(5
ぱたん、という音を立てて、文庫本がとじる。
本を脇に置くと、ベッドに倒れ込んだ。白い天井を眺め、ついさっきの奇行を思い返す。
「なにが言いたかったんだろうなー……」
照明に照らされて、袋が光を反射する。枝垂挫が別れ際に渡してきたソレは、市販の板チョコレートだった。それもミルクとビターの二種類。なんの企みがあって、これを買ったのか? 僕の好物ですなんて言った覚えはないし、誕生日でもない。時期との関係はないということだろうか? だとすれば隠語? 遠回しになにかを伝えようとしている? どれもこれもしっくりこない。メールで尋ねてみたけどはぐらかされてしまった。枝垂挫の複雑な思惑が気になって本にも集中できなかった。
目を閉じ、息を吸って、吐く。
もう板チョコに関してはお手上げだ。また機会のあるときに追求することにして、頭の片隅へ押しやった。
ベッドから起き上がり、何の気なしにクローゼットへ向かう。すこしだけ視点を変えてみたかった。
掠れた記憶を頼りに、埃の匂いがする奥の方へ腕を突っ込む。たしかここらへんに積んであったはず。
「あった」
引っ張り出した分厚いアルバム。表紙には中学校の名前と卒業年月日が記載されており、外側のフィルムは破れかけていた。
すでに再生され始めている苦い思い出に目を細め、ページをめくる。ぱりぱりと音を立て、並べられた写真が視界に飛び込んできた。目的の写真は集合写真のみだ。それ以外は関係ない。みる必要はない。そう言い聞かせ、僕は名簿とともに紹介されるクラス写真を眺めた。
目当ての名前を探し、指が埃っぽいフィルムをなぞる。『枝垂挫ゆい』という五文字。そこから上の方へ視線を移していけば――かつて生きていた、今は生きていない少女がそこにいた。
「……なあ、枝垂挫さん。僕のこと、どう思ってるんだ?」
答えてくれるわけもないのに、写真の中の面影へ問いかける。頼りない声は、部屋の空気に溶けて消えた。
でも、仕方ないじゃないか。僕の胸の奥にわだかまる疑問は、これに尽きるんだから。
相当気持ち悪い行動だと思う。けれど部屋でやることもないと、どうしたって頭に枝垂挫が浮かんでしまって、訊きたいことが溢れてくる。そんなに訊きたいなら面と向かって尋ねればいい――どこかの誰かはそう指摘するだろうが、人間はそう単純な思考をしていない。
授業で「はい! こういうとき、ミスエくんはどうすればよかったでしょうか?」なんて問題が出たとき、生徒は口々に「はっきりと訊けばよかった」だとか「手紙にすればよかった」だとか、綺麗事を並べ立てるだろう。たしかにそれは正しい。道徳の授業であれば先生はにっこりと笑ってハナマルをつけてくれる。
だけど、現実はそうじゃない。
とくに『瑞枝実』という人間は、他人に踏み込む言葉の重さを知ってしまっている。
後先考えずに心の奥底を覗こうとすれば、逆に相手に傷をつけてしまうことだってある。意を決して寄り添えば、巡り巡って追い込むことにもなりかねない。
「……っ」
在りし日の記憶が、耳奥に再生される。枝垂挫の悲鳴にも似た恐怖の一声が、僕を突き刺す。
耐えきれなくなって、アルバムを閉じた。またクローゼットの奥に押し込んで扉を閉めると、鈍い痛みを和らげようと試みる。
『枝垂挫ゆい』に宿るふたつの人格。そのうち、今まで生を謳歌してきた人格が消え去り、外の世界をほとんど知らないもうひとりだけが残った。人生の苦しみも喜びも、すべてを丸投げされた枝垂挫を、僕は助けると誓った。危険を省みず踏み込んだ、ということになるのだろう。
その決断をさせたのは、他でもない『取り残された枝垂挫』自身。かつての『枝垂挫ゆい』と近かった彼女のことだ。僕のしでかした過去についても把握している可能性は高い。
だとすればなおさら、わからない。
真摯な眼差しでみつめられる度に、僕は内心で問いかけていた。
枝垂挫が僕を選んだ理由を。
