(5

 日々は過ぎていく。

 授業を重ねる毎日に愚痴をこぼしながらも向き合って、気づいた瞬間に日付を数える。ただイベントがあるだけなのに、文化祭をひとつのゴールとして設定してしまう自分がいる。こんなひねくれ者が「楽しみ」という感情を抱けている時点で、去年までとは明らかに異なる日常を過ごしているようだ。そんな日々の象徴として、枝垂挫と過ごす時間は良くも悪くもはやく感じた。

 文化祭の準備は佳境に入った。朝は欠伸を噛み殺して登校し、睡魔と闘いながら授業を乗り越え、そして放課後は生徒の時間。生徒玄関の掲示板に貼られたカウントダウンは『残り四日』となり、校内のテンションが高まっていく。夏休みに入る前とも、修学旅行に行く前とも異なる。必然、枝垂挫も空気にあてられて興味の赴くまま行動するだろう。

そう思っていた矢先のできごとだった。


――「枝垂挫が暴れている」という噂を聞きつけたのは。


 僕は司書の先生に図書委員としての仕事を頼まれ、クラスの準備を抜け出しているところだった。

 枝垂挫はいつものごとく別の仕事を割り振られ、他の女子数人に引きずられるように着付けに連れて行かれた。それが一時間くらいまえの出来事で、彼女と最後に言葉を交わした記憶だ。


「……、」


 ぱたぱたと、靴裏が鳴る。

 どこか荒々しさすら感じられるその足音は、自分が発しているものだった。急いで用事を済ませ、教室へ向かう。赤木によると、事件は僕のクラスで起こっているらしく、すでに騒ぎにもなっているようだ。

心中は焦りと緊張、困惑でいっぱいだった。

手汗をズボンで拭い、階段をおりる。踊り場から、生徒が横切り駆けていくのがみえた。彼ら彼女らはイベントに群がるように、友達数人を連れ添っていった。

 そこで、ぴたりと足をとめ、またすぐに動かす。

 教室に近づき、ここまで届いていなかった声が耳を突いた。


「――だ――うがっ!!」

「……――っ!!」


 人混みができている。ひしめき合う聴衆の背中ごしに、言い争う声が響く。

 僕は駆け寄り、人混みをかき分けた。

 枝垂挫の声が、荒々しい罵声が、教室のなかで飛び交っている。心なしかイスを蹴ったような音も聞こえた。ふたりの感情的な言葉の片方が枝垂挫であるということはもう疑いようがなく、だからこそ僕は心配した。先日の休みにふたりで出かけたときの光景が脳裏をよぎり、その枝垂挫がこんなにも怒る理由が思い至らなかった。

 だって、今の枝垂挫は可笑しくなっているから。

 あの女王可奈浦に面と向かって無礼を働いた枝垂挫だ。敵意を向けられ、嫌悪感を向けられ、遠回しに挑発を受けても枝垂挫は怒らず、壊れたモノサシで距離を誤るだけだった。

 僕のまえでだって、怒ったことはない。自分は『枝垂挫ゆい』を死に追い込んだ最初のひとりかもしれないというのに、これはどういうことなのだろうか。


「すみませ――」


 群れの先頭で眺めていた生徒を押しのけ、僕は人混みを抜けた。

 つんのめるようにして、ぽっかりと空いた爆心地に踏み込む。その先で、


「だから! 事実だって言ってんだろう、がっ!!」


 枝垂挫が机に突っ込んだ。

 背中から。教室の後方に下げられた机の山に、小柄な身体が体当たりするように音を立てる。木の角がぶつかり、乗っていたイスが転げ落ち、食いしばった口からかすかに苦悶の声が漏れた。

 ウェーブがかった髪を乱れさせた可奈浦が、息を荒げ睨んでいた。片頬は僅かに赤く腫れており、上気している。枝垂挫が手を出したのだと、僕は瞬時に悟った。

 対する枝垂挫は、転がってきたイスを邪魔そうに退けた。乱暴に突き飛ばして。静まりかえった教室にけたたましい音を立て、彼女は起き上がる。亜麻色の髪を俯かせて、目元は見えず。代わりに噛みしめた唇が鮮烈な印象を与える。けれどそれは一瞬で、すぐに鋭い眼差しを相手にさし向けた。

