(8
しばらくして退店した景色は、違ってみえた。入る前よりも色鮮やかで、濃くて、深かった。秋の色彩が存在感を増したのか、それとも僕の中でなにか変化が起こったのか。おそらく後者に違いない。
日常。
生き方。
価値観。
そういった変容を受け入れて、見える世界が姿を変えた。枝垂挫と向き合う覚悟を決めたことで、ようやく正しいレンズを手に入れたのかもしれない。
見えない苦い重みを感じながら、僕は自分がようやくヒトとしての形を得た気がしていた。
枝垂挫は並木道のすこし先を、くるくると踊るように歩いていた。
歩行者専用のアスファルトには黄色い扇状の葉が散りばめられていて、かさり擦れる足音とともに、秋を踏みしめた感触が靴越しに伝わる。風は落ち着いていた。トンネルみたく覆う木々の天蓋が、昼過ぎの乾いた空気を優しくしてくれていた。おかげで肌寒い気温を視覚で和らげ、この季節特有の風情を感じられる。
重力に耐えきれなくなった葉がまた一枚、舞い落ちてくる。葉が道脇の厚みとなる一部始終を見届けると、すぐにありきたりな光景として流した。代わりに、視界の女の子に視線をもどす。
ちょうど数歩まえを行く背中が、小さく跳ねたところだった。華奢な手が空を舞った一枚を捕まえる。
イチョウに挟まれた小道。数メートルほどの長さとはいえ、別世界に誘い込むような雰囲気に、枝垂挫の姿はとても映える。もみじ狩りに訪れた美人とでも言えばいいのだろうか。秋に紛れる栗色の髪は戯れる妖精のようで、覗かせる横顔がまたキャンバスに描きたくなる。僕は絵とか描かないけど。
彼女はタン、と立ち止まり、手にしたイチョウの葉を裏返して色を眺め、鼻先に近づけた。嬉しそうに目を閉じて匂いを感じる。銀杏の雄木に顔をしかめることもなく、仄かに香るは秋の発酵。枝垂挫は目蓋を薄く持ち上げ、笑みを浮かべていた。佇まいは儚げな気配が混ざり、背景の並木も相まって魅入るほどのコントラストをつくりあげる。以前の枝垂挫の面影があった。
僕が胸の奥の痛みを意識したところで、枝垂挫はパッと明るく振り向いた。
紅葉にも負けない明るい表情で、僕の名前を呼ぶ。
「ねえ瑞枝くんっ! 私、手伝ってもらいたいことがある!」
「……なにをすればいい?」
僕はいつもよりちょっとだけ声を張り上げて訊き返した。
「『私』のやりたかったこと、私とやってほしい!」
『私』が指す人物が誰なのかは、もはや問うまでもない。
きっと枝垂挫は誰よりも『枝垂挫ゆい』について詳しい。少なくとも、遠目に見ていただけの僕なんかよりはよっぽど近いところに居た。
「枝垂挫は、枝垂挫のやりたかったことを知ってるの?」
そう訊き返すと、彼女はイチョウの葉で口元を隠したまま、考え込むように視線をあげた。
「んー、一通りのことは、それなりに?」
疑問形で、そう返答する。
その仕草に、思わず苦笑がこぼれてしまった。
「あ! なんで笑うのーっ」
「いや、ごめん。決して面白がってるとかではないんだよ。ただ、」
「ただ?」
「おあつらえ向きだ、と思ってさ」
「オアツラエムキ……」
難しい顔で言葉を復唱する枝垂挫が、今度こそ面白くて笑ってしまう。
僕は一瞬だけ、物思いに耽った。
表情をころころと変える彼女。その姿を見て、後悔ばかりが浮き上がる。かつての彼女との相違点を発見すればするほど、透明な死が顔を覗かせる。目蓋の裏に残った、視界の隅に居た影が恋しくなる。無責任にも「もっと踏み込んでいればよかった」と考えてしまう。
けれど、もう手遅れなんだ。だからできることは数少ない。そこでこの申し出は、まるで神さまがもたらしてくれた天命にも思えた。
――償いの機会だ。
誰かが聞けば「今更なにをしても罪は消えない」と、そう嘲笑うだろう。でもこれしか僕にできることはない。そうでもしないと、僕は僕を許せそうにない。
だから、望まれていなくとも、手遅れで無意味でも、償いと称した愚かな行為を許して欲しい。
「いいよ。僕なんかでよければ」
ゆっくりと視界をひらきそう言うと、枝垂挫は数秒の間を置いてから、パッと顔を輝かせた。
「ほんとっ!?」
駆け寄ってきて僕の両手を捕まえると、きらきらした瞳を向けられる。僕は呆気にとられながら頷いた。とつぜん手を握られたことが意外で、予想外で、感情が可笑しくなりそうだった。
積もり積もった幾多の感情が混ざって、よくわからないものに変貌する。
しかし枝垂挫はこちらの気も知らず、感極まったように喜びに打ち震える。
「……っ! ――!」
