(6

「行ってきます」


 親の声を聞きつつ、後ろ手に扉を閉める。

 昨夜の寒々しさが薄れた青空。

 土曜日の今日、向かう先は決められていた。

 件の少女が選んだのは、僕の通学駅――雨飾という――から三駅となり。その裏手にある喫茶店だ。

 駐輪場から山の方角へ伸びる並木道を行けば、徒歩五分程度で待ち合わせ場所に着ける。人の往来が盛んな三鏡駅前のカフェとは異なり、件の店は隠れ家のような佇まいらしく、雰囲気は良い。場所の把握も兼ねて検索にかければ、そこそこの評価が星となって輝いた。オススメはナポリタンとのこと。

 自転車にまたがり、見慣れた雨飾あまかざり駅から上り列車に乗る。間の駅を横目で流し、昨日枝垂挫を見送った檜倉ひのきぐら駅に降り立つ。

 土曜日の三鏡市は観光客がそれなりに歩いている。山が近いこともありツアーなんかも企画されているらしい。大きめのリュックを背負い、サングラスを掛けた外国人に道を訊ねられることも少なくはない。観光客たちの多くは登山目当てだ。駅前で点呼の後、バスで麓まで運ばれるのだろう。そこからえっさほいさと山頂を目指し、明日には日の出を眺め下山だ。そういう人々は高ければ高い標高ほど味わい深い達成感に浸るのだろう。

 僕はとてもじゃないが行く気にはならない。

 一行の背中をホームのベンチで眺め、「すごいな」と視線を投げた。その行動力に合掌。

 というわけで、今はトイレも駅前も混雑していることだろう。ホームのイスに腰掛け、空くのを待った。携帯を確認すれば時刻は待ち合わせの二十分前。無理して喫茶店を目指しても早めに着いてしまうし、ちょうどいいかもしれない。

 僕は紅葉に色づく山を眺めてため息を吐いた。

 遠方に聳える景色は圧巻の一言で、外から観光にやってきた人は、皆口を揃えて紅葉が綺麗だと感想をこぼす。ここで生まれ育った僕からすれば、そんなに驚くことかと呆れてしまうけれど。

 線路を挟んでホームの向かいに視線を落とす。柵で隔てられた先はアスファルトがロータリー状に広がっており、傍らの駐輪場にはいくつもの自転車が停められている。奥にはこじんまりとした並木道が延び、風に運ばれ吹き溜まった落ち葉が風に煽られ、かさかさと音を立てる。茶色と黄色。大半はイチョウだ。

 ああ、そこの自動販売機でコーヒーでも流し込みたい気分だ。でもこの後喫茶店で飲む予定なのだから、我慢しなければ。

 携帯の画面を再度覗き込んだ。

 十分前。そろそろ行かなければならない。

 僕は重い足取りでホームを歩き出した。明るすぎる紅葉の色彩に目を細めれば、今日何度目かの欠伸をかいてしまう。というのも、昨夜から頭に住み着いた枝垂挫のせいで、せっかくの休日だというのに満足な睡眠がとれなかったのである。


 断言しよう。今の枝垂挫ゆいは普通じゃない。

 一昨日からの変化は、単に「イメチェン」だとか「遅咲きの高校デビュー」で済ませて良い代物ではない。きっと会話するだけで相当なカロリーを消費するに違いない。

 こと自分に至っては、後ろめたい感情もある。素直に腹を割って話せればどれだけよかったことか。彼女はこちらの事情など微塵も気にしないだろうけれど、かといって僕が気を揉まないということにはならないのだ。

