第11話 文学特講2 正しい日本語とは?
有象はJR桜木町駅からほど近い、ドクターズビルのエレベーター入り口にいた。薄い黄緑色、萌葱色とでも言うのだろうか? に塗装されたビルはまだできて新しいようだ。一階から整形外科、小児科・内科、歯科、眼科と来て最上階が有象の目指す心療内科である。
心療内科は必ずといっていいほど予約制である。有象は内科なども全て予約制にすれば無駄な時間を過ごさずに済むと思うのだが。しかし、予約制の病院も所詮は金儲けだから、平気でダブルブッキングするらしい。らしいと言うのは学園の共同研究室で、経済学の烏兎日月がボヤいていたのを聴いたからである。烏兎は歯が悪くて子どもの頃から歯医者に通い続けているそうなのだが、まともに予約時間から治療されたことがないと言う。さらに「最近の駅前にある歯医者なんて全部ヤブですよ、有象教授」と嘆いていた。
「だいたい一つの駅の徒歩圏内に五軒も六軒の歯科医院があるなんておかしいですよね。コンビニよりも多いんですよ。日本の歯科大学はダメな歯科医を大量生産してこの世に無理くり送り出しているのです。これを見てください!」
そう言って口を大きく開いた烏兎の口中には歯がほとんど無かった。
それを見た有象は自分も大口を開けて見せた。ご同輩である。珍しく気が合った。
有象の場合、歯科医以外は長年付き合いがある各診療科のホームドクターが邸宅に二ヶ月に一度程度、往診に来るので病気とはほとんど無縁であったが、流石に『セックス依存症』で往診に来てくれる心療内科との付き合いは先祖代々なかったために困っていたところ、なぜか頼んでもいないのに諸葛純沙理事長が今のクリニックを紹介してくれた。
これは考えては絶対にいけないことではあるが、つい想像するだに有象は興奮してしまうのだ。あのクールビューティー純沙理事長の性生活はいったいどんなものだろう? まだ、二十六歳のしなやかなボディ。行為はやはり、鞭と蝋燭を用いた女王さま風ドSなのか? いや、案外と究極のツンデレだったりして。ああ、一度くらい理事長とお手合わせ願いたい。「純沙」などと耳元で囁いて責めてみたいなあ。などと夢想していたら、随分と高速でエレベーターは最上階に着いていた。
出来立ての白い壁が綺麗だ。しかし『チェリー・メンタルクリニック』という病院名はどうなんだろう? なんか卑猥なものを感じてしまうのは、有象にやましい心があるからだろうか、などと考えつつ受付に進む。
「うむむ!」
受付嬢がいつものショートカットの娘と違う。新人さんかしら? あの、ショートの娘は割とかわいかったのにな。一度くらいお誘いしたかったが、すでに関係を持ってしまっている院長の女精神科医の手前、遠慮しておいた。ここには治療に来ているのだ。ところで、あの娘は辞めてしまったのだろうか? なんだか惜しいことをした気になる。
「予約した、有象です」
新しい受付嬢にカードを出す。長いストレートの黒髪が美しい。瞬時に有象はショートの娘を忘れた。
「有象さま……うん? あれ? 有象のおじさん?」
急に黒髪の娘が顔を上げてニッコリと笑った。
「あっ! さ、櫻子ちゃん。な、なんでこんなところに……」
有象は動揺した。なんと、金持ち仲間のところの一人娘、妙蓮寺櫻子が受付にいたのだ!
「な、なぜ櫻子ちゃんどうして……」
「アルバイトですよ。わたしが医学部なのおじさんも知ってるでしょ?」
そうだった。櫻子ちゃんも、天熊総合学園大学の医学部の三年であった。一年の時は『文学特講』に出席していた。とてもかわいい娘だが、この娘の父親は裏社会にも通じている表社会の経営者である。それも、決してヤクザのフロント企業ではない。真っ当な企業グループのトップだ。だが有象は知っている。娘の父親は若い頃、横浜の老舗ヤクザのエリート組員で(なにせ、有名私立大の卒業だ)、組内で敵対する、本物の覚醒剤や売春に手を染めようと画策していた悪党派の首領をバーの店内にて片手で締め殺し、そのまますぐに自首して、裁判で全面的に非を認めてあっさり刑務所に入っていたのだ。相手が覚醒剤や売春に手を広げようとした上に、兄貴分を殺そうとしたのを制止する際のはずみだったことや(本当は激怒すると野獣になる男なのだが普段は大人しくてヤクザなのに清潔感があり、その態度に検事も判事も騙された? という噂だ)、刑務所では超模範囚だったので、本来暴力団構成員に仮釈放はないのに例外案件にてわずか五年で仮出所できた。その事件は父親が結婚するかなり前のことだから櫻子は全くその事を知らないし、バラしたらあいつに有象が殺されるのは確実だ。アッチの世界では日頃は温厚で少しトボけているのだが一度激怒したら、周囲にに生命反応がなくなると言われていまだに恐れられているらしい。ターミネーターかいな。
櫻子は若い頃かなり苦労した料理上手の母親にとても似ていて気が利くし頭もいいのだが、ちょっと意地っ張りな点だけが父親に似ている。そこが少し怖い。
