせいだ。──先生すみません。僕が彼女を引き留めていました」

「言い訳は不要です。木村君は早く一年の教室に戻りなさい」

「まどかは……」

「彼女は担任として僕が連れていきます。早く行きなさい」


 セオは心配そうな顔でわたしを見た。でも彼は所詮一介の生徒であり、NPCだ。この状況を打破する力は、ない。


「まどか大丈夫? ゴメンまた後で」


 こちらを気遣いながら去っていくセオの後ろ姿を見て、わたしは思う。セオ、今の貴方とわたしの間には『また後で』というのはないのよ。次に会う時は新しいセオと『初めまして』になるの。

 動かないわたしの元に、鏡圭司の姿が近付いてくる。階段を踏む硬質な靴音が鳴り響き、わたしを少しずつ追い詰める。

 わたしのいる所から二段下で止まった彼は、ほぼわたしの目線と同じ位置でうっすら笑った。


「藤堂さん、違反ニです。規則ですから担任として指導しなければなりません。生徒指導室にいらっしゃい」

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