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 ――秋の夜は、さらに肌触りを低くしていく。

 冬に近づくにつれ、夜は長く、静かになる。夏特有の虫の鳴き声はなくなり、かわりに落葉の擦る音が満たす。しかし、身を震わせるにはまだすこしはやい時期。

 「一番好きな季節は?」とありふれた質問をすれば、多くの人は花粉症の心配も少ない秋だと言う。他でもない僕も同類である。

 食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋……人々はこの季節特有の過ごしやすさにかこつけて、偉そうに決めつける。あながち間違いでないところがまたタチが悪い。こうして真っ暗な歩道を歩く僕もまた、そうやって「外出するなら秋だな」なんて考えてしまっているひとりだった。


 最近ようやく電車の乗り方を覚えたであろう彼女に、夜道を単独で歩かせるほど僕は薄情じゃない。それくらいの配慮はできる。

 の落ちた時間帯にひとりで帰すのはさすがに危険だということで、僕は枝垂挫を家まで送ることにした。わざわざ枝垂挫の降車駅――雨飾で一緒に降り、今は枝垂挫宅へ向かっている。

 土曜日に枝垂挫と話し合った喫茶店も、駅裏のイチョウ並木も。まるで都市部から田舎への玄関のように思えた。見覚えのある道を抜ければ、今度は駅周辺とは異なり、物静かな住宅街に突入する。真っ黒なアスファルト脇、歩道の傍を水路が流れる。畑を通り過ぎ、ところどころに佇む木々の下をくぐる。周囲の家々には生活の明かりが灯り、夕飯どきの匂いが漂ってくる。


「親、心配してない? 君をこんな時間まで連れ回しておいて、怒られたりしないかな」

「大丈夫、君のことはお母さんも知ってる。それに連れ回したのは私だしっ!」


 枝垂挫の家まで送り届けるだけ。そう、それだけだ。何も問題はない。どうしても緊張してしまう自分がいて、そいつを強引に振り払う。悪い想像はやめて、今日一日の振り返りに思考をシフトした。

 今日一日、か。

 自然、明るい色の髪に目がとまる。

 女の子らしい軽い足音が、僕のすこし前方を行く。小柄な背中には学生カバンが背負われていて、女生徒は何かしらキーホルダーを付けているのに、彼女のソレには皆無だった。

 枝垂挫の存在が、どこか軽くて、透けていて、淡い色で――薄弱な印象を与える。

 きっと、秘密を知ってしまった僕だけの所感だろう。目にしたものに一喜一憂する姿をみて、ほんのときおり、寂しさを覚えてしまう。

 彼女の『死』が思い起こされて、今こうして吹き付ける冷たい風が、心の中にまで届く。


「枝垂挫、今日の学校、どうだった?」


 無意識に、そんなことを訊いていた。


「もちろん楽しかった! 君のおかげ!」


 と、枝垂挫は言った。

 振り向いた口元には、いつもの笑みを浮かべている。後ろ歩きで向き合う彼女と僕の距離感は、一定を保たれていた。


「なにか、辛かったこととかない?」

「んー、今のところはないかなあ」

「不安なこととか」

「瑞枝くんがいるから大丈夫!」

「僕の知らないところで、嫌がらせとかされてない?」

「心配性だねえ! 大丈夫だよ、本当の本当!」

「……そっか」


 問答をして、ふいに途切れる。

 ちょうど枝垂挫が立ち止まったので、僕も立ち止まった。薄暗い夜道、電柱の明かりの下で、視線が交わった。

 澄んだ瞳で真っ直ぐ見あげる枝垂挫。

 見つめ返す自分。

 僕の目は、どうなっているだろうか。自分の表情は、どうなっているだろうか。不安の色で一杯だろうか。なにかを恐れているような、弱々しい顔色だろうか。鏡がないからわからない。

