Changing priority.
(1
靴を履き替えた僕は、空気の違いを意識した。
下駄箱の棚を抜け、真っ先に目に入る掲示板。深緑の板が張り紙で埋め尽くされている。我先にとひしめき合うチラシどもの頂点に立つのは、目を引くカウントダウンの数字。
残り十日。それが我が三鏡高校文化祭までの残り日数だった。迫る大イベントに比例してか、教室へ向かう道中の張り紙も日に日に増えている気がする。さらに今週の木曜日から短縮授業となるため、全校生徒の胸中は青春の色彩を増す一方である。はやくもその熱量に胸焼けしそうだ。
ため息をこぼしつつ引き戸を開ければ、口々に飛び交うクラスメイトの会話。だれからも一週間に対する憂鬱が感じられない。
教室うしろの入り口付近で、あるいは各々の机に集って、談笑する彼ら彼女ら。僕はその合間を縫うように足を踏み入れ、教室内にぽっかり空いた自分の席につく。
週の始まりという表現が似合わない月曜日だった。
「おはよう! 瑞枝くんっ!」
活発。自由奔放。型破り。好奇心旺盛。今の彼女を一言で表わそうとすると、そういった言葉で埋め尽くされる。
徐々に高まっている生徒の気分とは関係なく、枝垂挫は枝垂挫の騒々しさで僕に襲いかかる。カバンから視線をあげると、机に両手を置いて僕を見下ろす彼女がいた。前髪に淡い桃色の髪留めをしているのが目についた。
「おはよう、枝垂挫……」
「どうしたの、なにか気分を台無しにすることでもあった?」
枝垂挫は「んー」と口元を手を当てて考え込み、そしてぽん、と手を叩く。
「星座占い、十二位だった?」
「ちがう、六位だ。ラッキーアイテムは金魚モチーフの小物、『他人に振り回される一日になります』だってよ」
「じゃあ朝ご飯がパンで気分サイアクとか!」
「残念だけど朝はパン派だよ。今朝も食パンとポタージュだったし、それに白米だろうと麺類だろうとそこまで気にしない」
「なら、片想いの相手に告白して見事玉砕っ! どう!?」
「なぜそうなる。告白するなら放課後だし片想いの相手はいないよ。あと、どうして『見事』なの」
「ええーっ、じゃあ何が原因なんだろ……」
首を捻る枝垂挫に対し、僕は深くため息をつく。
原因なら思い当たるはずだよ。自分の胸に手を当ててごらん? などと返す元気もなくなった。一週間で最も嫌いな時間――月曜日の早朝に、このテンションの高さに出くわしたら誰だってこうなる。テンポの良い会話と眩しい笑顔に気力を吸われた僕は、話題を逸らすだけで限界だった。
「それより、いいの?」
「? なにが?」
僕の問いの意図が、彼女は理解できないようだった。
なので、声をひそめて周囲に指を向ける。
「僕と話していていいのか、ってこと」
ぱちくりと瞬きしてから、枝垂挫はきょろきょろと見渡した。教室の空気は先週と比べ幾らか異なっている。しかしながら、本質は変わらない。
可笑しくなった枝垂挫に対する不信感は依然として残り、生徒の心境をかき乱している現状がある。こと可奈浦――まだ登校してきていない――に関しては、しばらく忘れることはできないだろう。もしかしたら卒業まで忘れられない出来事かもしれない。それだけに、女王と付き合いの深かった生徒は訝しげな視線を向けてきていた。先週より注目の目は減ったとはいえ、枝垂挫ゆいが可笑しくなったことは、皆意識しているようである。
正直なことを言うと、僕はすこしだけ居心地の悪さを覚えていた。かつての枝垂挫ほどではないとはいえ、自分は彼女と同類だったのである。視線に晒される、つまり注目の的になることは不慣れだ。こうして何の問題もないように話せているのは、単なるやせ我慢と、取るに足らない些細な覚悟のお陰だ。土曜日に枝垂挫の事情を聞いていなければ、今ごろトイレに駆け込んでいたことだろう。実際、口にはしないが胃が痛い。
しかしそんな僕とは異なり、枝垂挫はあっさりと言いのける。
「別にいいよ? 私、瑞枝くんと話したいし!」
「――、」
唖然とした。
ここまではっきりと、しかも通りの良い声で宣言されるとは思ってもみなかった。僕は目を見張り、枝垂挫はいつものように口元に笑みを浮かべ、注目の視線はいくらか紛れた気がする。
……漠然とだが。自分が、枝垂挫の居る『境界の向こう側』へと移された気配を感じ取った。
枝垂挫ゆいという生徒が隔離された、目に見えない壁のようなもの。ガラスほど硬くはなく、それでいて空気よりも目に見えない。僕だけが認識している可能性は否めない。でも、確かに彼女は一歩外れた場所に住んでいた。今も、昔も。理由は違えど、集団の外側にいるという点では変わらない。
