第9話 文学特講1 文学は趣味の一環ではないの?

 翌朝、新横浜プリンスホテルの最上階で目を覚ました有象はシャワーを浴びて疲労と気だるさを流し落とそうとしていた。ところが公枝が裸体でシャワー室に一緒に入って来てしまい、有象は朝からまたもムラムラしてしまい、心のビーストが激しく咆哮してしまった。君江は身長が165センチで痩せ型、ロングの黒髪が美しい。なにか京都の娘だけに宮中で貴族の姫君と秘め事をしている気分になり、有象は「今日の講義は『源氏物語』にしようかな」などと考えている。古文は苦手なはずなのだが……


 元来、みすず書房の『太宰治 滑稽小説集』をテキストにして、ただ学生に輪読させるという手抜き講義をしていた有象だが、数年前にその肝心のテキストが版元品切れになって使えなくなってしまってから、国文学科の教授でありながら有象は自分の講義のテキストやカリキュラムに頭を悩ませていた。

 普通の大学教授は自分が執筆した書籍を教科書にして、毎年春先に一儲けするものだが、小説を書き出して以降、有象の文体がどうも「軽く」なりすぎてしまい、大学の講義には相応しくないと自分でも感じたので、人文科学系の書籍の老舗出版社である、みすず書房の書籍をなんの承諾もなく使用していたのだが、作者の太宰は玉川上水でとっくに情死しているし、編者の木田元先生も先年に亡くなってしまった。木田先生の本職は哲学なので、有象は先生の著作を実は一冊も読んではいないのだが、木田先生も有象と同様にかなりのミステリーファンで有象が好きな故・北森鴻氏やまだまだ元気に執筆しておられる逢坂剛氏らの文庫に解説を書かれていて「ああ、木田先生と私は好みが合うなあ」などと思っていたが結局は同じアカデミアにいながら一度もお会いできなかったのはとても残念なことである。


 さて、二人でホテルを出て公枝に一万円札を渡してタクシーで送り出し、有象も一人タクシーで邸宅に戻った。今日の『文学特講』も理事長のお計らいで五限目だ。昨晩は「眠らせないぞ〜」と公枝の若い肢体の急所や勘所を責め続けたので、有象は完徹である。四十過ぎの肉体には少々ツラい。出勤時間の直前までゆっくり眠ろうと思った。しかし……


「先生、おがえりなっさい。お食事作ってありまっす」

 と希がニコニコとして待っていた。あれれ、まだ彼女には合鍵を渡していないはずなのだが? 訊ねてみると、

「んだ。早朝、ばっちゃのヘルパーさんと一緒に入っただよ」

 と言うお返事。希よお主、なかなかの策士よの、なんて思っている場合か!

「で、ヘルパーさんは?」

「はい、ゴミ捨てだけ、おねげえして今日は早上がりでっす」

「ああ、そう」

 希はかなり頭の良い人間なのだと有象はある意味で不安と恐怖を感じた。なぜか、理事長の顔がチラつく。そして女囚さそりの前妻の顔も。

「先生、昨日は公枝ちゃんとお愉すみだったろ。だかんで精のつくもんをたんと作っと来ますたから、残さず食べてくださいね!」

 うっ、昨晩の自分のおイタが完全にバレている。さては後ろをつけて来たのだろうか? なのにその場に現れて揉め事を起こさず、今朝になってこの邸で平然とした態度を取ることで自分をメンタル責めにするのか。これぞ『真綿で首を絞められる』状況と言うのだろうな。いい日本語の実践勉強になる。

「希くん、悪いが私はとても眠いんだ。食事は後できちんといただくからね。それに、勝手に他人の家に入ってはいけないよ。お巡りさんに怒られる」

 有象が言うと、

「先生、わだすたち、もはや他人ではないよ! それはわかっとるよな?」

 と逆襲された。

「ああ、そ、そうだったね。あのさ、あそこの戸棚の上にある“九十九茄子”に合鍵がいっぱい入っているから、一つでも二つでも好きなだけ持っていきなさい。きみも今日の『文学特講』を履修しているでしょ? 五限目にまた会おうね。今日は一番前の席に座りなさい。昨日はきみが最後尾にいるものから、他の女子学生が寄って来てしまうんだぞ。私の身体からはどうも若い女性を惹き寄せるフェロモンのようなものが出ているらしいからね。いいや、決して加齢臭ではないよ、それは絶対。それに今度、メンタルクリニックで性欲をもっと抑える強い薬を処方して貰うからさ」

 とは言ったものの、そんな都合のいい薬があるのだろうか?