「おじさん、なんでここに通ってるの?」
櫻子がカルテの準備をしながら訊ねて来る。
まさか『セックス依存症』とは言えない。病院には患者の守秘義務があるので両親には言わないだろうが、櫻子自体の有象に対する印象がとても悪くなる。それは嫌だ。
「う、鬱病なのかなあ。メランコリーかな? とにかく、気分が塞いでねえ」
思いっきり嘘をつくが簡単にバレる。
「おじさんみたいに他人のウチでパンツ一丁でサンバを踊れる人が鬱病なわけないよ。本当は躁病じゃないの? ああ、双極性障害と言うんだった」
櫻子ちゃん、不正解だよ。有象が思ったその時、
「有象さん、ウチの新しい受付嬢までナンパしないでね。さあ、診察室へどうぞ」
と女精神科医師、
「どう、薬は効いてる?」
美智子は訊ねた。
「いいや、全く。近頃は乱倫状態ですよ。もっと強い処方薬はないのですか? アメリカの性犯罪者が強制的に飲まされるようなのでいいのですがねえ」
有象はその手のドラッグの危険性を知らないようだ。勉強が足りない。
「あそこま強い処方薬は日本ではまだ承認されていないわ。あなたは確か『無精子症』だから外科的にパイプカットをしても意味がないし、本当は陰茎を切断しちゃうのが一番なんだけど、お手洗いとか不便になるし……それに、あんなに大きくて固いのを切るのはもったいないわ」
美智子がここで急に笑う。
「今日はゆっくりしていけるの?」
「いいや無理だよ。四時から講義があるので」
「休講にしちゃいなよ」
「今年は休講に対する規定が厳しくなったの。貴方のお知り合いの理事長から、キツいお仕置きがあるのだよ」
「純沙のお仕置きなんて、私のより緩いわ。なんて冗談よ。とりあえず、日本で処方できる最強の性欲減退薬を朝昼晩と就寝前に満量、十錠飲んで下さい。あとは補助的な薬として性欲がなくなる副作用のある精神安定剤をこれも満量を朝昼晩就寝前に五種類、各五錠ずつ出しますから。ああ、いっぺんに飲んで窒息しないでね。お水で少しずつ。これでも効果が出ないなら紹介状を出すので大学病院の『セックス依存症専門外来』の権威に診て貰って頂戴。たぶん、貴方の性欲は現代の医学では治せないかもね。神がかっているわ」
有象は急に嫌な予感がした。
「ところで紹介してくれるのはどこの大学病院ですか?」
美智子は大笑いしながら答えた。
「天熊総合学園大学医学部附属病院に決まっているわ」
落ち込んで、会計のために待合席に座った有象にさらなる悲劇が起こった。
「おじさん、じゃなくて有象さん」
櫻子が呼ぶ。
「お薬の確認をお願いしま……おじさん……噂には聞いていたけど、そんなにエロなの? 見た事ない処方薬。こんな処方薬、薬局にあるのかな?」
櫻子が引く。
「患者というか私の個人情報をもしもお父上に漏らしたら、櫻子ちゃんを拉致してエロエロ責めにしちゃうからね!」
有象は自棄になった。
「パパに殺されてもいいならわたしは構わないよ」
櫻子が哀れんだ表情で有象を見上げた。
午後四時十分過ぎ。
有象は大講堂の入り口を開けた。木曾義仲ではないが、
「今日はいつもより樫の扉が重い」
とボヤく。
すると、素早く矢が飛んで来た。
「理事長、本当に『木曽義仲の最期』みたいに殺そうとしないでください!」
有象が怒ると、
「有象先生は木曾義仲よりも哀れな最期を遂げるでしょう」
そう嫌味を言いながら理事長はスキップしながら行ってしまった。
「こんにちは。講義を始めます」
心臓の鼓動を悟られぬように有象は話し始めた。
「みなさんは文化庁の国語審議分科会をご存知ですか?」
学生の反応は鈍い。
「うーん、小説家や国語の先生を目指すきみたちには関心を持ってみていただきたい行政府の一つなのですがねえ。ああ、ちょっとごめんね」
有象は今になって先程の理事長の矢音の恐怖心が強くなり、猛烈に喉が渇いたので、途中休憩用のペットボトルを開けて飲んだ。
「先生、水分補給休憩にはまだ早いですよ!」
後ろの方で誰かがヤジり、講堂が爆笑の渦になる。
「なにを言うかね。私はロボットではない。人間です。人間というのはイレギュラー、ハプニング、不測の事態の連続でいつも思い通りに生きていたくてもできないものなのですよ。そういうことがわからないということは、今の発言者は人間がわかっていないと言う事です。ひいては自分自身がわかっていないということにもなります。要はお子ちゃまですよ。きみたちだってそうでしょう。いつもニコニコ元気でみんなと仲良くできているわけではないでしょう。病気でもないのにやる気が出ない、力が入らない。なんかイライラして家族や友だちに八つ当たりして関係修復に時間がかかったり、下手をすれば永遠の訣別だなんてこともあります。それはきみたちが人間であるという証拠であり、複雑な感情を持っていてその感情を必ずしも完璧にコントロールできないからです。だって、お釈迦さまだって完全にはコントロールできなかったらしいですよ。お釈迦さまは結局のところ『苦行は無駄である。ただ瞑想を楽しめば良い』と言っただけなの。極楽にはこうすれば行けるなどとは一言も発していないのです。それを後世の人たちが、ああだこうだと付け加えてお経を作ったり、仏像を彫ったり、立派なお寺を建立して、お釈迦さまを現実以上に持ち上げてしまったわけですよ。イエス・キリストだってだいたい似たようなものです。他の宗教については余計なこと言うと私が殺される危険性がありますからやめときます。ラシュディの『悪魔の歌』を訳した、筑波大学の教授でしたっけ? マジで殺されてしまったものね」
