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 ――とはいったものの、そこにはやはり限度というものがあって。何が言いたいかというと、僕は枝垂挫の積極性を甘く見ていたのだった。



「瑞枝くん! これどういう意味っ?」


 授業がひとつ終わるごとに、教科書とノートを持って机に押しかける。

 そのたびに僕は懇切丁寧に教えてやる。けれど結局、枝垂挫は授業で怒られる。例えば英語の授業で指名されれば、英文を読み上げるところまではできても、日本語訳を付け加えるという常識を知らない。教師と枝垂挫が互いに首をかしげるという奇妙な光景が、何度か繰り広げられた。


「瑞枝くん! 着替えたら待ってて!」


 体育の授業まえには大きな声でそんなことを頼まれ、断る隙も与えず彼女は颯爽と女子更衣室へと走って行ってしまった。僕は仕方なく更衣室からすこし離れた廊下で待った。授業開始まであと数分というところでようやく枝垂挫と合流し、揃って遅刻した。


「瑞枝くん! よかったら一緒にお昼たべないっ?」


 昼休憩に入れば案の定机までやってくる。事前に買っておいたであろうコンビニの袋を抱え、混じりけのない純粋な目で懇願されては断れない。気まずい教室の中、絶えず話しながら惣菜パンを食べる枝垂挫に対し、僕は相づちを打つ。気の休まらない時間を過ごす羽目になった。


 そして放課後には図書委員としての仕事が待っている。僕が必要なものを持って廊下に出れば、


「瑞枝くーんっ!」

「はぁ……」


 今日何度目かのため息が、口をついて出てしまった。






 図書室はいつもの静けさが維持されていた。

 放課後の図書室には、予定のない生徒が出入りしている。主に週数回の頻度で済む部活動に所属している者だ。そういった中の一部が、ここで自習や読書に勤しんでいる。

 クリーム色のカーテンで飾られた窓からは、放課後の日差しが差し込む。光を反射する埃を見るたびに、本の匂いを意識する。そんな、ありふれた図書室の一日がここにある。図書委員にとっては見慣れた光景。今までと遜色ない時間である。

 ……はずなのだが、今日は一回りも二回りも異なっていた。

 棚の隙間から自習席を窺えば、熱心に本と睨めっこする小柄な背中が見えた。


「お疲れだな」


 返却された本を棚に戻し、カウンターへ戻った僕へ、労いの言葉がかけられた。


「赤木に言われると変な感じだよ」


 焦げ茶色の髪をした図書委員、赤木。彼はとなりのクラスの男子で、こうしてよく同じ日の当番になる。そのため、よく顔を合わせるうちに、委員の仕事の合間に言葉を交わすようになった。学校では唯一波長の合う相手だ。

 赤木は備え付けのパソコン画面を見ながらマウスを動かし、僕を一瞥する。


「聞いたぜ。今日一日、ずいぶんと慕われてたみたいだな」

「ああ……当然知ってるよなぁ、となりのクラスだもんなあ」


 僕がうな垂れると、赤木は面白がるように笑いをこぼした。


「そこそこ話題になってるよ。『可笑しくなった枝垂挫ゆい』と、『付きまとわれる瑞枝クン』。お前もアッチも、他人との接触は極力避ける性質たちだろうに、どういう風の吹き回し?」

「まあ色々あって――」


 カウンターに客が来ないことをいいことに、僕と赤木は時間つぶしの会話を波及させていく。もちろん枝垂挫が明かした『死』については伏せるつもりで。

 しかし、言葉が続くことはなかった。

 来客の気配がして、注意をそちらに移したからだ。


「これ、貸してくださいっ!」

「二週間になります」


 やけに通る、それで聞き慣れた声を耳にしながら、自動的に腕が動く。気分はさながら作業用ロボット。差し出された本を裏表紙にして、バーコードを読み取っ――


「っ!?」


 バッと、顔をあげた。


「どうかしたっ?」


 怪訝な顔をする枝垂挫が目の前にいた。さっきまで自習席で本と向き合っていたくだんの彼女が、にこにこと笑みを浮かべている。

 曇りのない瞳と視線がぶつかった。


「変なことはするなと言ったはずなんですが?」

「変なことじゃないよっ。本を借りるだけ! それより瑞枝くん、こういうお仕事してたんだ!」

「ちょっ、声大きい……!」

「ここでは大きい声で話しちゃいけないのっ?」


 そう返され、僕は頭を抱えた。


「そうだった、最初に言っておくべきだった……いい? 枝垂挫、ここでは周りに合わせて静かに――」

「わあ、学校でパソコン使ってる! 貴方はだあれ? 瑞枝くんのお友達? マウスでなにしてるの?」

「はは……ええっと、こんにちは?」


 言った傍から、枝垂挫はカウンターに身を乗り出し、赤木の操作するディスプレイを覗き込んでいた。こっちの話も聞いていない。調子が崩される。僕は困惑顔で冷や汗を浮かべる赤木から枝垂挫を引き剥がした。

 そして両肩をつかみ、顔を引きらせながら笑う。


「ねえ枝垂挫さん。聞いて? お願いだから。ここではマナーを守って。とにかく声は抑えること、カウンターに乗り出さない、気になることは全部あとで教えてあげるから、後生だから」

「わ、わかったっ。わかったよ……何か顔こわいよ? あと『さん』付けで呼ぶのもやめてください。ちゃんと声抑えるから」


 大げさに手で口を覆う枝垂挫。

 その仕草にため息を吐くと、僕はバーコード読み取り機を片手に、左手を差し出した。さっさと貸し出しの作業を終えて平穏を取り戻したかった。いつ司書の先生が顔を出して怒られるか気が気でない。


「……?」


 しかし彼女はこっちの気も知らず、頭上にハテナを浮かべる。差し出された僕の手をまじまじ見つめてから、再び僕の顔を見た。もう一度僕の左手を見下ろし、何度か視線が言ったり来たりする。

 うん、なにも分かってなさそう。


「学生証」

「ああ、ガクセイショウか! 学生証が必要なんだねっ!」

「枝垂挫さん、声」

「ハイ、すみません……気をつけるから……」


 ごそごそと取り出した学生証を記録し、本のバーコードを読み取る。ピッという音が鳴り、手続きが完了した。

 辿々しい手つきで、枝垂挫が本を受け取る。


「(終わるまで待ってるから!)」


 まったく反省してなさそうなテンションでそう残し、自習席に戻っていく。その背中に「ご利用ありがとうございましたー」とコンビニ店員風の笑顔を向けたが、内心では息切れしていた。

 突如襲った枝垂挫インパクトを乗り越え、どかりと背もたれに体重を預ける。肺の空気を吐き出すと、どっと疲れが押し寄せてきた。


「ええと、アレが例の?」


 赤木が興味深そうな声音で尋ねたので、頷きを返す。


「な、なんていうか、明るい子……だな?」

「オブラートに包めばね。先週までは、そんなことなかったんだけどなぁ……」

「へえ、そうなのか」


 そうか、赤木はとなりのクラスだから、以前の枝垂挫を知らないのか。つい最近まで誰とも喋れないような人だった、なんて言ったら、驚愕しそうだ。


「あの子、今も遠くからおまえのこと見てるぞ」


 自習席の方へ目をやると、枝垂挫と思しき栗色の頭が、開いた本の影からこちらを窺っていた。


「……」

「……」

「おまえ、慕われてるな」


 休まらない気を静めるように、僕は再びため息をこぼした。

 着実に、僕のオアシスが奪われていく。

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