「はい。了解だす。でも先生、我慢はよくねえ。ヤリたい時はどんどんヤレばええよ。先生はそういうご病気なんだし『無精子症』だから赤子は生まれぬ。後腐れがねがなくて、ええさ。じゃば、食事はレンチンして食べてな。でば」

 希はルンルンと出て行った。有象はその行き過ぎた純朴ぶりに感動しつつ、疲労困憊ですぐにベッドに飛び込んで寝た。


 目覚ましをかけるのを忘れたが、有象は予定時刻に起床した。昨夜のような深夜に適度な男女混合二人組体操で貫徹することはむかしから、しょっちゅうある事なので身体が慣れているのだ。

 まず、水を飲んで今朝、希の作って行った料理を食べる。希は「レンチンして」と言っていたが、有象は面倒くさいので温めずに冷たいまま食べてしまった。

「うぬ、美味しい……」

 脱帽の腕前である。出来立てだったらもっと美味しかったことだろう。惜しいことをした。


 あまりに味わって希の料理を食べてしまったので、出勤の時間が押してきた。慌てて洗面所に向かう。鏡を見るなり、

「ああ、目が腫れぼったい」

 有象はボヤいた。これはイケメン中年教授としてはいただけない。今日は少し色のついたメガネを掛けよう。

「髭か。なんか剃るの面倒だな。よし!」

 有象は今日の自分を雑誌『LEON』の表紙のような「ちょい不良わるオヤジ」の線でいこうと考えた。格好良く生んでくれたマミーに感謝だ。


 共同研究室に入ったのはタイムカードギリギリだった。サングラスのせいで前がよく見えなかったのだ。それならばサングラスを外せばいいだけのことなのだけれども、下校のために坂道を下りて来る女子学生たちに、自分の腫れぼったい目は見せたくない。それが有象の矜持だ。

 研究室に入った途端、生物学の城戸円子が、

「有象先生! イタリア人みた〜い。ステキ!」

 と喚声を挙げた。

「そうかな?」

 城戸のようなオールドでファニーなパーソンには全く興味のない有象はそっけない。

「私はパスポートを持っていないのでね、イタリア人はパンチッタ・タローイモしか知らないな」

「有象先生、外国に行った事ないんですか?」

 経済学の烏兎日月が訊いて来る。

「ああ、私は飛行機が怖くて乗ることができない。だからパスポートも不要なのだよ」

「お金持ちなのにもったいないなあ」

「私はね、我が家のそれもベッドの上で眠くなるまで読書ができればそれでいいんだ」

 有象がつぶやくと烏兎が、

「女性の涙やなにかの跡がたくさんあるベッドですね!」

 と有象を下品にからかった。烏兎のようなガキとは付き合いきれないと思った有象は、

「その通りです〜!」

 と言いつつ大講堂に向かった。

「マジ……だよなあ。有象先生ってモテ過ぎるから……」

 モテない三十代、烏兎はかなり落ち込んだ。


 さて、有象はいつも通り始業十分後に教室に入る。また、大講堂だ。「重い樫の扉をなんとかしてほしい」と総務部から理事長に伝えてくれるように頼んでいたのだが「あれが開けられなくなったら有象先生の学園生活も終わりね」というメールが理事長から直接返って来た。本当に冷たくて非常な女だ。むかし『ゼロ度の女』という外文が新宿書房から出ていたが、理事長は「バナナで釘が打てるくらいの『液体窒素の女』」だとボヤく。


