(5

「ミスエクン?」

「そう、瑞枝実くんっていう男の子」


 いつかのあの子が嬉しそうに語っていたのを、私は今でも鮮明に思い出せる。

 紙面を通してでしかないけれど。あの頃はまだ無知で、現実を生きるあの子の話を聞くことであらゆる世界を学んでいった。会話こそが教科書で、記憶が正しければ、世の常識と仕組みをようやく理解しはじめたところだったと思う。

 そんなときだった。彼の名前を目にしたのは。


「そのミスエクンがどうしたの?」

「初めて話しかけてくれたんですよ、すごくないですか?」


 文字の向こうの彼女はどんな顔をしていたのだろう。今もたまに考える。人生の先輩であるあの子は私にとっての先生であり、いつだって冷静に物事を見つめている節があった。感情を読み取ることができずにいた私は、どういう風な感情で語っているのだろうかと首を捻ったものである。

 今ならわかる。きっとあの子は微笑みながら書いていた。なんてことない教室での出来事を思い出して、口元を緩めながら文字を綴っていた。

 彼の話が飛び出る頻度は高まり、内容は自分のことのように誇らしげ。私は顔も知らない彼に興味を惹かれていった。


「それでそれでっ? オトモダチになった!?」

「あー……ううん。あはは、嫌になっちゃうよね、こんな自分が……死にたいよワタシ……」

「えーなんで!」


 『枝垂挫ゆい』は孤立していた。

 幼い頃、事故にあって長期間の入院が余儀なくされたことがあった。それ以来、友達をつくることができなくなって、複雑で残酷な青春に馴染めなくなる。きっと彼女が内面をさらけ出せるのは、あのノートの中だけだったのだろう。居なくなってしまって初めて理解できている。

 「ようやく話しかけてくれた彼に、ろくな返事さえ返せなかった」と、あの子は何度も悔いていた。私はいつしか毎夜相談を受けもっていて、漫画とネットで得た知識を総動員して励ます……そんな、ひとりでふたりの日常。彼女が彼と同じ高校を選んだのも、臆病なくせにどうにか勇気を振り絞った選択。一言でもいい。あの日返せなかった返事を、挨拶を、真っ正面から贈るために努力していた。

 理不尽な人間関係に晒されながらも、毎日、毎日。

 心をすり減らしながら。

 ちっぽけな私は、それを紙面の向こう側から眺めているだけだった――。



◇◇◇



 気づくと、夜空の下に立っていた。

 辺りは薄暗くて、スカートには辛すぎる寒さだった。

 乾いた風が庭木を揺らし、静寂の落ちた住宅街を吹いていく。夕飯どきの家々には暖かみのある明かりが灯っていて、暗闇から眺めるとどうしようもなく眩しい。自分には届かない光に思えて、哀しくなる。今包まれているこの闇が自分の居場所で、寄り添ってくれるものなんて何もない。そんな得も言われぬ孤独感が襲う。

 『私』の家も、眩しい家々のうちのひとつだった。

 同様に手が届く気配はない。手を伸ばせば玄関は開けられるし、靴を脱いで廊下を進めばきっと母親が包むようなお出迎えをしてくれるだろう。数ヶ月とはいえ、何度も経験したから想像は容易だ。

 鉛のように重い身体を動かす。

 長い時間呆然と突っ立っていたようだ。全身がみしりと音を立てた気さえする。

 指先が玄関の取っ手を握る。自分に不釣り合いな重さを意識しながらも、私は中へ入った。

 暗い玄関。

 冷たい空気とともに踏み入る。肩にかけたカバンが重力に耐えかねて滑り落ちる。

 伸びる廊下の先に、曇りガラスが見えた。向こう側が生活の明かりで満たされている。本来であれば空腹を誘う香り。今晩はカレーで、『私』の好みに寄せた甘口なのだと思う。あの子はもう少し辛い方が好きだ。

 身につけた制服から、微かに炭のような香りがした。

 暗い玄関に、揺れる炎の幻をみる。ぱちんと弾ける音。薄い空に立ち上る煙と鼻をつく匂い。勢いよく燃えさかるキャンプファイヤーの赤、生徒のつくるシルエットが影となって私の足元まで手を伸ばす。

 空腹はなく、最後に食べたものを思い出そうとする。けれど記憶はおぼろげで、覚えているのは味のしないぶどうジュースだけ。文化祭最終日。今日も今日とてガッコウには屋台がたくさん出ていたはずなのに、私はろくなモノを口にしていない。

 日中はなにをしていたのだろうか。追い込みとばかりに息巻くクラスメイト、隅っこで眺めている私。温度差に晒されながらも役割をこなして、終わってからは……何をしていたのだろう。

 ああ、そうだ。

 ずっと追いかけていた。彼を探して、話しかけた。話しかけたはずなのだけど、何を話したかまでは覚えていない。私は『私』の代わりに『枝垂挫ゆい』の感情を伝えたくて、でも方法が不明で困っていた。

 哀しそうな彼の微笑みだけが浮かび上がる。思い出すだけで胸の奥が疼いて、激しい痛みを伴う。締め付けられるような感覚は日に日に強くなって、いつか息の根を止めてしまうのではなかろうか。きっとその妄想は正しい。あの子があのような結末を迎えたのなら、私も簡単に消えてしまえる存在なんだ。ヒトというのはそれくらい脆く、私は特にか弱い存在なんだ。

 消えるのは――いやだ。

 消えるのは怖い。

 消えたくはない。

 まだ生きていたい。


 消えないためにはどうすればいいのだろう? この痛みを和らげるには?

