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枝垂挫ゆい──噂の中心人物は、決して知名度のある生徒ではない。
むしろ逆、つい昨日までは、存在感がなさ過ぎて悪目立ちしてしまっているほどの生徒だった。
趣味、不明。普段は本に没頭していることから推測では読書と思われる。
朝のホームルームでは直前に教室へ現れる。その空間にいる時間を極力減らしたいのか、わざわざ時間を見計らって着席している節がある。昼は基本一人。周囲が机をくっつけおしゃべりしていても、自分の席で背中を丸めている。お弁当がほとんどだけど、たまにコンビニのサンドイッチをモソモソしている。放課後になると真っ先に教室を出て行く。聞いたところによると週に一度、調理部として活動しているらしい。ここ
こう詳しいのは、彼女が斜め前方の席だからだ。決していつも観察しているストーカーなわけではなく。窓際後方から二番目の自分が黒板を見ると、どうしても数列先の視界に彼女の背中が入る。それが中学からの腐れ縁ともなれば、イヤでも彼女について詳しくなってしまう。
しかしそんな長い付き合いながら、僕は枝垂挫ゆいが話しているところを見たことがない。
いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれない。彼女だって授業で指名されればもちろん答えるし、委員長の呼びかけにだって応じる。でもプライベートな会話をしている姿を拝むことは高校二年になるまでついぞなかった。周囲で話題に挙がるのは、昨日公開された動画や配信開始した音楽、映画。芸能人ニュース……数えればキリが無いけれど。枝垂挫ゆいという生徒は、それこそそういった談笑空間と無縁そうに生きていた。
僕の覚えているかぎりでも、記憶している会話の様子は事務的なものばかりだ。それ以外となると……あまり気分の良いものはない。
以前の枝垂挫ゆいというと、いつもおどおどして縮こまっているイメージだった。存在感は薄いが常に単独でいるため、よくある「二人組つくって」が彼女を孤立させるたびに、奇異の視線に晒される。授業で指名されればボソボソと答え、そのたび先生に「聞こえませんよ」と注意され。委員のしごとについて相談を持ちかければ
正直、ちょっと浮いている感は否めない。
その様は生徒にとって面白おかしくもあったのだろう。度々、彼女は憐れみの対象として遊ばれているようだった。特に昼休みになると、その風潮は明確に現れる。
「枝垂挫さん、ちょっといーい?」
いつぞやの彼女は女王と手下ふたりに名を呼ばれ、びくりと肩を揺らした。
頼み事だったり担任からの伝言だったり要件はさまざまだが、話の内容に関せず枝垂挫は素直だ。相槌代わりに頷いて、小さく声をこぼす。挙動不審で視線は彷徨うし、手元は忙しなく手慰みをするけれど、なんとか会話は成立する。そんな程度。
それを、三人の女子グループはおもちゃにした。
「ね、お昼一緒に食べない?」
にこやかな女王からのお誘い。枝垂挫はいつものごとく目を丸くして、迷った挙句、
「は、はあ。え、えと……ぁ、い、いい、です。けど……」
流された。
昼の教室で繰り広げられた気まずい時間。投げかけられる三人組からの質問。取り乱した末、呟くような返答が返る。聞いていられないやり取りが何度も繰り返される。誘った三人組は同じ机を囲みながらも、返答がある度にひそひそと笑っていたのを覚えている。
……ここの校風は、孤立を良しとしない。
みんな仲良く、交友関係を広く持とう! などという綺麗事を第一としていた。ゆえに、枝垂挫は教師陣から腫れ物のような扱いを受けていたのだと思う。
結果、遠回しに助け舟が出された。
なんともありがた迷惑な話である。生徒を介して「あの子とも話してあげて」だとか「輪に入れてあげよう」などと働きかけるのは。大人の軽い善意が、彼女をより孤立させていく。気づいたときにはもう遅い。枝垂挫ゆいは皆から憐れみと嘲笑の対象となっていた。普通の交友関係のハードルは上がってしまった。クラスメイト三人組にわざわざ昼食を誘われたのも、そういった裏話があったらしい。
傍目から見て、気分の良いものではなかった。でも自分にどうこうできるかと問われれば首を横に振るしかない。傍観することしか、僕にはできなかった。