「よっこらしょ」この扉を開けるときは声も出ますなあ。だって中年だもの。


「こんにちは。担当の有象です。この講義は一般教養科目ですから、いろいろな方面のプロフェッショナルを目指している『青雲の志』を持たれた方々、いいやお線香じゃないですよ。きみは『笑点』の見過ぎだなあ。そうだ、いきなり脱線しますがね。『大喜利』を落語だと思ってはいけませんよ。確か、土曜か日曜の早朝だったかなあ、お昼過ぎだったかな? 公共放送や首都テレビで『古典落語』の番組をやっていますからそちらを観てご覧なさい。きっと、きみたちにはつまらないと思いますよ。でもそれが本来の『落語』なのです。『古典落語』の噺のシチュエーションは江戸時代の比較的安定していた時期が主ですから、きみたちの知らない仕来たりや花街など現存しない場所、それに生活様式が現在とは全く違いますから初見では戸惑うだけですね。ああ、いわゆる『大喜利』というのは本来は、寄席で時間が余った時に酔狂でやるファンサービスで単なる駄洒落の応酬です。『笑点』なんてまさにそうでしょ? それにあの番組って構成作家がいるから、噺家たちは事前に問題もヘタをすれば回答も知っているから即興でもなんでもないの。なのに開始当初は斬新だったからとても人気のある番組になって、今では御長寿定番番組になってしまってねえ、あの番組のレギュラーになると仕事量が増えるし、地方公演などのギャラが格段に上がるそうです。だから、向かって左側の年寄り三人は半分ボケているのに辞めないんですよ」


「わははは」

 満員の大講堂に笑いが起きた。やはり、有象のホームタウンは「文学」なのだ。なんか違うか。


「それで、先ほど『古典落語』はつまらないと私は言いましたが、これはテレビでの話で、実際に『寄席』に行って観ると、味わいが違います。落語は喋りだけではないのです。良い噺家は一人で何役もこなします。女性の役、それも姫様から老婆まで演じ分けられます。それに男だって殿さまから与太郎まで演じられます。使える小道具は扇子と手ぬぐいだけですから、外国の方が観ると『日本にしかない独特の演芸』だと、とても驚くそうです。一切喋らないで身体で全てを表現するパントマイムとも違いますからね。ただし、私は滅多に寄席には行きません。実は『寄席』は『定席』とも言い、格があるので『落語協会』と『落語芸術協会』に所属している噺家しか出演できないのです。ところが我が有象家は祖父の代から『萬願亭一門』という独立系亭号の噺家一門が贔屓でして、ここはもちろん『寄席』には出られないので主に『横浜わいわい座』で月一で一門会をやっています。ただ、名人だった九代目萬願亭苦楽師匠が老衰で亡くなり、総帥が末弟子の萬願亭槌楽になってから芸が下手くそになってしまい、通うのやめようかと思っていたところだったのですが、突如、若くして天才と呼ばれた伝説の噺家・萬願亭道楽の息子・萬願亭洒落が颯爽と登場してきて現在、絶好調。他の一門の重鎮たちまでもが公認して、まだ二十代半ばで真打になっちゃったんです。もしよかったら、講義の一環として『わいわい座』にみんなで行きますか? チケット代くらい出せますけれど、あそこは三階席まで含めて七百席くらいなのです。みなさん、できれば一階席で観たいですよね。そうすると二百席くらいなので、仮に全員行くとなるとふたコマで八百名だから四回に分けなきゃなりませんね……なんか面倒ですな。やっぱり、興味のある方は各自で行ってください!」


「ブーッ!」

 今度は行動中にブーイングの嵐だ。しかし、有象は『馬耳東風』である。


「さて、ようやく本題です。今までの話は落語で言う『マクラ』でして、客席じゃあなくて学生のみなさんの気持ちを暖めるための前フリです」


「へえー」「なんだそりゃあ」「ずっとマクラでもいいのに」

 と様々な声が上がる。


「ええと、この授業は『一般教養』ですから単位が取りやすいという都市伝説に引っかかった理系志望の学生さんが多いと思うのですが、どれくらいいらっしゃるのかな? 挙手願いまーす」


『はーい!!』


「おお、結構いますね。きみたちの中には『自分、理数系ですから。文学関係ないっす』という気持ちの人もいると思いますが、はっきり言ってしまえば、そういう人は将来落第しますね。あなた方、将来研究者になって論文を書くときに、最初から『英語脳』で文章を綴るのですか? それならばいいのですが、大抵の人は日本語で考えた文章を英語に変換するのではないですか? 論文を書くときに日本語の格好がいい言い回しを英語ではどうやって表現すればいいのだろうかと考えるためにも文学を学んでおくのが良いと私は考えます。さらにですよ、教授などになれば理数系の書籍を出版するために日本語で執筆しなくてはなりません。私は逆に理数系は全くダメな男……誰かな? 私生活もダメな男と言ったのは! まあ、その通りですよ」