学生たちは有象の熱弁に当てられて静まってしまった。
「あっ、ごめん。この時間は『文学特講』でしたね。私もこれで短気なもので軽く見られると頭に血が昇ってしまうのです。もういい歳なので落ち着かないといけないのですが、申し訳ない」
有象は頭を下げたあと、また水を飲んだが、ヤジは上がらない。
「さて、先ほど話した文化庁の国語審議分科会なんですけどね、一年に一回くらいテレビのニュースに出るのです。それは日本人のことわざ・慣用句の誤用や若者言葉の調査結果などです。よくある例として、今日も真面目に講義に来ちゃってる野球部の期待の星、穂高くん。『情けは人の為ならず』とはどういう意味ですか?」
穂高岳くんは、有象に「講義に来なくてもA評価をあげる」と言われているのに何故か有象の講義が好きで毎回出席する、おそらく『文武両道』の学生なので
ある。
「はい。他人に情けを掛けるとその人のためにならないのでかけてはならないという意味だと思います」
穂高は答えた。
「うん、そう思っている人は多いと思います。ちょっと挙手してみて」
三分の二ほどの学生が手を挙げた。
「はーい、了解。最近の中高の国語教師はダメだねえ。答えはその逆です。他人に情けを掛けると周りまわって自分が困った時に誰かが情けを掛けてくれるから結局は自分のためになる。だから、情けは極力掛けなさいという意味です」
「へえー」
学生たちが思わず声を出した。
「ではねえ『破天荒』と聞いてどんな人を想像します? 赤西さんどう?」
有象は『赤毛のアン』こと
「ええと、ビートたけしさんとか横山やすしさんとか千鳥の大悟さんでしょうか?」
「おいおい、お笑い芸人ばっかりですね。でも、わかりますよ。大酒飲んで暴れるという雰囲気でしょう?」
「はい、そうです。すみません、わたしはお笑いが好きで」
頬が赤くなってかわいい赤西ちゃん。
「字面を見ればそう思いますね。でも正解は、前人未到の偉業を達成した人という意味です。ビートたけしさんなんかは映画の分野では破天荒ですけれど、講談社のFRIDAY編集部に殴り込みに行く行為は破天荒には当たらないのです」
それを聞いた、赤西ちゃんは顔全体が赤くなった。純情なのかネンネなのか? まあ、処女だなあと有象は妄想した。いけない、まだお薬を飲んでいなかった。
「まあ他にも、役不足、小春日和、潮時、煮詰まるなど間違えた意味で使っている言葉はたくさんあるようです。中には『生き様』のように『死に様』から来た誤用であった言葉が、世間に認知されてしまったために『広辞苑』に掲載されてしまった言葉もあります。私の講義に来てくれているみなさんには『生き様』なんて言葉は使わないでもらいたいものです」
ここで有象は本当の水分補給タイムをとった。
「ええと、それから特に小説家を目指す方たちにプロの作家でも間違えやすい言葉の一部をお教えしときます。みなさんは『全然、大丈夫です』『全く平気です』ということを日常会話で使っていませんか? けれども『全然』や『全く』の後には否定形の文章を入れるのがルールです。『全然問題ないです』や『全く関係ないです』という具合です。だから『全然OK!』って最近見かけなくなったおもしろハーフモデルさんは間違った日本語を使ってお金を稼いでいたのです。滝沢カレンさんの場合は、詩だと思ったほうがいいですね。意味が全然わからないから」
やや、ウケ。
「それと『〜たり』という言葉は、二回連続で使わなければなりません。『ひっくり返ったり、でんぐりかえったり』とね。これは本当に小説を読んでいるとプロでも一回しか使ってないのです。正確に日本語を使いたいなら気をつけましょう。ただ、私もまだ知らないルールがあると思うのですが良いテキストがなくって困っています。国文法の解説書を買うと、私の知りたいことと違う『〜活用』などが書いてあるので閉口してしまいます。そして最大の問題は……」
一拍おく。
「文化庁の国語審議分科会が『意味が通じればちょっとくらい間違っていてもいい』とかいう答申を出していることです。だったら、そんな分科会を税金使って開くことないじゃん! ということです。では、さようなら」
今日の講義はおしまいです。
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