 何を言っても同じ表情で、些細な朗らかさを覗かせるであろう微笑み。目に移る誰かを捉える、曇りのない宝石。あどけなささえ感じさせる顔つきを、さらりと前髪が流れる。


「瑞枝くん」


 名前を呼ばれる。


「私の家、この先だから。ここまででいいよ」

「えっ、あ、ああ……そっか。じゃあ、今日はお疲れ」

「うんっ」

「……」

「……」


 しばらく無言になってしまう。

 別れの挨拶を切り出すタイミングを見失い、頭をかく。


「えっと。また明日な、枝垂挫」


 ぎこちない態度になってしまっただろうか。

 あとで反省会しよう。なんて考えながら、僕は踵を返した。

 街灯のつくる円から外れ、道を引き返していく。まだ枝垂挫と接することが慣れない。かつての『枝垂挫ゆい』が尾を引いて、どうしても余計なことを考えてしまう。

 知らず知らずのうちに溜まっていた緊張の空気を、肺から吐き出す。

 頭上の夜空を見あげた。


「あ、ここからは星がよく見える――うぉわっ!?」


 突然、背後からカバンがぐいっと引っ張られる。

 夜道、そのうえ初めて訪れた地域ということもあり、変な声をあげてしまう。驚きつつ背後を振り返る。

 ――と、そこには真っ暗な夜闇に紛れる人影が佇んでいた。息を呑んだところで、聞き覚えのある声が響く。


「ま、待って!」

「焦ったぁ……驚かせないでくれよ……」

「ごごごめんっ!」

「まあ別にいいけども。それで?」


 何かまだ用事が? という意味合いを込めて言葉を待つ。しかし、枝垂挫は辛うじてみえるであろう僕の顔をみつめ、硬直してしまった。こっちからもはっきりとは確認できなかったが、用意していた大事なことが抜け落ちてしまったような、そんな表情を浮かべている気がした。

 近所の家の光を頼りに、目を凝らして枝垂挫を覗きこむ。目の前で手をひらひらと振ってみたりする。すると、ようやく我に返った様子でびくりと動き出した。今気づいたかのようにぱちくりと僕の顔を観察する。

 「また何か突拍子もないことを考えていたんだろうな」などと勝手な想像を働かせるが、枝垂挫が見るからに動揺して首元をさするものだから、いよいよ何かあったのかと不安感が募った。


「ほんと、どうしたんだよ枝垂挫」


 どう声をかければいいのだろう。こんな葛藤すらもしている暇はないだろうに。自分の対人スキルのとぼしさが今は恨めしい。

 互いに言葉は詰まり、どちらも何も言わない時間が過ぎた。

 数十秒? 数分? 実際はとても短い時間も、向き合っているこのときだけは長く感じた。暗がりでどうせ分かりっこないのに、枝垂挫の顔色をうかがってしまう。

 今の枝垂挫の意図はどうしたって読み取りにくい。ここ数日の付き合いで身に染みたことである。出ない言葉を埋めるヒントもなければ、思い当たる節もない。僕はその場で呆然と彼女をみつめていた。無言の時間はしばらく続いた。この状況で取るべき行動を模索していたけれど、それらしい対応はついぞみつからなかった。


「あー、えっと。やっぱり楽しくなかった? 今日……」


 何かを言わなければ。そんな焦りが先行して、なんとか絞りだした言葉だった。口にしておいて、こんな言葉は枝垂挫を困らせるだけだと気づく。またひとつの罪悪感が僕を襲った。

 しかし、枝垂挫はすかさず否定した。


「ちがう! ええっと、その、」


 首を振って、口ごもる。両手で手慰みをする行為は、彼女が言葉をさがしている合図なのだとわかった。


「あ、ああ明日! 瑞枝くん、明日の予定あるっ?」

「明日? 学校があるけど」

「そうじゃなくてっ。放課後……の話」

「放課後は、まあ」


 火曜日は図書委員のしごとも休みだ。放課後に拘束される予定はない。

 僕はすこし考えて、彼女の意図を考察し、汲み取ろうとした。


「また、どこか行く?」


 しかし、その配慮はすこしばかり見当違いだったようだ。小柄なシルエットは首を振った。

 意を決した枝垂挫の上目づかいを、闇に慣れてきた目が捉える。おそらく向こうも、僕の怪訝な表情がみえている。丸い目を見開いて、今更みえることに気づいたらしい。どうしてか途端に気恥ずかしくなって、すこしだけ視線をズラしてしまった。


「ええと、ええと、行きたいところがあるのは確かにそう――なんだけど、言いたいのはそういうことじゃなくて!」

「あー……、うん?」

「ああああああ、えっと、瑞枝くんは、さ」


 改まって、耳を澄ませる。

 周囲は静かで、車の通りも今はない。聞き取るには十分な条件だ。


「す――、っ……いや、こいび――……んーっ!」

「?」


 なにやら頭をかかえて悶えている。というより、苦しんでいるに近い反応だろうか。ちょっと怖い。待て、怖いのは先週から当たり前だった。

 首を捻る僕に対し、枝垂挫は我慢の限界がきたようだ。乱暴にカバンから何かを取り出すと、僕に押しつけ背を向けた。


「はっ? 何これ、あちょっと!」

「また明日!」


 引き留める隙もなく、枝垂挫の背中は消えた。

 手元に残された袋に目を凝らすが、よくみえない。家に帰ってから確認すればいいか、と大切にしまう。

 最後にみせた彼女の反応は、やっぱり終始理解できなかった。

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