 固唾を呑んで成り行きをみつめる視線のさき。女王可奈浦と枝垂挫は、互いに睨み合っていた。


「――、」


 いったいどうして、僕はここにいるのだろう。焦燥感に狩られ駆けつけた自分は、どうしたいのだろう。

 足が床に張り付いて、僕は他人事のように、呆然とその光景を見つめることしかできない。

 目の前の事件が現実離れしている気がして、気が動転していた? あるいは、冷静に考え事をできるくらいに自分はイかれてしまったのだろうか。感覚がなくなっていく指先を握り込んで、情けない身体に逆らおうとする。

 枝垂挫、と呼んだ。

 だけど、絞りだした声は自分でも驚くほどにか細くて、それだけ僕は衝撃を受けていたのだと思う。呼びかけはいとも簡単にかき消されてしまう。


「前からウザいウザいと想ってたけど、ここ最近は逆にキショくなったよ。前の方がよっぽどマシなくらいね!」

「しってる。そんなことは」

「……っ、ふーん、あっそ。なら尚更、あんたに何を言われようと自由じゃない! 何様だよ。自分がそんなに素晴らしい人間だとか言うつもり? 善人ぶってんじゃねぇよ!」

「私が怒ってるのはそこじゃないっ!」

「はぁ? 意味不明なんだけど。それとも……なぁあんだ、そういうことぉ? オトモダチもいない可哀想な芋が、ちょっと優しくされただけで色気づいちゃったんだ! キモっ」

「だからッ……!」


 ギリ、という音が確かに聞こえた。

 枝垂挫が握り込んだ拳の音か、苛立ちに食いしばった音か、どちらなのかはわからない。どうしてこんな状況になったのかすら、僕には把握できていない。


「要はアレでしょ? 相手のこと馬鹿にされてるのが許せないンでしょ? でもそれってさぁ、この前あんたが私にやったことじゃん……!」

「っ、」


 可奈浦が、弄んでいた何かを床にたたき付けた。それが枝垂挫の制服リボンであることは疑いようがない。そして、赤のチェック柄が容赦なく踏まれる。


「どの口叩いてんだって話だろうがっ!!」


 びりびりと、教室に甲高く響いた凄みのある声。耳にキン、とくるくらいには大きく、僕は顔をしかめた。

 枝垂挫はすこしだけ目を見開いて、俯かせる。わなわなと肩を震わせる。


「あんたがあたしの恋路台無しにしたんだから、根暗なアイツを貶すくらい別にいいでしょッ!? 些細なもんじゃん!」

「――るさい」


 堪えていた何かを抑えるのは、もう限界だ。枝垂挫の短く吐いた吐息が、そう告げている気がした。


「あっ、どうせなら泣きついちゃえばぁ!? 『あの子にいじめられたの』とか言って! ちょっとイメチェンしただけで媚び売ってくる男なんでしょ、きっと優しくしてくれるって!」

「――、」

「結局あんたは自分がかわいいだけの女で、まんまと引っかかったアイツは単なる間抜けじゃん! どうせ下心ありきの関係性だってこと、考えてわからない!?」


 滑稽だ。憐れだ。そう笑う声が、責め立てる。もはやどこまで酷い揶揄があったのか思い出せないほどに多い罵倒。あの日の仕返しとばかりに生き生きとした表情を浮かべて、女王は毒を吐いている。普通ならばかばかしいと流す声を、しかし枝垂挫は無視できない。

 ……それらすべてを受け止めて、彼女は息を吸った。

 予感がありながら、何もできなかった。


 ――爆発の予兆。例えるならばそれは、地震の前触れだ。


 声には出さなくとも。彼女が確かに、どこかのだれかへ向けて言ったのを、聞いた気がした。

 ただ一言、「ごめんなさい」と。


「うるさい」

「あ?」

「うるさい……うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさぁぁぁぁぁああああああああああああああいッッ!!!!」



 びりびりと。

 一際大きい声が、教室――否、学校中に響き渡った。

 壁を貫通し、窓を通り抜け、床を滑りカーテンを揺らした。思わず耳を塞いで耐えたけれど、それでも長く深い叫びの爆心地には、残響が満ちていた。

 衝撃ともとれる数秒が、沈黙をもたらす。

 可奈浦を含め、その場に居合わせたすべての人が呆気にとられていた。言葉を失い、目を白黒させていた。かくいう僕でさえも、唖然としていた。

枝垂挫は肩を揺らして、もう一度息を吸い込んだ。


「お前たちはいつもそうだ! 平気で他人を傷つける言葉を口にして、何気なく発したソレがどこかの誰かを追い詰めていることを知らない! 知ろうともしないッ!」


 吐き捨てるように。


「ああそうだよ! 私だって傷つけた! この数日間、私は私が認識できていない誰かを傷つけた! 自分でもウンザリするくらいに距離感がわからなくて、でもついていこうと必死で! 周囲に会わせようとするそのたびに、無自覚に誰かを傷つけた! でもお前たちの方がよっぽど酷いじゃないかッ!!」


