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放課後の図書室が閉館時間になり、委員としての仕事を終えたことで、ようやく一日の義務から解放される。片付けを行い、戸締まりを確認し、最後に出入り口の鍵を閉めて下校となる。
いつもなら教室に戻って帰り支度をする流れだ。急げば、部活動に所属する生徒より一本はやい電車に乗ることだってできる。窓の向こうはまだ夕暮れまえの明るさで、いつものように本屋にでも立ち寄ろうか、などと考えを巡らせてしまう。まだ月曜日である、という気分の落ち込み具合を誤魔化すには、やはり趣味にかぎる。
しかし、僕の選んだ現実はそう優しくないのだと、すぐに思い知らされた。
「はいっ! 瑞枝くんのカバン!」
よく通る声は、放課後の廊下に響き渡った。
図書室の扉のまえで、揃って口をあける僕と赤木。
その元凶は、僕の持ち物を抱えて待っていた。紺色の上着に、グレーと黒のマフラー。巻き込んだベージュの髪がすこしだけ乱れているあたり、走って教室に戻ったようである。普段と同じ行動が許されないのだと、僕はこの瞬間になってはじめて痛感した。
「じゃ、じゃあ俺は鍵返してくるわ。またな瑞枝!」
そう言い残し、颯爽と去って行く赤木。触らぬ神になんとやら、事件やイベントには目がないくせに、面倒ごとからはすぐに逃げる。まあ、ある意味で有名人な枝垂挫が相手では、仕方ないことだけど。
結局、僕は枝垂挫の眼前に取り残された。
「ごめん。待たせちゃって。カバン、ありがとう」
感謝を告げて、持ち物を受け取る。枝垂挫は「大丈夫」と首を振ると、さっそく僕の袖を掴んで歩き出した。
「ちょっ」
「私、瑞枝くんと行きたいところがあるの!」
「行きたいところって、どこに?」
今日一番の軽快な足取りに問いかける。
枝垂挫は流し目で僕を見て、指を口元にあてて嬉しそうにはにかむ。
「楽しそうなところっ!」
されるがまま連れてこられ、到着したのは帰路からすこし外れたところにある映画館だった。三鏡の生徒にとっては馴染み深いモール……その三階に位置しているそこは、しかしほとんど訪れたことのない場所だ。やさしめの照明が緊迫感と高揚感を演出し、チケットを買うだけでも独特な気分になる。
枝垂挫が選んだ映画――すこしまえに公開されたラブストーリー――の上映時間まで、いくらかの猶予があった。というわけでさらに連れ回されること数分。次に訪れたのは、全国に展開している有名なコーヒーショップ。
緑色を貴重とした看板、大きいガラス張りの店構え。お洒落な店内では、様々な客がテーブル席で各々の時間を過ごしている。大人の女性はカップを片手に世間話を繰り広げ、学生と思しき客はノートを広げペンを走らせる。おじさんは足を組んでいるし、店員はカウンターの向こうでお手本と呼ぶべき対応をしている。
普段から盛況している店だが、僕と枝垂挫が来店したのは混み合うすこしまえらしく、待ち時間はない。床の案内表示に従って注文カウンターへとやってくる。
「ほわぁ……美味しそう……!」
なのだが、案の定、枝垂挫のせいで時間が取られる。
メニュー表から飲み物を選び終えた僕は、隣接するガラスに張り付く彼女を呼んだ。
「枝垂挫ー、はやくしないと次の客来るぞー」
「ちょっと待って! 今悩んでるっ!」
呆れながらため息をつく。店員さんも苦笑いを浮かべていて、申し訳なく感じてしまう。
枝垂挫は
「決めましたっ!」
枝垂挫は夕飯まで注文しそうな勢いで店員に告げた。ベーコンと野菜のキッシュに紅芋タルト、スイートポテトが追加された。もちろん僕と同様、フラペチーノも付けて。夕飯まえにいいのか、と疑問に思ったが、怒られるのは彼女自身なので指摘はしなかった。
トレイに受け取り、隅っこのカウンター席に並んで腰掛ける。
しかし、いざ食べようという体制になったにもかかわらず、枝垂挫はキョロキョロと
こんなところを見られたらますますクラスでの肩身が狭くなるな、と僕は思った。ただでさえ今日は悪目立ちしてしまったというのに。
「私、ここにいていいのかなあ」
ぼそりと、枝垂挫がそんなことをつぶやく。
フラペチーノの甘さを堪能して、僕は訊き返した。
「なにか忘れ物?」
「ううん。ただ、自分が場違いな感じがして、なんだか落ち着かないだけっ」
「でも、ここに連れてきたってことは、そういうことなんだろう?」
「そ、それは……」
僅かに視線を泳がせる様子は、肯定と同じ意味に違いない。
僕は枝垂挫に協力することになっている。その内容はというと、生前の『枝垂挫ゆい』が残した、『やりたかったことリスト』を辿ることだ。休日に交わした約束が本当なのだとしたら、きっと今この瞬間も、枝垂挫は亡くなったもうひとりのために動いているに違いない。