瑞枝実に秘密を明かし、快く受け入れた理由を。
別れ際の光景がよぎる。
なにかを言おうとして、結局告げられなかった言葉が気になる。いくら思考を巡らせても、答えは出てこない。出たとしても、空虚な妄想で中身がない。
どうしようもなく。僕は枝垂挫ゆいがわからなかった。
◇◇◇
――「気になるヒトにバレンタインのチョコを贈ってみたい」
ノートの一行をつかって記された願いに、私は線を引いた。
それから、ペン先をとん、とん、と叩いて数を数える。すでに線が引かれた項目を、ひとつずつ見返しながら。
――「嫌いなヒトにぎゃふんと言わせる」
――「同じ時間を共有できる友達がほしい」
――「喫茶店で楽しくお話してみたい」
――「だれかと映画館に行きたい」
『枝垂挫ゆい』という女の子は謙虚な性格をしていたのではないかと、最近になって思う。彼女の生前は詳しくないが、もっと欲望に忠実になっても良かったというのが、個人的な意見だ。もっとも、世界の見え方は人それぞれ。私とあの子ですら、物事の理解には差があった。きっとまだまだ私が知らないだけで、息を止めてしまう水中のような恐ろしさが世の中には満ちているのだと思う。そう考えると、仕方ないことなのかもしれない。
『やりたかったことリスト』――十数個の項目が並ぶページの最上位に目がとまった。
目を細め、一文を指でなぞる。
「……、」
かつての私は、『枝垂挫ゆい』の日常のうち、深夜の数分だけを与えられた存在だった。身体の主導権は基本的にあの子が握っていて、隙間のような短時間だけ目を覚ます。やることと言えば、部屋の本を読んだり、メッセージアプリであの子とやりとりするくらい。言うなればひとり交換ノートといったところか。その繰り返し。
だから、あの子についてはそんなに詳しいわけでもない。
ただ、文面でのやりとりを通して、『枝垂挫ゆい』という女の子が窮屈な生活を強いられていることは何となく気づいていた。人間関係は複雑で、どうしたって差異が生まれてしまうもの。読み込んだ本でも他人とのすれ違いを扱った内容は多く、そういった悩みは普遍的で人それぞれだ。何年も、何度もやりとりしていれば、文面から伝わる感情や苦悩を察することくらいはできるようになる。私の身体の主も例に漏れず、現実に追い詰められていた。
にもかかわらず。
『やりたかったことリスト』の一番最初に記された一文は、矛盾している。
……あの子と私はちがう。あの子は全てを教えてはくれなかった。でも、これだけは胸を張って言える。ワタシにとって彼は、紛れもなく特別だったのだと。
「よいしょっと!」
デスクの明かりを消し、イスから立ち上がる。良い感じに眠気がやってきたので、そろそろベッドに入ろうかと思った。
ふいに、傍らの姿見が視界にはいる。
そこに立っているのは、私であって私ではない。
身体の主であるあの子は全てを押しつけて、死んでしまった。だから、ここからの人生は私が引き継ぐ必要がある。
――なら、今の私は今の私なりに生きていいよね?
どうしたって彼女と同じ風に生きるのは難しい。真似をしようにも、私は文面で聞きかじった知識しか持ち合わせていない。『枝垂挫ゆい』の代わりに目覚めたときは途方に暮れたモノである。人生の進むべき方向も、歩き方すらもわからなかった。
私らしく、になってしまうけど。ここからは、自分の人生を歩んでもいいのだろうか。そんな疑問が胸中に渦巻く。つい口走ってしまいそうになって、でも飲み込んだ言葉を、いつか言うときが来るんだと予感した。
明日も学校へ行かなければ。
大丈夫。不安は全部、抑えつければ大丈夫。ひとまずは、『やりたかったことリスト』を道しるべに日々を過ごそう。
それに、学校には――瑞枝くんがいる。
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