 落胆するように。


「お前たちが私をこうした! お前たちの行いが私を生み出した! お前たちが犠牲に選んだから、除け者として許容したから、不格好で滑稽で薄汚くて、世間知らずな化け物が今ここにいるんだ!!」


 そして――糾弾するように。


「何度だって言ってやる! お前らが私を殺した! 言葉と視線と空気で貶め、無残な結末に追いやった! 見たくないものには見て見ぬフリを装った! そうやってお前らは『枝垂挫ゆい』を殺したんだ! どうせならひとりひとりに包丁刺して自分も死にたいくらいだよッ!! ウザい? キショい? ――ハッ! 気色悪いのはお前らの性根の方だ! どいつもこいつも薄っぺらいんだよ! 機嫌取りだけして裏では陰口ばかりのおまえも! 誰彼かまわず他人を巻き込む陽気なおまえも! 私関係ないからみたいなすまし顔で、いざとなったら被害者ヅラするおまえも! ぜんぶぜんぶぜんぶ気持ち悪い! もうどうでもいいからっ、何から何までっ、消えちゃえぇぇえええええええええええええッッ!!」


 はぁ、はぁ――と、息切れの音が残る。

 枝垂挫は身体の奥に仕舞っていた感情を吐き出した。されど、この場にいる生徒のどれだけが『枝垂挫ゆいの死』を理解できるだろうか。きっと片手で数えられるくらいにしかいないだろう。否、もしかしたらひとりだけかも。

 そのひとりである僕は、心臓を締め付けられた気分だった。

 僕のことを糾弾しているのだと、そう思った。

 息苦しさを思い出し、呼吸を再開する。

 動悸はひどく、どくんと責め立てた。胸の奥にあるじんわりとした痛みは、紛れもなく自分に対する罪だった。


「……枝垂挫」


 先ほどはか細かった声が、今はとんでもなく鮮明に聞こえた。

 束の間の静寂の中、僕の呼んだ名前を遮るものはなく、枝垂挫がハッと振り向く。

 混乱、驚愕、焦り――感情の渦巻いた瞳が僕の視線とぶつかり、口のなかに苦みが生じる。ひとしきり暴れたあとの枝垂挫の顔から、一気に血の気が引いていく。

 こんなときに限って、得意な苦笑いさえも浮かべることができなかった。


「み、すえ……く……」


 ……忘れていた。いや、目をそらそうとしていた。

 枝垂挫の『私を殺した』という訴えは、たしかに僕らに向けられたものだろう。単に可奈浦たちだけが悪いわけではない。周囲の見て見ぬフリが、あの子を孤独に追いやり、透明な死を実現してしまった。

 けれどその罪は、本来僕にこそ相応しいものだ。

 最初のきっかけをつくってしまったのは、僕なのだから。歩み寄らなかったのは、僕なのだから。


「ちが……瑞枝くん、今のは、」

「違わないでしょ、そういう理由で私たちが悪いなら、そいつだって同罪なんじゃないの?」


 そうだ。可奈浦の言っていることは正しい。同罪だ。同罪どころか、もっと罪深い。

 何を浮かれていたのだろう。僕は枝垂挫の助けとなることを贖罪しょくざいとした。けれど、そんなもので罪は消えない。過去は清算されず、『枝垂挫ゆい』は戻らない。それどころか、目先の楽しいことばかりに眩んでいたなどと。そんなヤツが、どうして許されようか。

 そうだ――コレこそが本来あるべき、僕への罰なのだ。

 ぐらりと、視界が歪む。

 頭のなかを謝罪と自責の言葉でいっぱいになり、枝垂挫の目をみれなかった。


「……ごめん」


 それが精一杯の一言だった。


「瑞枝くん! 待って、」


 枝垂挫の声に、反射的に足が止まろうとする。しかし、どんな顔をすればいいのかも、何を話せばいいのかもわからなくて、ただ逃げるように教室から離れた。

 今日ほど、自分を殺したいと思った日はなかった。

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