第7話
百八十はあるだろう長身、真面目そうな涼やかな目元に、どこか甘さの残るマスク。担任教師の鏡圭司は、女性にモテるルックスを十二分に持っていると言えるだろう。それは認める。
生徒指導室という名を冠した、テーブル一つにソファ二つだけの狭い部屋にわたしはいた。ここに入るのは二回目だ。ソファに座って鏡圭司の端正な顔立ちと向き合いながら、わたしは今、内心だらだらと冷や汗をかいている。
「藤堂さん、生徒指導要綱は読まれました? 第一に記載されているのが授業時間は守ること、です。そして違反が二回となった場合、担任による生徒指導を受けること、とあります。残念ながら藤堂さんは違反二となりましたので、こうして直々に指導が必要となったのですねー」
「先生、今回授業開始時間に間に合わなかったのは反省しています。でもわたしはまだ違反二になっていません。こうして指導を受けなければならない理由がわからないのですが」
そう。それが大人しく連れられてきた理由の一つだ。もう一つの大きな理由は、以前コイツから逃げようとして更に酷い目に遭ったからなんだけど。
「残念ながら、違反二なんですよー。貴女は学校に不必要な物を所持していました。木村君に渡していたのは、自宅から持ってきたものですね?」
わたしはセオにあげたフルーツケーキのラッピング袋を思い出す。確かにあれは、今日調理実習があることを知って家から持ち出した物だ。え。あれがマズかったの?
正面に座った鏡圭司が溜息をついた。
「本当は見逃してあげたい所なんですが、現場に居合わせてしまった身としては、違反として指導せざるを得ない。本来なら違反一の注意で済んだ所だったのに、本当に本当に残念です」
「それは失礼しました。ちなみにわたし、常日頃から先生はとても有能で生徒の信頼も厚く、頑迷な先生方とは一線を画する方と伺っています。わたしも充分反省していますし、お忙しい先生のお手を煩わせるのも大変心苦しいです。学生の本分である授業時間を消費するのも本意じゃない。 今回の注意は厳粛に受け止めますので、早々に授業に戻っても宜しいでしょうか?」
何とか突破口を見つけようと提案してみると、長身の男は組んだ手の上からじっとこちらを見詰めてきた。
「とても心惹かれるご提案ですが、僕も教師である以上、決められたことに従わない訳にはいかないんですよねえ」
「生徒が心底反省することが一番大切なことであって、指導の遂行は手段であれども目的ではないですよね?」
「貴女が心底反省していることが、どう証明されるというんでしょう?」
「それはもう。反省文でも何でも、心の丈を思う存分示させて頂きます。勿論、次は絶対ありません」
流れるように返すと、一旦黙した鏡圭司が深く溜息をついた。
「──ったく、口ばかり回るクソ生意気な小娘が」
鏡圭司がソファからゆっくりと立ち上がる。ヤバい。
彼が長い足を伸ばし、こちらに向かってくる。
「せ、先生。わたし先生のこと大好きなんです。だから密室に二人きりとか罰じゃなくてむしろご褒美でっ」
「……へえ」
やや混乱気味の頭で捻り出した屁理屈は、薄ら笑いで流される。わたしの右肩のすぐ横の背凭れに、節くれ立った左手が置かれ、上方にあった半身が近付いてくる。わたしの体を影が覆う。逃げ道を探すように視線を向けた左側にも手を置かれ、両腕に囲い込まれる体勢となってしまう。
「僕、藤堂さんには嫌われていると思っていました。何かを頼もうとしても巧妙に避けられているようでしたので」
「いえいえ。そんなことありませんわ。ほら先生大好きでこうやって二人きりになりたくて、気を引くためにわざとそういう態度とってたり何かしたり~」
くすりと鏡圭司が笑う。ぎしりと背凭れが鳴り、頭上にかかる影が濃くなる。右耳のすぐ隣に彼の顔が寄せられ、視界の端をさらりと黒髪が流れる。
「藤堂さんが、僕と二人きりになりたくてそんなことを?」
「……っ! え、えーと」
囁くような吐息が耳にかかり、ぞくりと背中に走った震えがわたしの声まで震わせる。
「だとすると、再犯の可能性があるんで、簡単には解放できませんねえ」
「勿論そんな先生に嫌われるかもしれないことする訳ないじゃないですかヤダー。ってか教師としてこの体勢問題あると思うんですけどそこの所どうですか先生っ!?」
耳に唇が触れそうな程近くにあった顔がやっと離れ、平然とした表情と今度は間近に向き合うこととなる。
「どこか問題ですかね?」
「どこもかしこも問題なんじゃないですかっ!?」
彼は軽く笑うと突如人差し指をわたしの鼻先に突き付け、触れるか触れないかの所で止めた。
「僕は貴女に指一本すら触れていない」
長い指先がゆっくりと下に移動する。唇のすぐ上、首筋、鎖骨、胸の中心。正中線に沿うように真っ直ぐ下に、けれど絶対に直接触れない位置を指が辿っていく。
臍の辺りでぴたりと止めると、彼はその指を徐に自らの唇に寄せて笑った。
「問題ないですよね?」
「ありまくりだと思いますっっっ!」
わたしの心からの叫びが室内に響き渡ると同時に、お馴染みの音声が降ってきた。
『プレイヤー藤堂円架、
声が終わっても景色は変わらない。プレイヤーが陥落したら始めの位置に戻る仕様のはずなのに。
嫌な予感が脳裡をよぎる。
────も、もしやまさか。
『プレイヤーは現在、クリア後のエクストラモードですうり』
ッッここでエクストラモードなんてありえないっ!!! 鷹村さんさっさと堕ちてぇぇぇっ!!
