(7

 来る日も来る日も、枝垂挫と話した。

 枝垂挫は目に映る光景ひとうひとつに目を輝かせた。純粋に興味をもち、そして感情を僕に伝えてくれた。ファミレスに寄ればドリンクを混ぜるし、デパートを巡れば奇抜な服を試着して、笑わせようとした。クレーンゲームは下手だしカラオケは萎縮いしゅくして声が震えていた。

 これまでの日々は、滞った雲の中のように感じていたけれど、彼女が連れ回すたびに風が吹いて、雨が降って、虹がかかる。騒がしさで視界がひらけた気分だった。

 だが、忘れてはならない。

 ……これは贖罪なんだ。誰にも知られず死んでしまった彼女に対する、僕の罪滅ぼしなんだ。そう言い聞かせていた心が僕を揺さぶった。引っ張られて、同じ時間を過ごして。灰色だった人生が、世界が、色づいていく感覚がして、同時に葛藤が生まれた。

 これがいけないことなのだと思い出すたびに、罪悪感に苛まれ、自分を戒める。

 気がつくと、枝垂挫が横にいる。宝石の瞳でこちらを見あげ、柔らかな音色を発する。忘れちゃいけない使命感を忘れかけてしまう。


 その繰り返しだった。


「枝垂挫」

「なあに?」


 流れる景色。

 いつかの喫茶店へ続く道。

 脇に並んだイチョウ並木が、黄色と茶色のコントラストを敷いている。アスファルトまで散乱したその上を、踏みしめた靴がしゃくしゃくと音を立てていた。


「これで、いいのかな」


 手をつかんで引っ張る彼女に尋ねる。

 いいや、本当はこんなこと訊きたかったわけではない。もっと複雑で、言葉にするには苦労する、面倒な内容だったはずだ。『僕はどうすればいい?』と。でもそんな問いを投げかけたところで答えが返ってこないのは目に見えている。だから、捻くれた訊き方をしてしまった。

 案の定、小柄な背中は僕を振り返り、怪訝な表情をする。しかし何かを見透かしたように、いつもの笑みを浮かべた。


「私は君がいてくれるだけでも嬉しいよ!」


 氷を溶かす一方で、飲み込まれそうな色彩あふれる眩しさ。

 安心する。安心していいのか。

 相反する感情に迷いながらも、愛想笑いで「ありがとう」と応えてしまう僕がいた。


「それにしても、今日も綺麗だね、イチョウの葉っぱ!」


 引っ張っていた手を離して、枝垂挫が駆ける。僕と白いスニーカーの距離がひらく。

 正直な気持ちを言えば――僕は、枝垂挫と過ごす時間に浸っていた。

 ずっとこんな日々が続いてほしい。彼女に振り回されて、日常に隠された情動を知りたい。今みたいにずっと眺めていたい。

 目を細め絵画に引き込まれる。

 視界の先でなびく甘栗色の髪。頭上を見あげれば、秋の鮮やかさ。声に反応すれば、両手をひろげ季節を受け止める彼女がいる。見とれるほどの数秒間。明るい輪郭が曖昧になる。

 身を任せてしまいたくなる欲に堪えながら、僕は追いかける一歩を踏み出した。


「瑞枝くん! 『私』が次にしたいことはね――」



◇◇◇



 ――「死にたい」


 窓ガラスを、激しい雨粒が叩きつける。

 吹き荒れる暴風の向こうで雷の音が轟く。

 自室は薄暗く、自分ひとりだけの部屋に他人の気配はない。無意識に、『枝垂挫ゆい』が断髪し、人生を終わらせた日と似た環境に身をおいていたようだ。

 デスクのスタンドライトの下、開いたノートの羅列の最後に、よれよれの文字で絶望の一言が記されている。ここ数日で引いてきた何本もの罫線。それは、あの子の『やりたかったけどできなかったこと』をこなして、私なりに弔おうとした成果だった。

 残された未練を辿ることで、あの子の『透明な死』に色をつけたかった。誰も気づいてくれないけれど、彼女は確かにここにいたのだと……そうやって、自分の記憶にカタチを残したかった。同時に――それこそが、目下追いかけることが可能な『わかりやすい目標』だった。

 だけど、途端に怖くなる。


「……死、にた、い?」


 震える声が文字を声に出す。脱力した指からペンが転がり落ちた。

 背筋に走った冷たい感触が恐ろしくて、イスを引く。机にひらかれたノートから距離を取ろうとする。

 ――なのに、それができない。


「っ!?」


 息が詰まる。

 かひゅ、とノドが狭まったような感覚に襲われ、声が発せられなくなった。

 目を見開いて、状況に戸惑った。

 例えるなら、カナシバリ。全身が吊ったとも言えるだろうか。自分の身体なのに自由が奪われ、上手く動かすことができない。脳から送信した命令を四肢が聞いてくれない。自分がジブンデナイ。

 デスク上の小さい鏡に映り込んだ目が恐怖に染まる。

 抗えない重力、意図で吊られた腕、鳥肌が気温の低下を錯覚させる。


「――、や、だっ」


 両腕が、ペン立てから手に取ったハサミを握り込んだ。

 そのまま、自らの首元にあてがう。

 喉奥から声を絞り出せば、今まで感じたこともなかった鈍い痛みが襲った。目頭が熱くなって、涙がこみあげた。重く固い腕を止めようと必死に力を加えて、ガチガチと緩んだ刃が鳴る。もしかしたら痙攣する歯の音だったかもしれない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――。


 ――『死にたい』


 辛うじて動かせる眼球が、白い背景に刻まれた願望を捉えてしまった。

 ただでさえ色の薄いあの子の部屋が、さらにくすんだ。暖色のライトは色素を抜かれ、茶色いデスクがねずみ色に風化した。


「っ、す、けて」


 どうして?

 誰に?


「……み、すえく」


 頭の片隅で問いかけるだれかを振り払い、彼を思い出した。

 最後のあがきのつもりで。伝わりもしない想いを伝えるつもりで。堪えるように閉じた目蓋の裏に、素っ気ない顔を思い浮かべる。

 ――すると。


「――かはっ……! はっ、はっ、はっ、ぁ!」


 全身にチカラがもどる。握られているハサミが恐ろしくて、ベッドに放り投げた。

 脱力感と疲労感で、イスから床に崩れる。冷や汗が止まらなくて、自分の身体を抱く。ノートを見ないようにして閉じると、安心感からか涙が止まらない。


「瑞枝、くん……!」


 薄暗い部屋に、名前が霧散する。

 通学カバンの紐をたぐり寄せて、がちゃがちゃと携帯を取り出して、震える指が文字を綴った。

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