 活気に満ちた様子で語る枝垂挫と、相槌を打ちながらも内心では難しい顔をする自分……ああ、容易に想像できる。それだけに胃がいたい。



◇◇◇



 ちょっと遅れ気味で入りたかったが、図らずも五分前行動を守ってしまった。

 例の喫茶店に入ると、すでに席へついた枝垂挫を発見する。

 入り口から見えるテーブル席。カップから口を離し、気分を落ち着けるように吐息をこぼす所作が目に飛び込んでくる。

 白のブラウスにベージュのジャンパースカート。秋にしては暖かい散歩日和だからか、優しい気温に合わせラフな装いである。傍らに置かれたレザーのバッグは喫茶店のレトロな雰囲気にも似合っていた。窓際の席でゆったりと過ごす彼女は、絵画にでもしておきたいくらいに空気感に沿っていると言えよう。

 今日も亜麻色の前髪から黒い目元が覗いていた。雑にかき上げた毛先がはらりと落ちた。細めた瞳と横顔は野良猫を彷彿とさせる。物憂げな視線はこちらに気づくことはなく、ぼんやりと対面の席へ向けられている。

 一方の僕はというと、店員の声を遠ざけ魅入ってしまっていた。

 あまりにも予想外に落ち着いた装いだったものだから、本当に昨日話した枝垂挫と同一人物なのだろうかと目を疑ってしまう。もしかしたら、昨夜のうちに以前の『枝垂挫ゆい』に戻ったのだろうか? そう考える方が自然なほど、自分の中のイメージと目に映る光景が乖離していた。

 だがしかし、淡い希望はあっけなく打ち破られる。


「あ、瑞枝くんっ! おはよう!」


 こちらに気付いた枝垂挫が手を振る。声量が大きめで、周囲から訝しげな視線を送られる。あちこちから「うるさい」と言われた気がした。

 我に返った僕は店員に頭を下げ、彼女の向かいに腰をおろす。


「声、大きいんじゃないの」

「うん、さっき店員のお姉さんにも言われたっ。瑞枝くんもそう言うなら抑える」


 果たして抑えられるのだろうか……そんな危惧があったけれど、一先ずは様子を見ようということで許す。いざとなったら口を塞げばいい。

 僕はメニューを開きながら、枝垂挫の手元に目を向けた。空の小皿にケーキ用のフォークが添えられている。さらにお冷は水滴で濡れ、底の方に溜まっていた。ずいぶん待たせてしまったようだ。こんなことなら駅で時間なんか潰さずさっさと来ればよかった。

 すかさずお冷を持ってきた店員にブレンドとナポリタンを注文し、ふぅと息をつく。はやくも先が思いやられるが、常識を守るという意思はあるようで一安心だ。

 僕はまじまじと見つめてくる枝垂挫から逃げるように、店内を見渡した。

 女性客が多く、ケーキを味わいながら談笑している姿が見て取れる。奥のカウンターでは洒落た服装の店員が準備しており、芳ばしい香りが漂っていた。口コミどおり、良い店だ。

 テーブル席の窓からは、店周りに植えられた庭木がみえた。いくつかの樹種があるようで、店構えを隠し彩るように並んでいる。とくに多い扇状の葉は、山同様すでに色彩を変えている。根元に落ちては黄色に染めて、先ほど通ってきた並木道からここまで、自然の絨毯をつくりあげていた。

 ……まだ鼻の奥には秋の匂いが残っている気がした。匂いといっても、銀杏の種子が放つ強烈なものではない。おそらくここのイチョウは雄木がほとんど。結実しない雄木に鼻を曲げる心配はない。今こうして感じている匂いも発酵の香ばしさと甘さを混ぜたようなもので、庭先を通って入店した客には落ち着きある余韻をもたらしてくれている。お伽話に出てきそうな雰囲気は、きっとこの木々こそが、喫茶店を隠れ家たらしめていたからなのだろう。

 なるほど、客に男女の組み合わせが多いのも頷ける。

 気にしたら負けだ、と僕は気を引き締めた。まさか枝垂挫相手にそれはあり得ない、と自分を戒め前に向き直る。


「っ!?」


 枝垂挫の真剣な眼差しが、僕を捉えていた。興味津々といった様子で前のめりになり、穴が空くほどこちらを凝視している。


「な、なに」

「ううん、なんでも。瑞枝くんだっ! と思って」

「はあ」

「……」

「……」


 ――気まずい。

 思えば、枝垂挫とはほとんど絡みがなかった。中学から同じ学校に通っていたといっても、会話した記憶など一度きり。それも僕にとっては苦いものだ。いざ対面すると言葉が浮かばない。

 ちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれてきた。

 お茶を濁すように、テーブル横の角砂糖を三つ、カップにつまみ入れる。スプーンでかき混ぜつつ顔を見やると、再度枝垂挫と視線がぶつかる。

 だから気まずい。無言で見つめられるとむず痒い。


「こほん」


 痺れを切らした僕は咳払いをした。

 甘みと苦味の混じったコーヒーを味わう。奥にほんのりと感じられる酸味が暖かく身体の内側から癒やしてくれた。

 カフェインを摂取したことで、少しだけ頭が冴えた。居住まいを正し、観察を続ける枝垂挫に問う。


「それで、今日呼んだのは?」

「あっ。そうだった!」


 思い出したように枝垂挫が声をあげる。ようやく本題に入ることができそうだ。


「今日は私について知ってほしくて呼びました! というわけで……初めまして瑞枝くん、私は枝垂挫ゆいといいますっ」

「う、うん、初めまして……?」


 なんとまた疑問を招く挨拶を。と僕は思った。

 しかし、少し考えて納得する。今まで会話はなくとも、互いに存在は認知していた。なにせ中学校から同じ空間で生活してきた関係である。意識しなくとも相手の名前は記憶に刻まれる。とはいえ、昨日の出来事を鑑みるに……現在の枝垂挫にとっては、本当に『初めまして』なのかもしれないのだ。

 枝垂挫はこちらの内心を読み取ったのか、事情を話し始める。


「昨日言ったこと、覚えてる?」

「まあ」

「よかった。実は私、記憶がないんだ。自分の性格とか、どういう日々を送ってきたのかとか、誰とどんな関係だったのかとか。色々とわかんないの」


 それは、抱いていた疑惑を確たるものにする内容で。予想したとおりの、そして信じたくない真実だった。

 コーヒーを味わいながら、状況を強引に飲み込んだ。そんな僕に対し、枝垂挫は続ける。


「こうやってデートするのも慣れてないから、今日はエスコート? よろしくねっ」

「ぶっ」

「うわっ!? 大丈夫っ!?」


 思いがけない発言にコーヒーをむせる。まさか枝垂挫にこんなことを言われるなど、数日まえの僕が聞いたら苦い顔をするに違いない。


「ご、ごめん、ちょっと驚いて」


 僕がテーブルを拭く姿を、枝垂挫は「いいっていいってえ」と許した。雰囲気には生命力と朗らかさが溢れていて、どこか頼りがいさえ感じてしまった。

 何気ない笑顔が、なぜか眩しい。


「……」


 しかし僕は調子を整え、眉をひそめる。

 なんなんだよその顔は、と。

 君はそんな顔しなかった。見せなかった。脳天気に笑うことはないし、目の前の出来事を軽く流せる性格でもなかった。以前の彼女ならそれなりに取り乱していただろう。

 ――ほんとに、変わってしまったんだな。

 可笑しくなった枝垂挫ゆい。天真爛漫に振る舞う彼女を、他人は「マシになった」とでも思うのだろうか。会話が成り立たない以前より話が通じる今の方がよっぽど良い、なんて感想を抱いている人は少なからず居るに違いない。

 少なくとも僕は、周囲の人間が追い詰めて追い詰めて、結果壊してしまったなれの果てに思えて、胸をかきむしりたくなるけど。

 後ろ向きな思考を振り払って、気分を切り替える。


「僕から、いくつか訊いてもいいかな」

「もちろんっ。今日はそのためのデートだからね」

「デッ……もうそれでいいや。ええと、訊きたいことっていうのは、」


 数秒をつかい、言葉を整理する。


「記憶を失ってしまったことは、他に誰か知ってるの?」

「えーと、お母さんと、担任の……何とかって先生! それ以外で知ってるのは瑞枝くんだけだよ!」

「そ、そっか。鈴原先生も一応事情は知ってるんだ」

「スズハラ先生っていうんだね! 覚えました!」


 枝垂挫がまたメモをとる。

 先生は事情を公表はしていないようだけど、学校と枝垂挫の親はどういう方針でいるのだろう。今後この記憶喪失は明かされるのだろうか。少なくとも、僕は見守る他なさそうである。


