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教室内はすでに文化祭仕様に完成されていて、衣装に着替えたクラスメイトたちが慌ただしくも楽しそうに動いていた。無論、中にはやることがなく、何もしていない生徒も散見される。例えばとあるメガネの男子は友達数人とじゃれ合いつつ談笑しているし、とある女子は今日も変わらず文庫本を開いている。僕はそんな光景をただ呆然と眺めている生徒だった。
枝垂挫はクラスメイトの女子に着せ替え人形のごとく衣装をあてがわれ、慣れない表情で苦笑していた。可笑しくなって、あの女王と一悶着あった彼女がここまで溶け込めているのが不思議でならない。女王も女王で、あれから接触を避けている。部屋の隅に現れた虫のごとく枝垂挫から距離をとっている。あの騒動がまるでなかったことのように、イベントの高まりは塗りつぶしていく。
現実はときに、残酷なほど鈍感だ。
枝垂挫が叫んだ「殺した」の意味を理解できないほどに。いや、理解できなくて当然なのだけど。なにせ事情を知っている者は僕だけだったのだから。
そう考えると、彼女の糾弾は僕だけに差し向けられていたのではないかという気がしてくる。枝垂挫は否定していたが、あながち間違いでもないのかもしれない。
――片腕を抱えた仕草が頭を離れなかった。
小柄な身体の内側に何かを飼っていて、それを抑えつけようとしているような印象だった。僕を糾弾したのがそいつである可能性はおおいにある。
「瑞枝くん!」
思ったよりも近くで名前が呼ばれ、視線をあげる。
枝垂挫がウェイトレス姿で僕を見あげていた。顔が「似合う!?」と訊いていた。
「似合ってるよ」
実は遠目に見ていたから驚きは半減だ。だけどカールを混ぜた髪型やカチューシャ、フリルのついたエプロンを纏う姿は、やはり感嘆するくらいには洒落ていた。
「ふふ、でしょう! 我ながらすごいと思うよ!」
「でも僕はやっぱり普段の方が……」
「え、」
「いや、なんでもない」
危うく口に出してしまいそうになった言葉を押さえ込む。いつのまに住み始めた化け物の衝動を押し殺して、僕は微笑みを貼り付ける。
そんな僕に対し、枝垂挫は明るい色の毛先を弄ってつぶやく。
「ね、ねえ瑞枝くん」
上目遣いで顔色をうかがうような態度だった。次に飛び出る言葉は容易に想像できて、再び口内に苦みが生じる。
枝垂挫は臆した自身を振り払うように首を振って、想像した言葉をなぞる。
「今日、一緒にまわらない……?」
生じた苦みを噛み殺す。内側から湧き上がる衝動は底なし沼、必死にフタをしなければどうにかなってしまう。またあの日の繰り返しをするわけにはいかなかった。こうして目の前に立つ枝垂挫がさらに可笑しくなってしまうことだって、あり得なくはない。今手元にあるソレを知らず追い詰めてしまう関係性を僕はもう望めない。
踏み込むことは、透明なナイフと相違ない。
意図せず相手を傷つけてしまう危うさは無視できない。
かといって、無下にもできない誘いだった。以前の僕ならどうしていただろうか。枝垂挫に近づいた結果、彼女を長年苦痛に貶めた罪を抱えて、どう応えただろうか。
僕は僕を取り戻して、口をひらく。
「いいよ」
「ほ、ほんとっ!」
枝垂挫はパッと顔を輝かせた。
「委員の方で仕事があるから、短時間でよければ」
「たんじ……そっ、それでもいいっ! それでもいいから!」
仕事がある、とウソをついた。彼女を守るためだと言い聞かせれば、罪悪感は薄かった。
枝垂挫とスケジュールを確認しながら、僕はポケットに突っ込んだ左手を握り込んでいた。傷みをともなうほどに。
◇◇◇
開会式が終わり、一般公開が開始してからしばらく経った。
文化祭はつつがなく進行していた。
喫茶店としての運営は問題が起こることもなく、女王可奈浦とその友人たちは至って普通に楽しんでいる。枝垂挫も彼女らと騒ぎを起こすことはなく、むしろ孤立しているように見えた。
