第10話 日本史特講3 大王(天皇)とは神か?
『文学特講』を終えて大講堂を出た有象はわざとゆっくり歩いて希の現れるのを待っていたが、一向に現れる気配がないので、学内のカフェへと向かった。ここは券売機式の店なのだが有象は食券を買わない。そしてウェイトレスのおばちゃんに、
「こんにちは。いつものお願いします」
と笑顔で注文する。
「はーい、先生。でもさ、あんなのばっかり飲んでるとそのうち一気に太ってさあ、糖尿になるよ」
と、おばちゃんはニコニコとイヤミというか忠告をしてくれる。それに対して有象は、
「その時はその時さ。私は享楽主義者だから、どのみち早死にするから老後の病気まで心配しても無駄なんですよ」
などと言う。
「そういう先生みたいなことを言う人がヨボヨボになっても長生きしちゃうんだよ。先生は独身で今は使用人もやめさせて一人でしょ。誰も介護してくれないよ。はい、オーダー。有象スペシャル!」
「あいよー!」
キッチンから元気な声がする。
「そんな時は“お母さん”が介護してくださいよ。ここよりも結構いい賃金を出しますよ」
有象がおばちゃんに語りかける。敢えて“お母さん”と呼ぶところが、有象の心理テクニックだ。“おばちゃん”と呼ぶよりずっと身近に感じて貰えて、おばちゃんと親密になれる。有象の場合、中年以上の女性はどんなに高齢者でも“お母さん”、若くて美女に対しては名前を、そうでもない女性は苗字で呼ぶ。恋愛というか性欲プロフェッショナルの有象が女心を掴むテクニックの本を出せば間違いなくベストセラーになるのに、むかしの『芥川賞』作家のプライドがそれを許さないのか売れない小説しか書けないという心の楔となっているのだ。
「はい、お待ちどうさま。いっつもこれは重たいよ。先生、たまには自分で取り来てよ」
「ああ無理。私は筋力ないから」
おばちゃんが持って来たのは大ジョッキいっぱいのコーラの上にアイスクリームがてんこ盛りになった、まさにこれぞ『有象スペシャル』である。もちろん、他にこんなものを頼むとしたらギャル曽根かマックス鈴木くらいだろうが、券売機には当然『有象スペシャル』のボタンはない。大ジョッキのコーラだってない。だからギャル曽根もマックス鈴木も購入できない。これは有象が本学園に赴任して初めてこのカフェを訪れた時にマスターに頼みこんで特別に出して貰えるようにしたメニューにない商品だ。どうやら、以前いた大学の学食やカフェでも有象は一見の人柄の良さと金払いの良さで特別待遇されていたらしい。
その代わり、新年度の始まりの時に、マスターに一年分の料金にかなりの色をつけて前払いして、仕入れに支障が出ないように気を遣ってはいる。コロナの時のようにカフェをあまり利用できなくても返金など要求したりはしない。金持ち喧嘩せずだ。だから、マスターもおばちゃんも有象に愛想がいい。まあ、ちょっと現金な話ではあるけど。
その有象がアイスクリームと格闘していると、
「有象教授」
と有象の背後から女子学生の呼ぶ声がする。ちょっと鼻にかかった声で、明らかに希ではない。有象は振り向きもせず、
「きみ、他人の背後から近づくのは礼儀にかなわないよ。私の前の席にお座りなさい」
と優しく叱った。
「あっ、すみません」
女子学生が慌てて前方に周り、立ったまま挨拶しようとする。
「立っていることはないよ。急いでないならお座りなさい。なにかドリンクでも飲むかい。奢ってあげよう」
有象は片頬を上げて笑った。なぜなら女子学生がハーフ風の美女だったからである。内心はもうウキウキだが、今日は『LEON』風に決めているつもりなのでキザに徹しているのだ。しかし、見る人が見たら“北方謙三のモノマネ”にしか感じないであろう。ああ、別に作者は北方謙三先生をバカにしているわけではないのでご注意を。
女子学生は、
「自分のお金で買って来ます。それで、ちょっと教授に質問があります。お時間はありますか?」
と気の強そうな眉毛が覗く亜麻色の髪をさっと払いながら言った。
「時間ならいくらでもありますよ。でも、その前にきみの名前を訊きたくてうずうずしているのだがね」
有象が答える。最初に自分の氏名を明らかにするのも上位者に対しての礼儀だろう。ただし、有象が上位者に値するかはかなりの疑問ではあるが。
「ああ、たびたびすみません。ワタシは
おお、やはりハーフか。
