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「また明日な、瑞枝。俺は職員室の方に用事あるから」
「わかった。赤木もお疲れ」
手をふり、階段を降りていく男子、赤木。爽やかな佇まいの彼は、学校でもっとも多く言葉を交わす友人だ。
図書委員の仕事をともに乗り越えた戦友を見送り、僕も
放課後。
図書委員の仕事を終わらせた僕は、教室へ荷物をとりに戻る。
部活動が盛んな校風。あちこちで励む気配がするが、廊下は喧騒からほど遠い。だれもが帰宅した今、こうして歩くのは教員か居残って勉強する真面目か、自分のような仕事終わりの生徒くらいだ。委員──とくに図書委員会に所属する者は、日々仕事が課される代わりに部活動の強制から逃れられる。帰宅部という選択肢を封じられているこの高校において、放課後を己の時間にあてるためには、活動頻度が少ない部に所属するか、僕のように委員として働くことなのだ。
そんな自分にとって、こうやって廊下を歩く時間は楽しくもあった。
一日を終え、委員としての責務も終え、夕陽に染まった廊下を歩く。背筋を伸ばして疲れを吐き出し、ようやく気を抜くことができる。
今日の委員としての仕事は些か大変だった。というのも、さっきまで同じ委員である赤木の噂話に付き合わされていたのだ。可奈浦あやかを早退させた朝の一件がずっと気になっていたらしく、仕事中だというのに興奮を熱心に話していた。赤木は数少ない話しやすい友人だ。親切で温厚な性格ゆえに、男女ともに親しまれている。怒ったところを見たことがないあたり、みんな接しやすいのかもしれない。実は非日常的な出来事に目がない、という隠れた一面の持ち主でもあるが……。
ともかくあいつを無下にするのは気が引けたし、あんなイベント、もとい事件があったら興味を引かれるのはすこしだけ共感できた。だから片手間の会話もひとつの仕事として割り切った。
……それでも、さすがに仕事しながらは疲れたけれど。
自分の口からため息がこぼれ、ふと二階からの景色に目が向いた。再び放課後の解放感に浸る。
並ぶガラス。
差し込む
靴の音が反響して心を落ち着かせる。
自然、足取りはゆっくりとなる。教室が近づいてくると、このあとどうしようかと思案する。寄り道の案を探す、疲労の中の些細な楽しみだった。
本屋に寄るのもいい。ファミレスで課題を終わらせるのもいい。親の帰りが遅い家庭において、早々に帰ってもやることはない。むしろそのまま眠ってしまって、夜中眠れなくなりそうだ。そう考えると、やはりファミレスがベストだろうか。
などと考えを巡らせつつ歩いていた僕は、途端に静止した。
理由は単純。教室後方の開いた扉だ。
奥から鼻歌が聞こえてくる。
といっても、別に尻込みする必要はないはず。この時間帯なら空いていてもおかしくはないし、誰かが残っているだけだろう。と、いつもの常識的な考え方で自分に言い聞かせ、踏み入った。
しかし――このときの僕は失念していた。
昼間は考えないよう努めていたからか、残っているのが枝垂挫ゆいであるという可能性が抜け落ちていた。
油断。
気の緩み。
案の定、人影は見覚えのある、今最も会いたくない相手だった。
踏み込んだ先で、はたと足を止めてしまう。上履きのゴムが、このときだけは煩かった。
鼻歌が、止まる。
「……」
「──、」
夕陽の中に佇む彼女と対峙していた。
目を細めて、逆光の影を見つめた。彼女も夕陽に照らされるこちらをじっと見つめていた。
だれもいない教室。
立ち並んだ机のひとつに、小柄な彼女は腰掛けていた。ベージュの髪が光を受けて金色に見えた。ぱちくりと瞬きをする表情は彼女らしくなく、こちらの目を釘付けにする。