『ワハハハ!』学生、大爆笑。


「気を落とさずに続けます。文系オンリーの私ですが仕事上の必要でサイエンスの専門書を読むことがあります。そうして思うことは『きみたちの先達は日本語の勉強をおざなりにして来たな』と思うのです。つまり、読みづらくて眠くなってくるのですよ。バカ高い専門書より新書やときには小学生向けの図鑑の方が理解できる時もあります。これは事実です。なので、理数系を志す学生のみなさんにも文学に触れて『語彙』を増やしてほしいです。売れっ子の小説家にも理系出身者やお医者さんだっています。日本語を疎かにしないでほしいと願います」


 ここで、有象の水分補給タイム。初見の学生たちはその豪快な飲みっぷりに、驚愕する。でも、次回からは皆が慣れて自分たちも飲み物を持ってくるようになるのだ。


「さて、続けます。ええと、この中に将来は小説家や出版業界に進みたいと言う人はいますか?」


『はーい』


「ああ、まずまずの数ですね。しかしこれは忠告ですが、ここにいる皆さんの中で小説だけで食べていける人はいても一人でしょうね。仮に何かの文学賞を獲ったとしても次、次と自転車操業でクオリティーの高い作品を世に出さなければ、すぐに業界から捨てられますよ。だって代わりは幾らでもいるんですから。出版社の編集者だってそう。編集者は作家以上に斬新なアイデアを持っていて、時に作家にアドバイスできなければ存在価値はありません。私は言葉に精通して『校正係』になるのが一番いいと思いますよ。そのためには『広辞苑』を暗記するくらいの努力や諸外国語も覚えなきゃダメですけどね。だって、作家がフランス語の諺やジョークを使ったときにそれの意味がわからないと『なんだこの意味のわからん言葉は』なんて思ってゲラに赤を入れたら、作家が怒っちゃうでしょ? 小説世界は予想以上に厳しいもんです。宇宙飛行士になるくらいだと思って精進するか、あくまでも趣味として書くことだね。運が良ければタウン誌に掲載されるかもしれません」


 有象はかなり辛辣に言った。獅子は我が子を千仞の谷に突き落とすという気分だった。


「では国語の教諭になりたい人は?」


『はい』


「あれ、だいぶ少ないですねえ。私に言わせて貰えば、教員試験の『国語科』を受けて公立の中学や高校の教諭になるのが一番堅実な道だと思うのですが?」


「先生!」

 座席の中ほどにいたお眼鏡さんでそばかすさんだけどなんとなくかわいらしい『赤毛のアン』のような学生が挙手した。

「先生は現在の公立中学や高等学校の教師たちの苦労をご存知ないのですか? みなさん、事務仕事や部活動の顧問などをサービス残業、休日出勤でやられていて疲労困憊なのです。そしてメンタルをやられて鬱病になったり、猥褻行為に走っているのです。そのことをニュース等で知ってしまえば、教師になんかになりたくなくなります」


「えっ、そうなんだ……申し訳ありません。私は新聞も読まず、テレビニュースも観ないし、インターネットも頓珍漢な者ですからそういう現実を知りませんでした。社会勉強が不足していました。反省します。ただね……」


 なぜか有象はサングラスを外し『赤毛のアン』の目を見て話しだした。


「きみは教師という仕事を、例えは悪いけれど『九時から十七時まで』のサラリーパーソンと一緒にしていませんか? 『職業に貴賎はない』けれど、教師というお仕事は一般会社員とは社会的責任の重さが違う『生徒を正しい道に教え導く』とても崇高な職業ではないでしょうか? その仕事に就くためには『一所懸命』生命を捧げるくらいの覚悟がなければ勤まりません。残業がどうだの部活がああだのといろいろ不満があるならば初めから違う職業に就けばいい。最近は中途半端な心構えの教師が多いから学校が荒れるし、いじめや不登校の生徒が増えるのではないでしょうか? そうすると可哀想なのは思春期にその程度の教師にしか出会えない子どもたちではないでしょうか? きみがどの道を進むのかは知りませんが、どの道に行くにしても大きな『覚悟』は持っていた方がいいでしょうね」


『赤毛のアン』は黒目を大きくして席に座った。有象がこんなに真面目なことを言うと思わなくて面食らっているようだ。


「あっ、いけない。無駄話で講義が終わっちゃったね。ゴメンゴメン。では、さようなら」

 有象は逃げるように講堂を出て行った。


 

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