「じゃあ次だ。君の記憶喪失っていうのは、具体的にどういうモノなんだ?」

「ぐたいてきに?」


 首をかしげる枝垂挫に、僕は頭をかく。


「言い方を変える。『記憶がない』ことを自覚した瞬間はどういう状況だった?」

「んー、真っ暗な部屋にいたかなぁ」

「真っ暗な、部屋?」

「そ! なんか真っ白い画面のまえで、ハサミ片手に寝てたみたい!」


 薄らと、彼女がおかしくなった瞬間を想像できる。

 真っ暗な部屋――おそらく枝垂挫の自室だろう。テレビかそれともパソコンか、画面の青白い光に照らされて、目の前の彼女は目覚めた。片手にはハサミが握られ、おそらくもう片方の手には……。

 ちら、と僅かに視線をズラすと、短くなった枝垂挫の髪が目に入る。

 断髪。

 引退する力士が断髪式で髪を切り落とす。武士が切腹の前に髪を切り落とす。イメージはいくらでも出てくる。その行為には、俗世との縁を断つという意図も含まれている。

 『枝垂挫ゆい』は解放されたかったのかもしれない。全てをぶん投げて、逃げ出したいくらい。真実はわからない。だからこそ、僕が直面した記憶喪失という事実のせいで、勝手に彼女の辛さを想像してしまう。

 僕は心を落ち着けるつもりで、引き結んだ口もとから声を漏らす。


「……これは僕の予想なんだけど、」


 そう前置きすると、枝垂挫はうん、と頷いた。


「君はただ記憶喪失なだけじゃないんだ。多分、一時的な二重人格なんだと思う」

「にじゅうじんかく? ああ、なんかお母さんが言ってた。せいどう――何とか障害? ってやつだよねっ」

「解離性同一性障害だね。精神的なストレスとかで、君という存在のなかに別の人格が生まれたんだ」

「なんか重い病気なの?」

「重い……おそらくは。精神的なものだし、軽視できるものでないことは確かだよ。何てったって別の人格だからね。何もかもが切り替わる」


 自分のことだというのに、まるで他人事のように「へぇーっ」と驚かれた。調子を崩されかけた僕は、ナポリタンを運んできた店員に頭を下げ、会話を再開する。


「ごめん、詳しいわけじゃないから伝えにくい」

「ううん、瑞枝くんの言ってること、何となくわかるよ! おかしくなった私は『枝垂挫ゆい』と別人。記憶がないだけじゃなくて、知識が欠けてて、性格も違う」


 指折り数えて、枝垂挫は確認する。


「つまり、見た目だけが同じのニセモノってことだよね?」

「言いづらいけど、大まかにはそういうこと」


 でも、悲観するのはまだはやい。

 現代の医学は日々進歩している。治療法は探せばきっと見つかるはずなのだ。

 だから、僕は安心させるつもりで説明した。


「大丈夫、君のその状態もいつかきっと治るよ。トラウマから自分を遠ざけたり、あと精神を安定させたり……世界には似た症状の人が何人もいる」

「あ、私だけじゃないんだっ」

「そう。君もきっといつか戻る。以前の枝垂挫ゆいに」


 しかし――そこで、何かが噛み合わない感触がした。


 歯車がズレたような、会話に齟齬があったかのような、嫌な感覚。形容しがたいそれはとても些細で、でも無視できるものはなかった。

 その証拠に、枝垂挫はきょとんとして、残酷な言葉をあっけらかんに返す。



「私はムリだよ?」

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