(7
あっけらかんに、彼女は答えた。
当たり前じゃん、みたいな態度で。なに言ってるの? とでも言いたげに。
「どうして」と追求することもできず言葉を失う僕に、枝垂挫は追い打ちをかける。
「あの子、もう戻ってこないから」
「――、」
時間が止まる。
硬直させた指が、冷めていくカップの温度を意識する。
ぴしりと空気に電気が走り、それを境に落ち着いた喫茶店の音が遠ざかる。そしてめまいが襲い、目頭をおさえた。何を言っているのか理解できなくて、どういうことだとまくし立てたいほどに衝撃だった。
歪む視界のなかで、枝垂挫の真っ直ぐな視線が、さらに軽い声音を反響させる。
「はいっ。瑞枝くんなら見てもいいよ!」
徐ろに差し出されたのは、彼女が使う携帯だった。画面には白い背景のメモ機能が開かれている。おぼつかない手で受け取り目を凝らすと、そこには誰かのやりとりのような文章が
〈六月十二日〉
・暑い。あなたはいいですよね、夜だけ表に出てこられて。わたしの代わりに学校行ってもらいたいよ。
・えー、やだよぉ。気温三十二度って、もうお風呂じゃん。のぼせたくない!
〈六月十三日〉
・一回だけ。ね、行ってみませんか? 学校、見てみたいでしょ?
・うーん、行ってみたいけど、私は夜だけで十分! あ、そういえば机の漫画読んだよ! 面白かった!
何を見せられているのか、理解できなかった。
けれど、冷静になれと命令を送る脳が、日付の意味に、枝垂挫の『戻れない』という言葉の意味に、気づいてしまう。
「まさか――」
顔をあげる。枝垂挫は相変わらず微笑みを携えて僕を見つめていた。
その表情が寒気を呼び起こす。
「もともとふたり居たんだけどね。この間、片方いなくなっちゃった」
ひやりとしたものが、背筋をなぞった。
片方がいなくなって、もう戻ることはない。それはつまり、
「死んじゃったんだ、あの子」
言葉にしたくないと、理性が留めていた。ノドが音を発するのを拒絶していた。にもかかわらず、目の前の女の子は現実を形容するように冷静な振る舞いをする。
「――死ん、だ?」
枝垂挫が。
頭が真っ白になる。
世界から色味が失われた気がした。視界の人物と言葉の内容が相反していて、混乱した。
窓から見える秋の色彩も、対面に座る枝垂挫の髪色も、コーヒーの黒さも。何もかもが消えそうになって、目眩が視界を揺さぶって、喉の渇きを意識して、必死に理性を保った。
その意味をすんなり受け入れられるほど、僕は肝が据わっていない。見開いた目で無慈悲な微笑みを見返す。どうにもならない現実に嘘だと問いかけたい。けれど、ここ数日の出来事がすべてを物語っている。
彼女の言葉を鵜呑みにするならば、枝垂挫は昨日までは二重人格だった。逆を言えば、今の枝垂挫は二重人格ではないことを意味する。
まるっきり変わってしまった性格。狂ってしまった常識。失われた記憶――それらが指し示すのは、誰にも知られない彼女の死。
思考が嫌でもつなぎ合わせてしまう。
「――くの、せいだ」
「?」
そうして生まれたのは、罪の意識だった。
あの環境に身を置いていた枝垂挫ゆい。
孤独の中、憐れみと嘲笑の対象として仕立て上げられた彼女は、何を思って生きていたのか。クラスメイトや教員に対する認識が如何ほどのものか。
抱いていた感情の深さも濃さも強さも、今となっては確認のしようがない。だけど負の面が強いことくらいは容易に想像できる。傍目に見ていたって良い気分ではない。何もできなかった今までの自分に嫌気だって刺す。
そう。僕らは彼女を殺したも同然だ。