飛び跳ねそうなほどの感情らしく、言葉にしようと口をひらいては語彙力が追いつかず、を繰り返す。終いには背中を向けて、小さくガッツポーズをした。宝くじに当選したかのような大げさな様を見て、僕はクスリとしてしまう。
「あ、また笑った! な、なにか変なの?」
「いいや、微笑ましかっただけだよ」
「もぉーーっ」
咄嗟に誤魔化してしまう。口が裂けても、今の枝垂挫を魅力的に感じたなどとは言えなかった。
歩き出せば、背中を追いかけてくる気配。枝垂挫は小走りで横に並んだので、駅へ向かう歩調を合わせた。
と、枝垂挫は肩掛けカバンから徐ろになにかを取り出して、僕へ見せた。
「さっきのお願いについてなんだけど……あのね、あの子のやりたかったこと、ここにまとめてあるんだ」
足を止めて、手元のソレを見やる。
「ノートに?」
「ノートに!」
明るい笑顔が復唱する。
僕はなるほど、と悟った。
「『私』のやりたかったことを一緒にやってほしい」――そんな願いの詳細が明らかになる。
「全部で十五――じゃなかった、十四個あって、その達成に協力してほしいですっ! 終わったら瑞枝くんにも見せてあげる!」
「ノートを?」
「ノートを!」
明るい笑顔がまた復唱する。
「それは魅力的な報酬だ」と微笑むと、枝垂挫は「でしょ!」と胸を張った。
「ちなみに、最初の『やりたかったこと』はなに?」
誇らしげな顔をする彼女に、僕は純粋に気になったことを訊いてみた。
すると枝垂挫はしばし考え込み、こう言う。
「生意気なヒトにぎゃふんと言わせる!」
目を見開いた。けれど、ああ、と納得する自分もいた。
感嘆する僕の脳内に、昨日の光景がよぎる。平然と秘密を暴露した枝垂挫。黙ってことの成り行きを見届ける集団。女王――可奈浦あやかの紅潮した顔。
騒ぎが収まったあとに枝垂挫が書き込んでいたノートこそ、目の前にあるこれなのだろう。
つまり、最初の『やりたかったこと』は達成されている。昨日のあの事件が、彼女がもうひとりの自分のために動き始めた第一歩というわけだ。
死んだもうひとりのために、君はあんなにも大胆な宣戦布告を行った。下手をすればクラス全員から敵対されかねない選択肢を踏み切った。可奈浦には申し訳ないが、事情を知ってしまった僕は女王を哀れむことはあれど、同情することはできない。
見えないけれど、ここに透明な『死』がある。
取り残されて、人生を丸投げされて、でももうひとりの自分の願いを叶えるべく歩き始めた、たった独りの女の子だ。
内心で、可奈浦に、そして可奈浦に味方するクラスのみんなに、謝罪する。
なんにせよ、僕は心に決めた。
「ひとつめは達成できたけど、でもやっぱりひとりでは限界があって……だから、」
この日々は――枝垂挫のために消費しよう。
「連絡先、おしえてくださいっ!」
バッと頭を下げてまでお願いする枝垂挫。透き通る声音が、切実な色を含んで秋の空気に混じる。
華奢な手で差し出されたノートの上には、彼女の携帯が置かれていた。薄いピンク色のスマホには連絡先のコードが表示されている。
告白かと見間違うばかりの申し出に、思わず周囲を見渡す。
休日とはいえ――否、休日だからこそ、駅裏のイチョウ通りは閑散としていた。次の電車がくるまで束の間の静寂を生む。鮮やかな黄色の天蓋、足元を滑る枯れ葉の足音、視界を横切る落葉の気配。
その中で、顔をあげた枝垂挫の瞳が、僕を捉えた。
水面を思わせる瞳が、縋るように揺らぐ。
「――、」
瞬間、とくん、と何かが動いた気がした。胸の奥を軽くノックされたかのような、不思議な感覚。
呼び起こされる高揚感に恐怖を覚えて、必死に抑え付けた。
またどこかで、だめだと諭す誰かがいる。
あり得ない。そんな選択は許されない。自分の価値を思い出せ。今よぎった光景を目指す資格などない。
なのに、僕は無意識に理性を振り切って、手を伸ばしていた。
「よろしく」
正体不明の衝動に突き動かされ、瑞枝実は、踏み込んではならない境界を越えた。
「……っ! うん、よろしく瑞枝くん!」
綺麗に。
残酷に。
枝垂挫は僕の承諾を喜んだ。
――近くにありながらずっと始まらなかった、ふたりの物語。別人になった女の子との時間はこうして幕を開け、静かに変化をもたらしていく。
例えるならば、その邂逅は水滴。水面に落ちた一粒だ。
しかし僕は、彼女が波紋を生み周囲を巻き込んでいく予感を、どうしようもなく軽視していたのだった。
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