「改めて教養学科教授の有象無蔵です。ソフィアさんでいいかな? きみ、これからはハーフなどと名乗らなくていいよ。もはや私的には人種とか民族などという千疋屋のフルーツパフェではなく線引きは無用だと思うのです。敢えて言えば地球人だね。まあ、宇宙人と地球人との子どもの場合はハーフと言って貰った方がいいかな? そんな人がいたら、すぐに地球防衛軍に連絡しなければならないよね」
有象、渾身のダブルジョーク! しかし、ソフィアは、
「券売機に行ってきます!」
と完全スルーして行ってしまった。フローラルな香りだけ残して。
「それで、質問とはどう言ったものでしょう?」
アイスカフェラテのSを持って戻って来たソフィアが着席すると、有象はおもむろに訊ねた。
「はい。前回の『日本史特講』で教授が仰った『邪馬台国など気に止めるほどのものではない』という発言です。教授の仰ることが本当なら、なぜ高校までの日本史の授業で必ず卑弥呼や邪馬台国のことを習うのかがわからないのです」
と、ソフィアは質問した。
「なるほどね。その質問はとても良いところを突いています。実はですね、次の『日本史特講』でお話ししようと思ったことにつながります。なので詳細は内緒にしますが、大まかに言うと『日本の建国神話』は誰が作ったのか? あるいは『日本というか倭国あるいはヤマト王権』の成立過程はなぜ、中華帝国の『国書』に記載されていないのか? というあたりがキーポイントになります。ソフィアさんはこの国の初代天皇あるいは大王を知っていますよね?」
今度は有象が質問をした。
「はい。神武天皇です」
ソフィアは即答した。
「うーん、確かに宮内庁が公式に発表している天皇系図ではそうなっていますね。では神武のお父さんは誰でしょう?」
「えっ、わかりません!」
ソフィアが戸惑った。
「そうですよね。高校の教科書にはそこまで書いていないのでしょう。正解は
有象はもったいぶった。
「その話と邪馬台国は繋がるのですか?」
ソフィアが不満げに言う。
「きみは邪馬台国をヤマト王権の先祖だと思ってるでしょ?」
有象がニヤリとする。
「違うのですか? だって、邪馬台国とヤマト王権ってほぼ、同じような音じゃないですか?」
ソフィアの白い顔が朱に染まる。気が強い証拠だ。こういう娘は案外と落としやすいのだ。
「そんなに簡単なことならわざわざ私の講義でやりませんよ。さあ、もしよかったら河岸を変えて静かなところでじっくり話しませんか?」
有象はちょっとジャブを入れてみた。
「ええ、受けて立ちます!」
ソフィアはたぶん日本人を多少軽蔑しているのだ。ならば、日本男児として半分仏蘭西娘をたぶらかしてやろう。
「じゃあ、行こう。ワインバーがいいかな?」
「えっ、ワタシまだ十九ですけど。でも明日が誕生日なのです」
「それはめでたい。そういう場合、日本では“前祝い”と言って保護者同伴なら三杯まではいいことになっているのだよ」
有象は大嘘を吐いて、ソフィアを立ち上がらせた。完全に犯罪行為だ。有象は希が現れなかったので、かなりフラストレーションが溜まっていたのだ。のちにわかるのだがソフィアはその両親の意向で日本でなくフランス国籍を取得しており、たまたまフランス時間ではこの日が二十歳だったのだが、ソフィア自身はなんとなく自分は日本国籍だと思い込んでおり、今日は未成年最後の日、つまりは誕生日の前日だから「まだ十九です」と有象に言ったのだった。ええ、すみません。有象を犯罪者にしないために作者が考えついた、なんとも虫がいい話なのだ。
有象は、希のことを考えてお泊まりはせずにワインバーで酔わせたソフィアを定宿の新横浜プリンスホテルに連れて行き、支配人に目配せして“休憩”をとり、ソフィアの肉体を堪能した。ああ念のため言っておくがソフィアは了解をきちんとえた上の和合であり、決して猥褻行為ではない。ただ、ソフィアを未成年だと知っているのに(勘違いだが)飲酒をさせたことに若干の後ろめたさを感じたためにいつもより主砲の攻撃力が弱かった気がして有象は物足りなさを感じながら、次の講義での再会を約束してソフィアと別れた。
有象が邸宅に帰ると希が夕食の支度をして待っていた。
「佐竹くん。今日の講義にいました?」
そう問うと希は、
「すみまっせん。お腹が痛くなって病院さ行ったのでお休みしますた」
と答える。