数秒の沈黙が、未だに引き伸ばされていた。二対の影は依然、その場から動かずにいた。
と、枝垂挫が机から降りた。
そして外周を歩き、数メートル先で向かい合って止まる。かと思うと、今度は明るい声をあげた。
「一日お疲れさま! えっと……瑞枝クン?」
口元に指をあて、頭上に疑問符を浮かべる。脳内のクラス名簿と写真でパズルでもしているのだろうか。
二年間も同じ空間で生活している相手の話である。分かりきった質問を投げかけられたと気づくのに、僕は数秒を要した。
一拍遅れて頷くと、「そっか、よかったっ」と枝垂挫が返す。
……それが、枝垂挫ゆいの声であるという実感は薄い。そも、聴き慣れていたわけでもあるまいに、僕は偉そうに珍しいなどと感想を抱いてしまう。でもそれも仕方ないことだろう、だって面と向かって名前を呼ばれたことなんて一度だってない。まして、仕事終わりに労いの言葉をかけられたことだって初めてだ。
グレーのカーディガンから伸びた細い指が、傍らの机をなぞる。人差し指の付け根に絆創膏が巻かれているのが印象的で、ひとつひとつの所作が気になってしまう。
「瑞枝くんは、こんな時間まで何してたの?」
首を傾げて、純粋に疑問に思ったことを訊いてきた。探りを入れるような気配はなく、「教えて!」と顔に書いてあった。
「図書委員の仕事、だけど」
「トショイイン……! どんなお仕事? 毎週してるの? 面白いっ?」
一歩、二歩と迫られ、思わず半歩後退してしまう。丸い瞳が困惑する自身の表情を映している。澄んだ水面を覗きこんでいるかのような錯覚にとらわれ、僕は強引に意識を引き戻した。
居住まいを正し、こほんと咳払いで平常心を保つ。
今までとまったく異なる雰囲気に調子が狂う。たしかに、以前と比べればとんでもなくスムーズに会話が運ぶ。でもこれはやりすぎじゃないか。距離感のメーターが壊れてしまっている。
周囲の人間が『枝垂挫ゆい』をおかしくしてしまったことが、とてつもなく罪なことに思えた。自分がその筆頭であることも許せなかった。もう一度面と向かって話すときは、いくら罵倒してもらってもかまわない。そんな覚悟で生きてきたというのに。
どうしてこうなる。どうしてそうなってしまう。
「ねぇ枝垂挫、いいかげんに取り繕うのは――いや、ああもう」
喉まで出かかった言葉を口にするのは、どうしてか憚れた。僕に説教する権利はないし、他人の生き方についてとやかく言えるほど偉くもない。そこまで考えついて、頭をかく。
結局、僕は図書委員の仕事について、馬鹿正直に説明してしまった。
終えると、彼女は「おぉ……!」と感嘆の声をあげた。まるで僕の受け答えが意外だったかのような反応である。
意外なのはあなたの方なんですが。なんて指摘をして良いものか分からず、開きかけた口を閉じる。
何を話すべきなのか、適切な話題はなんなのか、見当がつかない。そこで会話を済ませてさっさと帰ってしまえばいいのに、どうしてかそれが躊躇われる。僕は愚直に言葉をさがした。
依然として夕陽の色が視界を焼く。二人っきりの教室で、数秒間考え込んでも話題は見つからない。今の枝垂挫ほどペースの読めない相手はいない。頭は考えようと努力するも、答えを導き出せずにいた。
そんな折。
「そうだっ。お昼のときなんだけど、」
何事かをぶつぶつ呟いていた枝垂挫が、興味津々といった様子で空気を揺らした。手のひらを合わせ、思い出した風に言う。
「私のこと、見てなかった?」
……。
ぴしり、と硬直する。あんな些細な出来事を放課後に引っ張り出すなんて思ってもいなかったので、驚いて閉口してしまう。
「やっぱり! ずっと見てたよねっ。あれはどういうこと?」
枝垂挫は首を傾げた。怒っているとか不快だったとかではなく、純粋に気になっている様子だった。
とりあえず、咎める気はなさそうで安心する。