 あんな擦り切れそうな顔を――彼にさせなければいい。

 ならどうすれば解消できる? どうすれば痛々しくない、純粋な微笑みを見せてくれる?


 ……。

 …………。




 自室のカーテンは、月明かりさえもはばんでいた。


 ずっと考えている。

 瑞枝くんが怒った意味を。

 微笑みで隠している真意を。

 そしてそれを何度も確認して、勝手に苦しんでいた。


 机に歩み寄る。

 カバンもほったらかしで、上着も床に脱ぎ捨てて、ライトを点けて、ノートを開く。

 ひとつを残しすべてにチェックを入れた『やりたかったことリスト』。連なる文字を指でなぞり、記憶を確かめていく。私の中に、ふたりでこなした思い出が詰まっていた。他人にとっては他愛もない項目をクリアするために、他愛もないことをした日常。それは例えば、帰り道にゲームセンターへ寄ることだったり、休日に喫茶店で話すことだったり。誰もが一度はやったことがあるようなものを『枝垂挫ゆい』は『やりたかったこと』として書き留めていて、私が代わりに辿っていったのだ。


 何度もこのノートを通してやりとりしていたあの頃が、今はもう懐かしい。

 彼女の中で待つ覚醒の夜は、あんなにも深く記憶に染みこんでいったというのに。現実は移り変わりが恐ろしくはやい。

 ……主に押しつけられた人生は、驚きの連続だ。

 『枝垂挫ゆい』に後を任されてわかったことがある。

 現実はそこまで綺麗ではなく、しばしば息を止めてしまうくらいには窮屈。誰もが暗い闇を抱えていて、ヒトによってはソレが途轍もなく濃い黒色。あの子が誰にも悟られないよう我慢して、最後には耐えきれず自壊したのも。そして人生などという重すぎる責務を投げ出してしまったのも、私は頷ける。放り出したあの子を許せる。


 それに比べ、今の私は情けないことこの上ない。

 失敗した自分が憎い。間違えた私が恨めしい。勘違いした自分が愚かしい。


 例に漏れず心に傷を負っていた瑞枝くんを、助けたかった。もう泣き顔を何年も殺してきたような顔を、やめさせたかった。彼にだけは穏やかでいてほしくて、私は頭を悩ませたのだ。

 その結果が、コレとは。お笑いものである。

 何が理解だ。

 何が君のことを知りたい、だ。

 この空っぽの人格はまるで理解していない。瑞枝くんにとって『枝垂挫ゆい』がどういう存在で、可笑しくなった私をどういう風に見ていて、何に心を痛めているのか。

 不器用、などという言葉で片付けて良い状況ではない。そんな甘言で流せるほど私は今の自分に優しくなれなかった。


 ――「瑞枝くんと話したい」


 リストの天辺、一番最初に書き記した『やりたかったこと』に、あの子の筆跡が名前を残していた。

 私が感情を制御できなかったばかりに、瑞枝くんは勘違いをしてしまった。『枝垂挫ゆいは瑞枝実を恨んでいた』と。けれど事実は異なる。あの子は想像の何倍も臆病かつ不器用なだけで、恨んでなどいなかった。


 ゆえに――彼の勘違いを正すことが正解なのだと、私は解釈してしまった。


 結果は見ての通り、より相手を傷つける地雷を踏み抜いて、さらにあの子の生き様まで侮辱してしまった。人格がなんだ。世間知らずで距離の詰め方もなっていないバカなだけの自分が、泥まみれになりながら生きてきた彼女をわかった風に語るなどおこがましい。まして、彼の苦悩を勝手なカタチに落とし込むなど愚の骨頂。

 私は文字通り、死んでしまいたい。


「やるべき……こ……と」


 やるべきこと。

 人生のため、あの子のため、私のため、瑞枝くんのため、私がするべきこととはなんだろうか?


「できる、こと……」


 できること。

 こんな空っぽの私でも、理不尽でままならない現実に歯向えば、何か帰られるだろうか?


