(5
枝垂挫のとなりを歩く。
無言で歩く僕は、薄く微笑みを携える横顔を一瞥して、視界から外した。
幸いなことに、他の生徒の大半はまだ部活中のようだった。生徒玄関付近にはほとんど人影がなく、グラウンドやテニスコートの方では片付けをする生徒が見えた。
校門を抜けしばらくすれば喧噪は遠ざかり、いよいよ無言の間が気まずく感じてくる。
速度を合わせつつ、僕は空を見あげた。
比較的田舎な三鏡市は、地方都市とはいえ高いビルが少なめである。特に三鏡高校は外縁に位置していることから、中心部より落ち着いている。お陰で空の様相をいくらか確認できるところが良い。
夕暮れは雲に遮られ
じき山陰に隠れ、紫紺が存在感を増すだろう。きっと数十分後には、夜闇に包まれているに違いない。そうやって、地表に生きる人々の意思を無視して、時間は過ぎ去っていく。昼は終わり、夜がやってくる。繰り返して、年月が厚くなる。境である夕暮れを歩く僕らなど、空にとってみればこんなにもちっぽけな日々の変遷。なにせオレンジのスクリーンを黒に塗り替え星々を散らせることを仕事としているのだ。それを眺め、物思いに耽る僕のような人間の心情など、考えもしないのだろう。
吹き付ける風に秋の寒気が混じっていた。ついこの間まで夏だったことを忘れさせる肌寒さと乾燥。人によってはちょうどいい、けれど身をよじるくらいには寒々しい季節を歩く。
足元、歩道の隅を、イチョウの枯れ葉が擦る。乾いた風がカサカサと音をたてる。昼間なら街路樹の紅葉が視界を染めていたに違いない。
歩道の左側は不規則に通り過ぎる車のヘッドライト。チラリと傍らに目を向けると、枝垂挫は眩しく感じるそれらを物ともせず、悠然と歩みを進めていた。
視線は通り過ぎるケーキ屋や書店、シャッターに張られたポスターにコンビニ、果ては何てことない駐車場。視界に入ったものすべてに向けられている。
くせ毛の後ろ髪がなびく。短くなったとはいえ顔つきは変わっていない。そのためか、以前の面影を感じつつも、別人と歩いているような錯覚に陥る。新鮮な雰囲気に首の後ろが痒くなって、意識を背けるつもりで前に向きなおった。
――考え事で気を紛らわす。
枝垂挫はなぜ僕を誘ったのだろうか。それがわからなかった。考えて答えが出るワケでもないのに、難しく考え込んでしまう。当然、思い当たる節を探してもこれといった理由はみつからない。百歩譲って、間接的に骨折させてしまったあの事件のことだとしても。予測が通らない彼女の思考など、読めるはずもない。
そう。彼女については無知に等しい。
そもそもの話、僕は『枝垂挫ゆい』がいつから臆病だったのか知らない。彼女の性格をそう変えた原因などもってのほかだ。ただ、同じ高校に進学することがわかった頃には、すでに塞ぎ込んでいたように思う。そうなるとずいぶん昔から控えめだったのだろう。
僕は改めて枝垂挫を見て、傷を抉るような思い出を再生する。話しかけた瞬間の、恐れおののいたあの反応を。
今でこそ変わり果ててしまったが、枝垂挫といえば優柔不断で過敏に捉えすぎる性格だ。友人が少ないという点では似たもの同士だけど、彼女と自分とでは生きる世界が異なる。日陰に生きるモノであっても、湿気はまた別の話だった。
だからこそ、まさか帰路を共にするとは思いもしなかった。結局のところ、僕はどこまで思考を繰り返しても、苦い思い出を掘り返しても、彼女の意図が読めずにいた。
「そういえば枝垂挫、電車通学だったんだな」
軽い足取りと、落ち着いた足取り。
枝垂挫は駅へ向かう僕についてきていた。
「そうだよー、意外でしょ」
「いや、そうでもない」
「えーっ」
「同じ中学だったんだから、当たり前だよ。まぁ自転車でも通える距離かと思ってたけど」
「そうなんだあ……同じ中学校にねえ」