そんな考えを、正解だよ、とでも言うように、声が答えてくれる。
「そうだよ。他でもない『私』が来たがってた。だから、いずれにせよここへは来てたかなあ。実を言うと、最初に『やりたかったことリスト』を読んだときは乗り気じゃなかったんだけどね」
「それは、どうして?」
「だって、ただ『映画館へ行きたい』って願いじゃなかったんだよ!? ひとりじゃなくて、友達とか恋人とか、仲の良いだれかと一緒に行きたいって願いだったんだよ!? 私、絶望的じゃあん……!」
枝垂挫は頭を抱えて俯く。その反応に思わず苦笑してしまう。
しかしそんな僕の反応に、今度は不満げな目で見返してくる。視線がぶつかると、彼女はあからさまに顔を背けた。
「で、でもその……最近、ひとりだけ仲の良い相手ができたので。だからこうして来たわけでっ!」
「お、おおう、別に咎めてるわけじゃないから安心して」
僕が宥めると、枝垂挫は毒気を抜かれたような表情をみせたあと、銀色のフォークを手に取り、もくもくと食べ始めた。耳を赤くしているあたり、恥ずかしさを味覚で誤魔化してる風だった。
まったく。いったい誰に、何に弁明しているのだろうか。なんにせよ、『枝垂挫ゆい』だけでなく、今を生きる枝垂挫も「行ってみたい」と思えたのなら、それは友達冥利に尽きるというもの。なんだか微笑ましくて、口の端が緩んでしまいそうだ。
初めて訪れた空間ゆえか、まだ緊張が残っていたらしい。ストローが音を立てただけで、小柄な肩はビクリと跳ねていた。
映画の時間になり、枝垂挫を連れ添って入場した。
チケットを見せて踏み入れた先は、一段と期待感が高まる世界だ。カーペットの上を進めば、通り過ぎた扉から重低音が聴こえてくる。黒色の壁を流し見れば、興味を引くポスターが並んでいる。人気が減った道を歩きつつ背後を気にすると、しきりに見回す連れが一匹。さながら、研究施設に迷い込んだ小動物といったところだろうか。
上映されるスクリーンのまえで立ち止まると、背中に亜麻色の頭がぶつかる。
「わぷっ……ここ?」
「うん。ここだ」
本日のジャンルは感動ラブストーリー。パンフレットのイメージカラーはピンク。シリアスな雰囲気で向き合う俳優と女優の名前はよく思い出せなかった。
開け放たれた扉を潜り、一層薄暗い奥へ足を踏み入れる。鑑賞席を見渡し、ふたりで指定された番号に向かう。映画が公開されたのはもう一ヶ月以上まえということもあり、それなりに時間が経った今は客の入りもまばらだった。
席に腰を落ち着けると、となりで枝垂挫がウキウキといった様子で室内を観察していた。待ち時間を使って「なんでこの映画?」と訊いたところ、枝垂挫は「んー」と考え込んでから答える。
「ホラー映画は怖くて帰り道で動けなくなっちゃうでしょ。時代モノは私の知識が追いつかないでしょ。海外の闘うヤツは全部続編のストーリーっぽいでしょ。あと子ども向けのはあまり……」
シートの膝の上。薄暗い照明のもと、枝垂挫の華奢な指がひとつずつ折られていく。
「やっぱり恋愛がテーマの方が分かりやすいかなって思った!」
「……そっか。ときに枝垂挫さん。ここでは声、抑えてね。映画が始まったら話さないこと」
「(あっと……わかった!)」
まさか図書館での仕草を再び目にすることがあろうとは。
僕はいざとなったら口を塞げるよう心の準備をして、鑑賞に望もうと心に決めた。ミス・シダレザのことだ、感極まって大きな声を出したら居たたまれない。悲鳴を上げるほどのことはないと信じたいが、念のためだ。
――しかし、それは杞憂だった。
「ずび……ぐすっ」
「!?」
上映が開始されてから約四十分。
ふととなりの様子をうかがうと、涙目で鼻水をすする枝垂挫がいた。驚いてスクリーンに目を移すと、とくにそういったシーンではない。恋人と喧嘩した女の人が、海沿いで黄昏れているだけである。そこまで号泣する要素はない。
視線を戻す。
「んぐ、もぐっ……」
「!?」
枝垂挫が手元のポップコーンを口に詰め込んでいた。しかも泣きながら。
どういう感情なんだろう。想像力に豊んでいるなのか? それとも、単に僕が重要なポイントを見落としてついて行けてないだけなのか?
浸っている横顔にはとても「なんで泣いてるの」とは訊けず、上映中は悶々とした時間を過ごすことになった。最後の感動シーンも枝垂挫はボロ泣きだったけれど、いざ上映が終了すると、彼女は伸びをしてから、けろりと泣き顔がウソのように感想を口にする。
「すごかった! すごかったね瑞枝くん!」
「感受性豊かだな、枝垂挫は」
「カンジュセイ? 果実のアレ?」
それは完熟だと思います。
僕は首をかしげる枝垂挫に、笑みを向けた。
「視たものを純粋に楽しめる、ってことだよ」
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