 答えなど、出ている。

 ずっと前からわかっていた。


 ただ、私にはそれなりの勇気が必要で――


「――っ!」


 気配を感じて、私は勢いよく振り返った。

 開かれたページから指が離れ、空気が凝り固まったような感覚に陥る。

 部屋は変わらず暗く、四角い空間をスタンドライトの明かりだけが照らしている。私の影が揺れることなく投影されている。

 私以外には誰もいない。母親は依然、階下で夕食の準備にあたっていた。


「……いるの?」


 呼びかけ。

 返答はない。

 私はスタンドライトを消して、再び真っ暗な部屋に戻した。カーディガンとワイシャツの生地を貫通して、寒気が襲う。……否、寒気なんてものは本当はなくて、ただ本能的に存在を感じ取っているだけなのかもしれない。少なくとも、ここ最近になって頻繁に顔をみせる彼女がいることは間違いない。

 数秒遅れた返答。

 無音で答えるように、カーテンが揺れる。

 窓は開けておらず、無風が不可思議な現象を作り出す。


「いるんでしょ」


 ごくりと、息を呑んだ。

 屋上でも感じた恐怖心がせり上がる。冷や汗が額に流れる。

 自身の鼓動を感じながら、ゆっくり踏み出してカーテンを引く。レールを擦る音が部屋に響き、黒一色だった部屋に夜色が入り込んだ。

 暗く、

 暗く、

 けれど完全な黒ではない、儚い光。かつての私が、あの子の身体を借りてずっと見てきた景色。それが窓に映されていた。


「――、」


 弱々しく反射する、自分の像。誰もいない部屋で、不安そうな表情をする自分がそこにいる。窓は鏡のように私と彼女の間に線を引いていて、鳥肌立たせる緊張感が私を支配した。

 おもむろに。向こう側にいる『私』が、だらりと垂らしていた片手をポケットに突っ込む。私はわずかに目を見開いて、所作の細かなところまでを観察した。するりとスカートの横から指が消える。


「ハ……、ハ」


 私の右手に感触があった。

 動いているのは窓の向こうにいるあの子のはずなのに、私は無意識に同じ動作をしていたようだった。

 乾いた笑いが漏れてしまう。こんな非現実的なことが実際に起こっていて、自分が当事者であることがとんでもなく怖い。思い返せば、最近はこういうことが多かった。最初こそ意識があったものの、今では知らぬ間に何か行動を起こしてしまっている。例えば、気づくと屋上から地面を眺めていたりだとか。

 運が良いのか悪いのか。私はおそらく、何度も自殺の衝動に駆られては留めてを繰り返していたのだろう。


「ウソ、だよね……?」


 いつの間に買ったのだろう、ポケットに突っ込まれていたのは、一本のカッターだった。

 突発的に発生する自殺衝動。身体から消えてしまった『枝垂挫ゆい』の人格に対し、残ったソレは未だにあの子の存在を主張している。あるときは手近にあるもので首を狙ったり、あるときは横断歩道で意識が遠のいたり、またあるときは屋上から飛び降りてみようか、なんて想像をもたらす。

 怖くなって、部屋から危険なものはできる限り排除した。私が自殺の道具に使ってしまいそうなものは端から端まで捨てた。

 だというのに、これでは意味がない。

 ――意思に反して、カチカチと指が動いた。


「ひぁっ!」


 反射的にカッターを投げ捨てる。床を滑って、重みを感じさせる文具が音を立てる。銀色の直線が僅かな光を反射した。

 その様を見て、戦慄する。

 ゾワリと背筋が震え上がって、腰を抜かす。後退りしながら、がちがちと歯が音を立てた。


「やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだ……ッ!」


 死にたくない。

 私はまだ死にたくなんてない。

 そう自分に言い聞かせて、おぼつかない手で鞄を漁る。携帯を手に取って、チャットで彼のアドレスを選ぶ。

 私は指で画面を叩いて、迷いなく送信した。

 そして足を滑らせながら立ち上がり部屋の扉を開け放つと、階段を駆け下りる。


「何の音――って、あらゆいちゃん? 帰ってたの?」


 返事をする余裕もなく、私は玄関に駆け寄る。乱暴に鍵を開け、外に飛び出した。


「えっ、ちょちょちょちょ、ちょっと!?」


 胸の中で、何度も名前を呼んだ。叫び出したいくらいに求めていた。なりふり構ってられないほどに私は危機的で、限界だった。

 冷たい夜風。

 暗い街路に、星を散りばめた空。

 私の頬に、熱い涙がこぼれていた。


 べちゃ、と音が聞こえた。

 無様にも転んでしまい、膝に強烈な痛みが走る。



「あ、ああああ、ああああああ……!!」



 それでも、どうにか我慢しつつ立ち上がる。

 震えた全身には言葉にならない衝動とあふれ出しそうな感情が同居していて、私は立ち上がる。

 先延ばしなんてダメだ。足踏みしている暇があったら今すぐに行け。そう鼓舞した。

 現実はそう優しくないことを、私も『私』も知っているではないか。

 そうだ。


 ――私には、もう時間がない。

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