実を言うと、枝垂挫が駅の券売機を利用する姿は何度か目にしている。かつてお世話になった中学校は三鏡高校とそう離れていないことから、枝垂挫が僕と同じ電車通学なのはなんら不思議なことではない。
それからも当たり障りのない会話を何度か繰り返し、駅への道のりを辿った。
訊きたい事柄は幾つも浮かぶ。しかしそのどれもが口をついて出ることはなかった。彼女の不安定さゆえに、安易に踏み込んでしまうのは気が引けた。
そうこうするうちに駅へと着いた。
枝垂挫を送り届けるつもりで。つい流れで。なんて言い訳じみた理由で一緒にここまで来たが、もう十分だろう。明るい構内、人々の通り抜けていく改札の前で、僕は枝垂挫と別れの挨拶を交わす。
短く「じゃあまた明日」と手を挙げ、一足さきに改札を通った。ICカードをかざし、開かれた改札ドアを通過する。頭上の時刻表を確認し、自分の乗る番線へと──
ビーッ。
足をとめる。
けたたましいブザー音に振り返ると、つい数秒前に別れた枝垂挫が引っかかっていた。その驚き様が、一瞬だけ以前の枝垂挫へ戻ったかのように錯覚したけれど……そうじゃない。
手元には僕と同じICカードが握られている。磁気がおかしくなったか、それともチャージされた金額が足りないのか。どちらにせよ、一度引き返して対処しなければならない。
だというのに、驚いた枝垂挫はそこで立ち尽くし、目を丸くしていた。
訳がわからないとばかりに首をかしげ、改札機とカードを見比べていた。もう一回カードをかざしてブザーが鳴る。それを確認すると、今度はあろうことかその場でしゃがみ込み、改札機を叩いて何事か語りかけはじめたではないか。
「おーい、通してくださいよお」
またもブザーが鳴る。後方で通行人が立ち止まり、迷惑そうに見ている。邪魔になっていることが気づいていないのか、それとも気づいていて無視しているのか。
――否。僕の予想が正しければ、おそらく彼女にはそんな常識すら……。
枝垂挫がコンコンとノックして、何度目かの警告音が鳴り響く。駅員が駆けてくる。その光景を目にして、枝垂挫の代わりに僕が青ざめていた。
「待て待て待て待て……!」
思わず引き返す。
駆け寄ると、こちらを見た枝垂挫がパッと表情を明るくする。
「あ、瑞枝くんっ」
「とりあえず後ろ、背後つっかえてるから! 引き返して窓口の方行って」
身振り手振りで指示を出す。
枝垂挫はキョロキョロと見回し移動した。以前の彼女とは別のベクトルで挙動不審だった。
……なんだか一気に不安になってきた。
さっきは「もう一人でも大丈夫だろ」と軽い気持ちでいたけど、こんな姿を見たら心配になる。
通行人が何食わぬ顔で過ぎるようになって、胸を撫で下ろした。しかし新たに浮上した気がかりのせいで、ため息が漏れる。
僕は改札を通過したあたりで端に寄り、向こう側の様子を眺めていた。
枝垂挫は駅員の説明を聞きながらカードに金額をチャージしている。その光景は以前の彼女であれば違和感がなかっただろう。でも、今の枝垂挫は昨日までの枝垂挫でないことを知っている。何かのストッパーが外れ、可笑しくなっているのを知っている。それと同時に、自分の中の嫌な予感が確かな形を得ていくのが分かってしまう。
やがて、枝垂挫が改札を通ってきた。
待っていた僕の元へやってくると、頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「ごめんね。迷惑かけちゃったっ」
僕は言葉にせず首を横に振った。今はそれよりも確認しなければならないことがあった。返答によっては、今後の動きを変える必要がある。
僕は額に手をやり、
「あの、違ってたら申し訳ないんだけど」
「なあに?」と首をかしげる彼女に、半ば確信している疑問を投げかけてみる。