罪悪感が支配した。怒りだけではない、後悔という泥で塗りたくっても不十分などす黒い感情が、胸中に渦巻く。手汗をズボンの膝で拭う僕を、どこかの誰かが責め立てる。何も出来なかった自分自身に顔をしかめてしまう。もしかしなくても僕たちは、間接的に彼女を死へ追いやっていた。救えたかもしれないのに、大衆と同じ冷酷さで彼女を殺してしまった。
なのに――枝垂挫は首を横に振って気遣う。
「瑞枝くんのせいじゃないよ。あの子が死んじゃったのは、決まってたことだから」
「決まってた……?」
そう言われても、素直に受け入れることは難しい。
僕は顔を伏せる。
テーブルに再び長い沈黙がおりた。周囲のリラックスできる雰囲気から隔絶され、僕と枝垂挫の席だけが灰色に淀んでいる気さえした。さすがの枝垂挫も所在なさげに目を背ける。
空気はお通夜のようになってしまった。
しかしそれも仕方がないと思う。いつもおどおどして、話しかけられる度に口ごもっていた彼女の消失を、誰も気づいていない。日陰に生きる同級生の死。それを知るのは僕と目の前の女の子だけ。葬式もない、悲しむ人も他にはいない。胸を痛めることができるのは、たった一握りの人たちだけなのだから。
今の枝垂挫は中身が別人だ。彼女は依然として生きているが、死んでいる。身体はあっても心は失われた。他でもない枝垂挫の声で、「もう戻らない」と告げられた。
手元に残った、枝垂挫ゆいの生きた証。自身の中に住むもうひとりと会話した言葉選び。そこには、学校でも見せない楽しげな内容が綴られている。まるで唯一無二の友達と談笑するような、二度と続かないセピア色のやりとりだった。
「すぅ――はぁ」
一度、固く目蓋を閉じる。
震えが残るひと呼吸で、無理矢理に心を落ち着ける。誰も知らない死を知って、どう向き合うのか。それを自分なりに定義づけた。
僕は、自分の在り方を見失いたくない。
あの日、枝垂挫に話しかけたこと。それは間違いなく後悔だ。でも話しかけた結果、傷ついた枝垂挫から距離を置いてしまったこともまた後悔なのである。
ここで再び逃げれば、後悔は増える。それは誰よりも自分自身が理解できて、予知できる未来だ。
それを回避するためにできることなど、ひとつしか思いつかない。
そうだ。枝垂挫は自らの『死』を明かした。そこには必ず意味があり、覚悟があり、そして僕には応える義務があった。
「――、」
ゆっくり視界をひらくと、僕はそっと携帯の画面を閉じ、彼女に返す。
怪訝な視線を向ける顔に尋ねた。
「枝垂挫、でいいのかな。君のことは」
「……うん」
すこしの間をおいて、枝垂挫はそう答えた。
穏やかな、けれど物悲しい雰囲気の笑みを浮かべながら。
「わかった。ねえ枝垂挫」
「なあに?」
「君は、もうひとりの君の『死』を簡単に受け入れる僕を、薄情だと思うかな」
きょとんとして、枝垂挫は目を丸くした。
僕の質問があまりにも意外だったようで、しばし顔を見つめられる。
やがて、ぼそりと彼女の言葉が返る。
「思わないよ。瑞枝くんのソレは、覚悟の現れだと思うから」
今を生きる彼女の声音は、今まで聞いたどんな響きよりも優しかった。
かつての枝垂挫からは決して出てこなかったであろう、まっすぐで透き通ったソレは、嬉しくて、でもやっぱり哀しかった。
「ありがとう」
「それよりもホラ、はやく食べよっ。せっかくの料理が冷めちゃうよ!」
枝垂挫の顔には「私にもちょうだい」と書いてあった。
それが彼女なりの気づかいなのだろうかと、漠然とそんなことを思った。
僕は彼女の対面で、ぎこちなく舌鼓を打つ。評判に偽りなく味は素晴らしくて、未だに距離感はつかめなかったけれど、気がつけば長時間を彼女と過ごしていた。
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