彼女は自分と似通っているところがあった。友人が少ないところ。基本的に単独行動なところ。その点で言えば、余り物同士仲良くできたかもしれない。でもそうはならなかった。中学から同じ場所に通っていても、ならなかった。
考えなかったわけじゃない。手を差し伸べて、ともに行動するという思い切った選択が浮かんだこともある。けれどそういうときは決まって頭の片隅に天秤が現れて、得られるモノと労力で傾きを量ってしまう。冷静な思考が「どうせ悪い方向にしか転ばない」と囁いてくる。仕舞い込んだ記憶が僕の肩を掴む。
「枝垂挫さん、いつもなに読んでるの?」
一度だけ、彼女に近づいたことがある。
当時の枝垂挫はすでに孤立しており、いつも彼女の席だけぽっかり穴が空いていた。僕からは視界の隅で燻る黒い煙のような空間に見えて、そこに潜む住人がどうしても気になったのだ。
だから、軽く話しかけてみた。一歩だけ、何なら片足の先だけ彼女の領域に踏み込んでみた。休み時間に入り浸る、本の世界を話題にして。
その行動が、ひどく残酷であることも知らずに。
「――ひっ」
忘れもしない。あの、茶色の前髪から覗かせた、気怠げな瞳。
焼き付いて離れない。ソレが見開かれ、恐怖と絶望を混ぜ込んだ瞬間。
僕の顔を見た直後、小さくか細い声で悲鳴が聞こえた。生まれて初めて耳にする、人の本能が発した音だった。
イスを引いて退く枝垂挫。
それは、単純に人が怖いというだけの顔色ではなかった。もっと別……そう、例えるなら。これから起こる世界の滅亡を予知してしまったような、とんでもないテロに巻き込まれて戦慄しているような、危機迫る反応。
僕はなにもしていない。ただ一言、挨拶くらいの感覚で話しかけただけだ。枝垂挫ゆいと会話したのは――会話と呼べるかは甚だ疑問だが――初めてだった。それでも、少しくらいはいいだろう。同じクラスで三年間一緒に過ごしていれば、一度くらいは言葉を交わすもの。業務連絡であれ、授業の一環であれ、初めて言葉を交わす瞬間は必ずやってくる。僕と枝垂挫は、たまたまそれが休み時間で、たまたま僕から話しかけただけである。
つまり僕の投げかけた質問は、ありふれた問いだったはず。
読んでいる本が気になったから、教えてほしい。何らおかしいことはない。別に睨みながら訊いたわけでもないし、強い口調にならないよう努力もした。枝垂挫の引っ込み思案な性格に最大限配慮したつもりだった。
それだけに、あの反応はわからなかった。本を抱えて逃げるように教室を出て行った枝垂挫が、どうして、何を恐れていたのか理解できなかった。何か大変なことをしでかしてしまったとすぐさま気づいた。直感が行動を間違えたと伝えていた。けれど、どうしても原因は不明で、どうしようもない。ただ『枝垂挫を怖がらせた』という結果だけが残った。
その日はもう何もできず、枝垂挫と話すことなく帰宅した。
――翌日、枝垂挫は欠席した。
「枝垂挫さんはケガをして入院しているそうなので、しばらくお休みです。皆さんも、休み時間や放課後の過度な運動には気をつけてください」
朝の時間に担任がそう口にした瞬間の衝撃は、計り知れなかった。
何がどうしてそうなったのかは想像できない。自分の与り知らないところで何が起こったのかなんて、恐ろしくて考えるのも怖い。
けれど。
彼女のケガと、昨日話しかけたときの反応が、どうしても切り離せなかった。
枝垂挫ゆいが予知し、恐れた結末。まるで僕が一石を投じてしまったかのような罪の意識。引き起こしてしまった、たった一度の間違い。
僕は今もなお、あの過去に苛まれている。
他人に踏み入ることの恐ろしさ、怖さ、危うさ――その記憶と具現こそが、枝垂挫ゆいという女の子になった。
不幸にも同じ三鏡高校に進学し、不幸にも同じクラスに配属されてしまい、不幸にもクラス替えという文化が存在しない校風。
日頃、枝垂挫を目にする度に脳裏をよぎる。考え無しの行動によって、人を傷つけた経験が。これはトラウマと言いかえてもいい。時おり自分の声が、忌むべき音色に聞こえてしまう。呼吸をするだけで、知らず誰かを傷つけているのではないかと不安になる。
隅で気配を押し殺している彼女に、世の中の目を背けたくなるような暗い部分が、凝縮している気がしていた。
――昨日までは。
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