藤堂さん陥落のアナウンスが流れた時、俺は高坂美琴と対峙していた。
「やっぱり来たんだね、理人兄」
音楽室に夕陽が射し、美琴の白い頬に影を作る。彼女は戸惑う俺に、いつもの彼女からかけ離れた不思議な笑みをむけた。
「一条先輩ならいないよ。今日ここは使えないって言って帰ってもらったの。がっかりした?」
「一体何でそんなことをしたんだ?」
心底不思議に思って聞くと、美琴の顔がくしゃりと歪む。
「理人兄が────理人兄がっ! 一条先輩ばかり追い掛けてるからっ! り、理人兄何やってるの!? 休み時間の度に先輩の後を付け回してみっともないよ!」
「みっともない?」
すうっと波が引くように困惑が消え、代わりに冷たい血が流れていく。
「俺がみっともないと言うなら、そんな俺に付きまとい、彼女を追い出したり裏工作に勤しむお前は何だ?」
「裏工作って……理人兄、何言ってるの?」
「知らないと思ったのか? 今回だけじゃないだろう。秋月生徒会長と共謀して、彼女と俺を会わせないように色々やっていたみたいじゃないか。他にも妙な噂を流したりもしたらしいな」
赤から白に変わった頬を見て、リトマス試験紙みたいだなと笑いが漏れる。どちらかと言うと猪突猛進、感情に素直な性質の美琴は、謀計に向いている方ではない。
「そんなに俺に構って欲しかったのか? じゃあ構ってやる。まずお前の最近のやり方だが、もう少しうまくやった方がいい。あんな雑なやり方じゃあ、相手に見付かった時に取り返しのつかないダメージを被ることになる。特にお前にとって相手の好悪の感情こそが大事なんだから、そこに対してのリスクが大きいと完全に本末転倒だろう? ああ、それとも──」
腕を組んで美琴を見下ろし、口端だけで笑ってやる。
「実は、俺がどう思うかなんてどうでも良かったのか」
「──ッ! そんなことない!」
真っ赤になって声をあげた美琴の目端に雫が浮かぶ。潤む大きな瞳がまっすぐ俺に突き刺さるのを感じ、下腹の奥の方が熱くなる。ああマズイ。
「理人兄、わたし本当に理人兄と話がしたかっただけでっ! 最近朝もちゃんとわたしのこと見てくれないし、帰りもどこか行っちゃうし! だからわたし──!」
「だから強硬手段に出たって? 流石に短絡的過ぎるだろう。それでこうして会ってみてどうだ? 今この状態がお前の望む形なのか?」
「違う……そうじゃない。だって……」
美琴の声が震える。猫のような瞳が揺らめき、垂れ下がる栗色の髪に隠れる。
ああ、残念だな。俺は見えなくなった彼女の瞳を思って内心嘆息した。普段こちらが気圧されるくらい真っ直ぐな瞳が、潤み不安に揺れるのを見るのは中々そそられるのに。
「……わたしは……わたし……理人兄は……」
「俺が?」
できるだけ優しい声で続きを促してやる。どこか待ち望む気持ちを胸に抱きながら。
「理人兄は一条……ううん。わたしのこと、どう思ってる?」
前髪の隙間から恐る恐るといった感じで瞳が覗く。女の上目遣いはあざとくてあまり好きじゃなかったんだが、本気の怯えと僅かな期待にすがる
どう思っているか、か。
「妹のように、一番身近で話しやすい
面白そうな
「それ、だけ……?」
「まあ、現状それ以外ないな」
俺の表情から少しでも何かを探し出そうと覗きこむ美琴に肩を竦めて答える。求められているものはわかるが、それをそのまま与える気はない。これ以上答えようがないのも事実だが、意地の悪い気持ちが若干入っているのは認める。
美琴が肩を震わせ俯く。これでもオブラートに包んだつもりだったが、やり過ぎたのだろうか。
「……から……」
「ん?」
小さな声に反応すると、美琴が今にも溢れだしそうな涙を大きな瞳にいっぱい溜めて、まっすぐ睨み付けてきた。
「わたし、妹なんかじゃないからっ!」
叫ぶと、美琴が突進してくる。驚いて腕で受け止め──きれない! しまった! 今の俺の体は成人したそれじゃない!
そのまま二人で後ろに倒れこむ。うまいこと机は避けれたが、地面に打ち付けた尻にかなりの衝撃が来た。痛みはないがじんじんする。胸に美琴がしがみついてくる。
「理人兄、わたしをちゃんと見て! わたし、わたし……」
美琴が顔を上げる。俺の右手を掴んで自らの胸に引き寄せる。うわマジかっ!
「ほら。わたしもちゃんと女なんだよ。わかるでしょ。ね?」
手に柔らかい膨らみが押し付けられ、俺の指先が温かさに沈み包み込まれる。それなりにあるけどやっぱりもっとこう、じゃなくて。
「やめろ美琴」
「何で!? 理人兄が望むならわたし──っ」
「やめろと言っているんだ」
強めた語気に美琴が怯んだ拍子に、右手を払いのけ、逆に両の手首を掴み返す。驚愕に見開かれた彼女の大きな瞳を下から覗き込んでやる。
「美琴、こんなことをしても無駄だ。俺がお前に手を出すことはないし、女として意識することもない」
「理人、にぃ……」
「お前に俺を変えることは、できない」
美琴の瞳からついに雫がころんと転がり、俺の制服の胸元を濡らした。
『プレイヤー鷹村理人、
妙な達成感と不思議な高揚感とほんの少しの後ろ暗さを感じながら、俺の三周目は終わった。
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