どうか否定されますように。そう祈りながら。
「枝垂挫、昨日までの記憶とか、なかったり……する?」
「──、」
瞬間、驚愕して目を見開く枝垂挫。
ピーン、ポーン、と。
コンコースに誘導用の電子音が虚しく鳴り響く。周囲を絶え間なく過ぎる足音とは裏腹、ふたりの間には気まずい沈黙が流れた。
肩を揺らして固まるそぶりは、
「あー……えへ、わかっちゃう?」
枝垂挫が可笑しくなってから、初めて困った仕草を見せた。クラスの女王に向けた言葉ほどの自信は消えており、恥ずかしそうに頬をかく。目を泳がせて手慰みをする。さっきまでの自由本坊な態度から一転、今の枝垂挫はどうにかはぐらかそうと言葉を探していた。
しかしすぐに誤魔化しきれないと踏んだのか、亜麻色の頭がうな垂れる。
「困ったことに、私が可笑しくなっちゃったのは本当っぽいんだよ」
その声に、返答に、僕は言葉を失う。「やっぱりそうなのか」という諦めと驚嘆、納得と困惑。複雑な感情に襲われて、どう反応すればいいのかわからなかった。
ただ。ふいに、教室で枝垂挫が口にした言葉を思い出す。
――『うん、私も私が変だと思う!』
数十分まえの会話を再生して、ひとつ、腑に落ちた。彼女の自己評価の意味が、今になって理解へ繋がる。
客観的にみた自分が『変』に感じているのだと、勝手にそう思い込んでいた。でもそれは勘違いだった。枝垂挫は主観的な視点で、自分のことを『変』――つまり、『可笑しい』と捉えていた。
「今朝は……今朝はどうやって学校に来た?」
「けさ? けさは車っ」
認めたくない現実を、あるいは遭遇したことのない他人の異常を確認するために質問した。けれど、彼女は求めていた返答を裏切る。
僕はことの重大さを改めて理解した。背筋に冷たい感覚が走り、痺れにも似た衝撃を生み出した。
察するに、今の枝垂挫になったのは昨夜なのだろう。少なくとも昨日の昼はいつも通りの彼女として生活していた。何ら変わり映えのない、全てに怯える姿をたしかに見た。だというのに、日をまたいだ途端に枝垂挫は変になった。
おそらく『枝垂挫ゆい』という生徒は今まで何度も電車を利用していた。けれど、今目の前で肩を落としている女の子は、違う。
初めて使ったんだろう――駅の改札を。
見よう見真似でICカードをかざしたものの、料金の原理をわかっていなかった。さきほどの混乱はそういう理由からだと推測できた。果たしてその推測は、的中してしまった。
「いやぁ、さすが瑞枝くん、名探偵だねっ」
なにがさすがなのかは不明だ。名探偵と呼べるほど頭は冴えないし、真相を暴けるほどの閃きだってほとんど助けてくれない。色味の薄い自分にとっては、名だたる探偵に申し訳ない。
僕は彼女の評価に首を振り、パズルのような思考を整理しながら、ぼそりとフレーズを口にする。
「枝垂挫ゆいは可笑しくなった……か」
すると、それを聞いた枝垂挫――いや、僕の知らない誰かは、『枝垂挫ゆい』に不釣り合いな、にこにことした表情を浮かべてみせた。
ある種の不気味さすら内包した佇まい。迷いのない視線は裏を返せば底が知れない。昨日まですぐ傍にいたクラスメイトの認識が、得体の知れない存在へと移り変わる。
「瑞枝くん!」
ぐい、と詰め寄られ、身体を仰け反らせる。避けきれず、彼女の匂いが鼻腔をかすめた。水面を思わせる双眸には困惑した自分が映り込んでいて、純粋さと危うさが同居していた。
「明日、時間あるっ?」
以前の枝垂挫は、そこにはいない。
定義が曖昧で、もはやどう呼べばいいのか分からない。
「……多分、」
僕が圧倒されながら頷くと、彼女はまるで楽しみが増えたかのように、また口元を綻ばせた。
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