最近の枝垂挫は、それなりに溶け込めてきたと思っていた。表面上での話などではなく、確かに可笑しくなった枝垂挫を受け入れてくれる存在が少なからずいた。でなければ、彼女の衣装はあそこまでスムーズに用意できなかったし、僕が準備期間を独りで平穏に過ごすこともなかったはずだ。
「ありがとうございましたーっ!」
いつもの明るさを最大限に発揮し、枝垂挫が客を見送っていた。客が去ると、枝垂挫はほっと肩の力を抜く。文化祭だというのに、どこか浮かない表情をする彼女が視線のさきにいた。
この時間帯、彼女は教室内でオーダーを取っているはずなのだけど……。
「お疲れ、枝垂挫」
「あっ、瑞枝くん! もう休憩?」
僕は肩をすくめた。
「列の整理役なんだよ」
そう言いつつ振り返る。
枝垂挫が視線を追い、「あー、」と納得の反応をする。どこか同情じみた声音だった。そういう枝垂挫の方こそ、クラスメイトから距離を置かれていることを、僕は知っていた。
誰に指示されたわけでもないが、教室内に戻っても空気を気まずくさせてしまうだろうと考え、枝垂挫のとなりに陣取る。こうしていれば、迂闊に話しかけてくる生徒はいない。怪訝な顔で首を傾げられたが、数秒して彼女は前に向き直った。
……無言の時間が流れた。
廊下に設けられた受付スペースのまえを、幾人も通り過ぎていく。入り口に掲げられた看板を横目に、次のクラスへと歩いて行く。客層は生徒が六割。残り四割は中学生や小学生と保護者らしき大人に別れていた。
時折足を止める人の対応をして、逆に退室してきた客の清算を受けもつ。
枝垂挫は沈黙を紛らわすように話しかける。
「お客さん、あんまりこないね!」
喫茶店を営むクラスメイトからすれば「大声でなんてことを」と思うような話題を、枝垂挫は躊躇なく振る。
けれど、ここにはクラスメイトもいない。僕は抑えた声で苦笑した。
「もう休憩所みたいな扱いになっているからね。お昼時にくる人は減って当然だよ」
「むむむ……なんでだろう。やっぱりパンケーキとコーヒーだけじゃ味気ないのかな?」
「まあ文化祭のクオリティだし仕方ないよ。まして、凝ったモノは出せないんだ。食品衛生上」
「しょくひんエセ……なんて?」
「食品衛生上。ザックリ説明すると素人が変な料理を出すなってこと」
「堅苦しいね! 何様ってカンジだね!」
「……あんまり大声で言うと、敵をつくるよ」
枝垂挫が「おっと」と口を塞ぐ。
ちょうど客がやってきて、僕が説明と案内をして、教室内に送り込む。
再び訪れたふたりの時間に、沈黙が戻った。
腕時計に目を落とすと、時刻はもうすぐ午後一時になるところだった。我がクラスのシフトが入れ替わるタイミングが近づいている。あともうすこしの辛抱だ、と息を吐き、何の気なしに隣に目を向けた。
横目で僕を見つめていた枝垂挫が、そくざに目をそらした。逃げるように顔を俯かせてしまう。さっきまでの無遠慮な振る舞いから一転して、しおらしい態度をとる。
何か言いたいことでもあるのか、と問いただすことはできた。だけどここで踏み込むのは悪手な気がして、なにも言わずに視界から彼女を外す。
……窓の外は、相も変わらず文化祭日和。天候に恵まれている。外に連ねている屋台通りから、賑やかな声が届いてくる。校内の喧噪と入り交じり、普段聞き慣れないイベントの騒がしさが満ちている。それだけに、僕と枝垂挫のいるこの場所だけがぽっかりと空いている気がした。
気を抜けば罪悪感が襲いかかる。冷静な自分が「身の程をわきまえろ」と囁いてくる。それは、ふと足元が暗いことに気づくように。
枝垂挫は今、何を考えて僕の顔色をうかがっていたのだろうか。先日の騒動で叫ばれた糾弾についてだろうか。それとも、今朝の屋上での一件についてだろうか。
どちらにせよ、彼女との間に生まれた溝は未だに尾を引いていた。
『三鏡高校文化祭にお越しの皆様、お楽しみいただけているでしょうか――』
いつかお世話になった放送委員の先輩が、いつも以上に整った声でアナウンスを入れる。
午後一時の報せだ。シフトは移り変わり、ここからは休憩となる。
代わりのふたりがやってきて、僕らは腰をあげた。
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