(3

 平手打ちのモーションが、きゅ、と上履きのゴムを鳴らす。

 渾身の一撃をお見舞いすべく振り上げられた手のひらが、空気を切った。

 多くの観客が呼吸を忘れた。いつ爆発するかわからない爆弾をまえに、結局身構えることもできない。良くて目を瞑るか肩をふるわせるのが関の山だろう。僕自身、反応することができず直視してしまう。それくらい、瞬きの間の出来事だった。

 女王の逆鱗に触れた。なら、この結果は当たり前。頭のネジをどこかへやった枝垂挫は、目の前にギロチンの刃が落ちてくる寸前まで微笑みを浮かべていた。それがさらに女王の怒りを逆撫でしているのは火を見るより明らかで、迫る衝撃への心構えが追いつかない。

 荒れる。

 ソレが決まれば、もう後は留まらない。

 きっとあの二人は取っ組み合いになり、もしくは枝垂挫が一方的に痛めつけられ、場は騒然となるに違いない。平穏な環境を強いられている学校でそれは致命的である。大問題に発展し、きっとしばらくは嫌な空気に晒される。

 なのに、僕は何も出来ず、ただ瞬間を凝視するばかりだった。

 顔を赤くした女王の、なりふり構ってられないとばかりに振り下ろす一撃。

 鋭く、重く。

 振り下ろされる。


「死ねよッ!」


 枝垂挫の頬を狙った手のひらは――しかし破裂音をもたらすことなく、不発に終わった。


「おわっ!?」


 直前まで生暖かい目を向けていた枝垂挫が、異変を感じ取り咄嗟とっさに仰け反った。イスの前脚を浮かせ、バランスを犠牲に手を避ける。驚いた枝垂挫の鼻先を爪がかすめた。

 が、今度はイスの後脚が滑る。体重を支えていた二本がバランスを失い、腰掛けていた枝垂挫は背中から転倒。

 ガタンッ――と大きな音が響く。

 机に膝がぶつかり、天板が激しく揺れる。

 枝垂挫は後頭部を強打した。


「いっ、たぁーっ! 何するのっ」

「チッ、マジあり得ないんだけど! 最低! クソが、本気で頭おかしいんじゃないの!? 精神科でも行けよ!」

「せ、せいしんか……?」


 女王は半泣きである。

 いくら我が儘さでカーストの上位に君臨していた彼女であっても、いち生徒であり人間。触れられたくない秘密はある。例えばコンプレックスだったり、例えば知られたくない趣味であったり、例えば誰かへの叶わない恋心であったり。

 それがあっけなくバラされたとなれば、怒り狂うのも至極当然の反応だった。


「殺してやるっ! おまえの裸写真ばらまいて二度と学校来れなくしてやるっ! 謝ってもゆるしてやんないからっ!」

「ちょ、ちょっと落ち着きなってアヤ、そろそろ先生くるし、ねっ」

「離してッ!」


 追い打ちで踏みつけようとする女王を、仲の良い友人が羽交い締めにし止める。それでも鼻息を荒くし、振り払おうと暴れていた女王――可奈浦かなうらあやかだが、もうひとりの心優しき友人に何事かを囁かれると、ふいにピタリと動きを止めた。

 そして、教室の後方で見ていたひとりの男子に目をやり、腫らした目を見開く。可奈浦はショックを受けた様子で、逃げるように教室から走り去っていった。

 後になって知った話だが、引き戸を勢いよく閉める衝撃音は、三つとなりのクラスまで聞こえていたらしい。


 教室に、再び沈黙が訪れる。

 注目は自然と、中央で倒れていた枝垂挫に向かう。


「いつつ……よいしょ、っと」


 頭をさすりながらいそいそと立ち上がり、机とイスの位置を戻す枝垂挫。

 そして小柄な背中が座り直す。まるでなにもなかったかのように。それどころか、カバンから取り出したノートに何かを書き始める始末。予習か何かだろうか。それとも、おかしくなった枝垂挫は落書きでもしているのだろうか。

 気になるが、席が近いわけでもないため確かめようはない。僕は読書にいそしむフリをして、横目で観察していた。


 ……周囲の注目が霧散する。

 いや、正確には束の間の収束を見せていた。皆、枝垂挫が変であることを奇妙に思っているようである。耳をすませば、そこかしこから「枝垂挫やばい」「やっぱあいつ狂ってる」「先生に伝えた方がいいかな」と聞こえてくる。大事件に発展する寸前で終わった出来事を、まるでひとつのイベントのように語り出す。耳に届く声には、枝垂挫の発言と態度を良く思わない意見がほとんどだった。

 それもこれもすべて、枝垂挫が狂ったせいだ。そう誰かが口にする。


 ――同感だ。

 確かに枝垂挫ゆいは可笑しくなった。

 まず、容姿に変化があった。亜麻色の長髪で、伸びきった前髪の隙間から瞳が覗いていたのに、今は肩口あたりでバッサリだ。現在はセミボブくらいの長さで、首後ろの毛先が少しだけ外に跳ね、以前の彼女らしさを消していた。

 次に授業態度。後ろ姿を見慣れた僕にとっては一目瞭然だった。まるで別人。背中を丸め、突っ伏すように授業を受けていた彼女はもういない。頬杖をつき、板書された内容を時折りメモしている。揃えていた足先も今は右足だけ前に投げ出し、おおらかさが見受けられる。常に閉じこもるような態度だった枝垂挫とは大違いだ。

 見れば見るほど行動には不可解な点が多かった。級友の運ぶ書類を半分持ってあげたり、けれど運ぶ先がわからなくて右往左往したり。教科書を忘れた生徒に自分のものを貸し出したり、代わりに自分が授業についていけなくなったり。他にも親切心ある行動が見受けられたけれど、皆気まずそうにして距離をおく。枝垂挫はその度に首を捻っていた。

 古文の授業では教師に指名された。しかし立ったはいいが歯切れが悪い。かつて成績上位者であった枝垂挫が教科書を睨んで口ごもる様は、どこかのコメディを見ている気分だった。

 お昼時にはとある女子ふたり組へお弁当を持って突撃。そして「一緒に食べないっ?」と提案し玉砕。とぼとぼと自分の席に戻ると、枝垂挫ゆいは盛大なため息を吐き、お弁当のフタをあけ食べ始めた。

 その拍子。


「(やべ)」


 ふと向けられた黒い瞳と目が合ってしまい、咄嗟に逸らした。

 皆が距離を置いているというのに。だれもが「関わらない方がいい」と結論を出したのに。たった一人、訝しげに見つめていたのが祟った。

 気になって仕方がないが、その日は彼女の方を向かないことを決める。すこしでも目が合えば、無邪気の矛先がこちらへ向きそうだったから。

 そのせいだろう。

 僕は、彼女が時たま視線をこちらに投げていたことに気づかなかった。

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