息を軽く整える。
彼女と話すのはやはり緊張する。相手の脳内が想像できない。以前の枝垂挫でさえ、何を考えているのかうかがい知れなかったというのに。
「あー、簡単に言うと、驚嘆? ほら、枝垂挫ってそんなカンジ全然なかったから、ちょっと意外で」
「そんな、カンジ? つまりギャップ……待って、私、まえにどこかで読んだ。確かきらきらした乙女チックな漫画だった気がする。ギャップモエ?」
また口元に指を当てて、何事かを連想する枝垂挫。
しばしの後、彼女は顔をあげた。表情は綺麗さっぱり忘れてしまったかのように晴れやかだった。
「まぁいっか。ともかく、瑞枝くんが言ってるのは、みんなが言ってるコトだよね。『可笑しくなった』! うん、私も私が変だと思う!」
「これでもオブラートに包んだつもりだったんだけど……まさか、他でもない枝垂挫が断言しちゃうとはね」
「個性って言うんでしょ? 私、個性って言葉すきだなぁ」
個性か否かはともかく、枝垂挫ゆいの変身には、本人も思うところがあるようだった。
それほどまでのイメージチェンジを決意させた何か。生き方を百八十度変えなくてはならないと覚悟を決めた
このクラスに漂っていた、彼女に対する憐れみの空気。
女王の親切心に見せかけたちょっかい。
玩具のように、見せ物のように、面白がる生徒たち。
きっとアレは本人にだって気づけるモノだった。であればそれを変えたいと願うのは当然であって、この異常もそれに起因するのかもしれない。
断言しよう。間違いなく起因している。でなければ、こんな人が変わったような変化は難しい。臆病という単語がピッタリな彼女が物怖じしない様は、中々に衝撃的で。それほどの破壊力を誇る今の枝垂挫は、それ相応のきっかけがあって然るべきなのだから。
きっと、彼女は追い詰められて追い詰められて、アクセルを踏み抜いてしまったのだ。あるいは、ブレーキが壊れたか。それとも、もっと致命的な部分が故障して使い物にならなくなったか。
狂ったまま、明るく話す彼女。痛々しささえ感じていたけれど、おかしくなっているという自覚を彼女自身が持っているのは、少しだけ安心した。まだ理性のようなものが残っていることが確認できただけで救われた気さえする。
などと、内心で胸を撫で下ろしていると、また枝垂挫が声をあげる。
「ねっ! 瑞枝くんって、友達多い?」
「……は?」
なんだいきなり。どういう意図の質問だろうかそれは。もしかして交友関係が絶望的なことを馬鹿にされてる? それだけは君に言われたくないけど。
しかし、枝垂挫は冷ややかな視線に構わず身を乗り出した。
「私、今日の三人のことなにも知らないの! だから教えてくださいっ」
今日の三人。その言葉が誰を指すのか、また理解に数秒を要した。十中八九、クラスの女王――可奈浦のことだろう。残りふたりは羽交い締めにした女子と機転を利かせてその場を納めた女子のことで間違いない。
「名前、わかる?」
そう言いつつ、彼女が取り出したのはメモ帳とボールペン。半ば問い詰めるかのごとく勢いに押され、宥めるような仕草でもう一歩後退。そして訝しげに目を細めた。
メモを取る。
クラスメイトの名前を。
唐突に行われようとしているその行為が、少し考えるととんでもなく異常なことに思えた。常日頃から物覚えが悪く、メモを取ることでカバーしている人間はいる。でも、枝垂挫は違う。今までそんな素振りは見せていなかった。成績が良いことを鑑みれば、記憶力などは高いはず。少なくとも僕よりは。何より、メモする内容が内容である。クラスメイトの名前なんて、そうそう忘れるものではない。普段から馬鹿にしてくる生徒の名前なら、嫌でも記憶に刻まれるものだ。
であるならば、なぜ彼女は名前など訊くのだろうか?