「寝ていなくて平気なの? 食事なんて無理に作らなくたっていいのだよ」
有象が気遣うと、
「お医者さんに、薬っこさ貰ったんで治りました。今は平気さです」
と言う。
「原因はなんだと医者は言ったの?」
まさか、妊娠したのではという恐ろしい考えが有象の脳裏をよぎる。しかし、
「はい。精神的なストレスだはんてお医者さんは言うてますた」
と希が答える。
「私のせいかなあ?」
有象は己の宿痾を反省する。希がいながら今日もソフィアという新顔と営んでしまった。
「ああ、それは違うです。たぶん、秋田の田舎から都会さ出てきて、カルチャーギャップにやられたんだと思います」
「佐竹くん。都会と言ったってここは横浜でも緑が多くて田圃もあるようなところだよ。全然都会とは言えない。本当の大都会である東京の中心部に学会や仕事で行くときは私だって緊張するよ」
有象が慰めにもならないことを言う。
「だども、ここと秋田では全然違うだす。あたすには都会暮らしは無理なのかなあ」
希の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「きみねえ、やっぱりここに来て住みなさい。一人暮らしでは寂しさで心身が病んでしまいそうで心配だよ。親御さんには私から連絡しよう。まさか、ご両親も私がセックス依存症のエロ教授とは思うまい」
有象は思わず希を抱きしめた。そしてそのままベッドへ誘う。
「まだ、夕食の支度が途中だわ」
希が言うが、
「構わない。IHは高温になると自動的に消える」
と有象は希の唇を唇でふさいだ。
さて、第三回目の『日本史特講』の講義だ。果たして有象はソフィア質問の答えをちゃんと持っているのだろうか?
希に有象は、
「私が途中で誰かに殺されない限り『日本史特講』と『文学特講』の単位はA評価であげるし、出席日数も誤魔化してあげるから他の一般教養の講義を無理せず頑張りなさい」
とやさしく言ってあげた。しかし、その内心は「鬼じゃなくてなまはげの居ぬ間に美女探し。ふふふ」という不埒な考えあっての策略だ。
「こんにちは。第三回目の講義を行います。今回の論題はデリケートかつ長い話になるかもしれませんので、次回まで続いてしまう可能性もありますので、許してください。まず、そこに座っている清山さんにお尋ねします。ああ、ただ答えたくなかったらパスしていいですよ。あなたはどの宗教を信仰していますか?」
ソフィアは笑いながら立ち上がって答えた。
「隠すことではないです、教授。ワタシはクリスチャン。それもカトリックです」
「ありがとう。フランスではカトリック信者が多いようですね」
「統計上の話だそうですけれど」
「そうなのですか。では次の質問。この世界や人類を創ったのはどちらさまですか?」
ソフィアは躊躇わずに答えた。
「バイブルによれば『ザ・クリエイター』です」
有象は満足そうに頷く。
「『ザ・クリエイター』、訳せば『造物主』ですね。六日で世界の全てや人類を創造し七日目に休息を取った。一週間を創った唯一神です」
「そうです」
「でもですねえ、ガイダンスの時に私は人類はサルが樹上から下りて、猿人、原人、新人となりアフリカ大陸から『グレートジャーニー』を行なって、陸続きだったシベリア・アラスカ間を超えて南北アメリカ大陸に達したと言うようなことを言いました。覚えていますか?」
有象はちょっとソフィアをいじめて楽しんでいる感じがする。
「ええと、宗教と歴史と自然人類学では現在、根本的に考え方が違うような気がします」
ソフィアが切り返した。
「素晴らしい回答です。視線を変えればモノの見方も変わると言うことですね。この講義は『日本史特講』ですから敢えてバイブルでの神話を否定することを清山さん、許してくださいね。信仰は心の拠り所として大切です。でも、今は歴史の真実を見てください」
「わかりました」
ソフィアは素直に頷いた。
「さて、今度はこの日本ですよ。たまには男子にも質問しましょう。ふふふ、隠れても無駄だよ。身長190センチ、体重110キロ。野球部期待の大型一塁手、
ウォーという声が上がり講堂右側の後列でデカイ身体を縮めていた高校通算300本塁打の記録を持つ穂高岳が“令和新山”ができたかというようにのっそりと立ち上がった。
「流石の迫力ですねえ。縮こまって隠れたって富士山が日本第二位の北岳になるくらいですよ。丸見えだ」