そこへ、僕も足を踏み込んだのだ。今この瞬間、瑞枝実という存在が枝垂挫ゆいと同じ括りに入れられたことを悟った。
「? どうしたの?」
「えっ、ああいや。その、」
視線を外し、僅かに俯く。
言うなれば、僕は周囲から可笑しいヤツ判定をされたというのに。そこに思っていたほどの緊張感はない。昨夜まではこの状況を恐れて身構えていたけれど、拍子抜けも甚だしい。同調を繰り返し、ほどよく息を殺して生活してきた自分が馬鹿らしく思えるくらいには何ともない。
得も言われぬ不思議な感覚に、僕は困惑した。
「……なんでも、ないよ」
違和感を覚えておきながらも、口は返答をはぐらかす。
枝垂挫が「へんなの」と呟いたところで、チャイムが鳴った。
ホームルームの合図だ。じきに担任がやってくる。教室に集っていた生徒たちは散り散りになり、馴染んだ席へ向かう。枝垂挫も手を振って踵を返した。
と、そのとき。
教室前方の出入り口から、可奈浦あやかが入ってきたのに気づいた。途端、明らかに教室の空気がひりつく。静電気が走ったかのような、けれど瞬時に霧散してしまう僅かな気配。先週末の出来事が脳裏をよぎった。
だが、席に着き不機嫌そうに頬杖をつく女王をだれも気に留めない。手短に挨拶を交わす友人はあれど、枝垂挫によって明かされた秘密をからかう者は当然いなかった。
いいや、すこし違う。今までにはなかった余所余所しさが、クラスに満ちていた。
枝垂挫や僕、そして、きっと可奈浦も。可笑しくなった枝垂挫と関わりを持った僕らとクラスメイトとの間には、決定的な溝があった。
そこで、僕は理解する。
なぜ、こんなにも周囲が淡泊なのか。先週あれだけの騒ぎを起こした枝垂挫を――今まで彼女とは一言も交わさなかったくせに親しげに会話している僕を、なぜこうもあっさりと受け入れたのか。不思議に思わないのか。当たり前のように平然を装うのか。
臭い物にフタをしたのだ。
みんな、不都合な変化を、異常を、見て見ぬフリすることで流そうとしている。
噂や事件には地獄耳。でも都合の悪いものに関しては、
とくに『枝垂挫ゆい』に対するソレは……忌避といったところだろうか。
枝垂挫に視線を向けると、彼女は先週と同じく笑みを携えて準備をしている。まるで授業の苦痛さや長時間拘束されることへの不満を持たないような、新鮮な雰囲気だった。きっと、教室内に漂う暗黙の了解などつゆ知らず、まったく関係のないことを考えているのだろう。
――けれど、その在り方はどこか恐ろしい。
綺麗すぎて、怖い。
僕が抱いた感想を、きっとクラスのみんなも感じたのだろう。
そう。
『可笑しくなった生徒』としてある意味存在を認められた彼女はしかし、逆を言えば『頭のネジが飛んだ不良品』という扱いに成り代わっただけだった。
つまり彼女に対する距離感は、「もう手に負えないくらい壊れたから」生まれたものだ。
諦めと言い替えてもいい。
枝垂挫ゆいは逝くとこまで逝った。もう以前の暗くて物陰でひっそりしているような彼女に戻ることはない。だったらもう、枝垂挫ゆいは可笑しくなったまま、クラスの常識として認めてしまおう。変に刺激するのもやめよう。壊してしまった僕らが責任を問われないように。
――クラスはいつもどおりに見えてその実、冷たい空気に包まれていた。
欠伸をした拍子に、枝垂挫が僕の視線に気づく。
栗色の髪を揺らして、「なあに?」と首をかしげた。僕が「なんでもないよ」と首を振れば、ふてくされたように口を尖らせて前に向き直る。
……クラスメイトが距離を置くのも理解できる。
事情を知っているのは僕だけなのだから。
何も知らない生徒から見れば、枝垂挫は何の前ぶれもなく唐突に別人になったのだ。ぐいぐい話しかけてくるし、失礼なことを女王の前で口走るし、話し方も佇まいも百八十度変わった。
これほど怖いことはない。今まで見て見ぬフリをしてきた結果壊してしまった級友が、距離を詰めてくるのだから。
生徒にとって今の枝垂挫は、己の罪を突きつけられる爆弾に他ならない。運悪く傷を付けてしまったスポーツカーが翌日になって家の前に停められていたら、誰だって遠ざけたくなる。
「……」
机の下で手のひらを握り込む。いつものように小説を読み耽っても、文字が頭に入ってくる気はしない。
再確認するんだ。僕の成すべきことを。かつての失敗を、もう繰り返さないためにも。
この教室で、少なくとも僕だけは、彼女の傍にいなければならない。
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