「――、ええと。可奈浦、
困惑を押し隠し、素直に答える。
枝垂挫はパッと顔を明るくすると、取り出したメモ帳に名前を書き込んでいた。怪訝そうに眺めていると、立て続けに次が飛んでくる。
「あの三人はいつもああいう感じなのっ?」
「まぁ、そうだね」
君に対してはいつもイヤな生徒だった。
「木下クンって人は? カナウラ……さんとはどういう関係?」
「片想いと彼女持ち」
そしてもう終わった関係。
「わかった! あ、それと。なんか今日一日、すごい視線を感じたのっ。私、どこが変だった?」
「どこって……ええと、全部?」
「なるほどっ」
立て続けに投げかけられる質問を、意図もわからず回答していく。枝垂挫はメモ帳にペンを走らせ、一心不乱に書き込んでいった。
その真剣さは授業中の比ではない。そこに全てを注ぎ込むように、詳細を訊いてはメモしていく。窓の向こうの喧噪、時計の針が刻む微音、そこへ乱暴なペン先の音が混ざる。あっという間にページは三ページ目へ突入した。
夕暮れの教室で、立ち尽くす自分の影が傾きを変えている。小柄な背丈の影もさらに小さくなっていた。
もうすぐ部活動の連中も片付け始める時刻だ。その前には終わらせたい。
しかし、目の前の彼女にやめる意思は見られない。それどころか、質問の内容はより熱を伴ってきている始末。僕は諦めつつも身を委ねていた。
しかし、とある問いかけを耳にした途端、一瞬だけ、呼吸を忘れる。
「瑞枝くんは前に私と話したことあった?」
「話した、こと……」
どうしてそんなことを訊くのだろう。そんな最も追求すべき疑問が、上書きされた。「僕はどう答えたらいいのだろう」と。
流れるように続いていた問答が、唐突に途切れた。首をかしげる枝垂挫の目が、返答を待つ。
話すべきか迷った。あの日の短い会話、たった一言の過ち。怪我を負わせた何気ない凶器のことを。
枝垂挫は覚えているだろうか。恨んでいないだろうか。孤立を悪化させたかもしれない僕を、責めないのだろうか。様々な疑問が脳内をぐるぐると回り、締め付ける。
「……? どうしたの?」
心配する表情で、視線を落とした僕の顔を覗きこんでくる。身体を曲げて。栗色の前髪がサラリと揺れるのが視界に入り、思わず口が先走る。
「僕は話したこと――」
思考が定まらないまま、答えてしまえともうひとりが囁いてくる。冷静さを取り戻すのはもうすこし後でいいから、と。
しかし僕は平静を装い、言葉を絞りだした。
「――ないよ。たぶん、今日が初めて」
すると。
「どうして嘘つくの?」
ぐさり、鈍く痛みが走る。
胸元を正義の剣で貫かれた感覚がした。
「もしかして忘れちゃった? じゃあ仲間だ! 私もよくわかんない!」
次いでこぼされた事実を反芻し、顔をあげた。
見開いた視線の先で、真っ直ぐな瞳は相変わらず僕を捉えていた。小さい口元には薄く笑みが浮かんでいて、虚を突かれてしまう。
未だに『枝垂挫ゆい』のことはわからない。でも、頭の中でひとつの仮説が組み立った。ソレはあまりにも理解の
――佇まいも違う、性格も口調も違う。
そこから記憶も差し引かれたのであれば、もはや君は別の存在。顔は以前と変わらないが、少なくとも僕にとっては知らない誰か。ひとたび「もしかしたら」と考え出したら止まらない。今の枝垂挫は、まるで中身がすり替わってしまったかのように感じられる。『人格は知性よりも重要だ』と、ひとりの思想家は言った。ならば、人格そのものに異常を来した枝垂挫ゆいの真実は、どれだけ重く深いものなのだろうか。
夕暮れの光が弱くなる。
教室にふたり、影の輪郭がぼやける。
僕は眉をひそめて意思を固めた。
震えたノドが真実を求める。確認しなければならない。たとえ僕の立てた仮説が、信じたくないほど残酷だとしても。
「君、もしかして──」
瞬間、物静かな校内を大きい音が響く。
踏み込もうとした言葉に被せて、下校のチャイムが鳴り響いた。ハッと振り向くと、時計の針はすでに六時を越えていた。
部活動に精を出していた生徒も片付けに入る時間だ。これ以上ここに居れば見回りにお叱りを受けてしまう。
「そうだっ! 瑞枝くん、一緒に帰らない?」
枝垂挫はお手本みたいな笑顔で、そう提案する。
まるで難しいことは何も考えていないようだった。自分の状況など些細なことだと割り切っている節があり、掘り返すのを躊躇ってしまう。
枝垂挫は自分のカバンを取ってきて、唖然とする僕に声をかけた。
「ほら、はやく行こう、瑞枝くんっ」
水面を想起させる純粋な瞳に笑いかけられ、僕は枝垂挫が怖く感じた。
今までにないくらい。
今まで以上に。
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