有象がからかう。
「すみません。勉強が苦手で……」
穂高が頬を真っ赤に染める。こいつはチェリーだな。
「きみはどこの出身でしたっけ?」
「み、宮崎県都城市です」
「そう。じゃあ、簡単な質問ですよ。日本の初代天皇は誰ですか?」
「は、はい。じ、神武天皇です」
穂高は答えた。
「結構、座っていいですよ。彼が答えた神武天皇が正解だと思う人は挙手してください」
ほぼ、全員が手を上げる。
「よろしい。宮内庁が公式ホームページに載せている『歴代天皇系図』ではその通りになっています。では、また質問です。初代神武天皇のご両親は誰ですか?」
教室がシーンとする中、ソフィアが挙手し、
「鶿草葺不合尊という神さまです」
と答えたので、教室に「おーっ!」と感嘆のウェーブが起きた。しかし有象は、
「私はご両親と訊ねたのですよ。父親だけでは五十点。母親は
「人間ですか?」
前列になぜか座っていた有象が勝手に『赤毛のアン』と呼んでいる
「最近の人がそう思うのも無理はないね。でもよく考えてごらんなさい。第二次世界大戦敗戦まで昭和天皇は『現人神』、要は神さまだったのですよ。昭和天皇が『人間宣言』をして初めて皇室の方々は人間になれたのです。今の高校までの授業では第二次世界大戦敗戦まで『天皇は神』という常識を教えることは忌避しますから、みなさんに混乱が生じるのです」
「ああー」という声が漏れる。それはそうだ。敗戦からもう何十年も経っている。有象だって戦後の生まれだから『天皇』を「日本の象徴」かつ「選挙権も政治発言もできず、ただただ政府や宮内庁に言われるまま働かされているかわいそうな方」としか見ていない。極右の一部の人々以外はだいたい同じ思いではないだろうか?
ここで、有象の脳内は脱線する。中華の皇帝は天が徳の在るものをその座に就け、徳がなくなれば他の者が皇帝位を奪い、前皇帝の一族を皆殺しにしていい事になっている。これを『易姓革命』と言う。
ところが日本では(建前上なのだが)天皇家が万世一系と言って天照大神の男系の天孫が今日まで連綿と続いている事になっている。藤原道長も平清盛も源頼朝も北条義時も足利尊氏も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も天皇家を襲わなかった。
例外は蘇我入鹿、平将門、足利義満の三名。入鹿は実質天皇の座を奪っていた可能性もあるが中大兄皇子らに暗殺され、将門は日本史上唯一、天皇家以外で皇帝(新皇)を名乗ったが勢力範囲は坂東のみで最期は平貞盛と藤原秀郷に滅ぼされた。義満は本人でなく愛息の末子、足利義嗣を天皇にしようとしたが嫡男・義持が反対し、義満を(おそらく)誰かが暗殺し、義持は邪魔になった義嗣を謀反の罪(言いがかり)で首級を刎ねた。長い歴史の中でたった三人しか天皇位の簒奪を図らなかったのはやはり天皇が『神』だからであろう。中華の皇帝は『天』から統治を委託された者に過ぎないから滅びるのである。
「教授、どうしたんですか? 乾電池切れですか?」
ソフィアに呼びかけられて、有象は真面目な思考から蘇った。
「なにをや言わんか。私は太陽電池で動いているので大丈夫。ただし、水分が切れました。補給タイム! みなさんもどうぞ」
有象はお馴染みの2リットルペットボトルの水を飲み出した。学生たちも慣れて来たので各自水分を補給する。有象はふと、穂高くんは自分と同じくらいの量を飲むのではと目を彼の方へやったが、一番小さなサーモスで湯気の立つものを飲んでいる。
「穂高くん、きみはなにを飲んでるのかね?」
有象が訊ねると、
「は、はい。ドクダミ茶です。健康に良いってばっちゃんが言ってたので」
と答えた。
「へえ、天国のばっちゃんも喜んでいるでしょうね」
有象がしんみりすると、
「せ、先生。ばっちゃん、99才でまだピンピン生きとるです!」
有象はかなり狼狽し、学生たちは大笑いした。
気を取り直して。
「さて、講義時間も少なくなりましたので、核心は次回に回しますが、来週まで考えておいてください。『天皇は神の末裔か、人間か?』『天皇を神と崇めることでどういう利点があるか?』の二点です。ではおしまいです。さようなら」
有象はとっとと講堂を出て行った。
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