第7話 出羽国から来た美人さん

 有象無蔵は横浜・野毛にある行きつけの小粋なバーにいた。


 ここは週末になるとロックバンドなどのライブが行われるらしいが、ミュージックには頓珍漢で門外漢な有象はライブがなくて空いている平日にしか来店しない。だいたい野毛と言えば、どちらかというと大衆呑み屋街といった趣きがあるので、下町風情が苦手な有象が本来ならば訪れるべきところではないのだが、三年くらい前に旧知の友で元プロ野球・横浜マリンズ監督の風花涼かざはなすずしと、その二十五歳年下の愛妻で現在、首都テレビの美人ハーフアナウンサーでもある風花マグの二人に誘われて連れて来られたのが野毛のこの店『KOHHY』であった。

 マスターの公平氏はギタリストとして超有名らしいのだが、有象も風花元監督も全然知らない世界の人なので、熱狂的なロックファンで洋楽・邦楽を聴きまくり、自らもエレキギターを弾きこなすマグ夫人がいなかったら二人ともここは永遠に関わりのない世界だったであろう。

 だが、ここのマスターは温厚でしかも口数が少なくて変なことを訊かないし、もっといいことに口が固いので、脛が傷だらけの有象的にはたいへん居心地が良い上、酒やつまみの種類がとても豊富なので風花夫妻に誘われて以来出不精、大食嫌いの有象にしては珍しく一人でもよく来るし、例の美人精神科医やちょっと上手くいきそうな若い女性と知り合うと必ずここに連れて来ることにしている。

 やはり、この店の一番いいところはマスターが有象の顔を見るなり「あれ、今日はお連れの女性がいつもと違いますねえ。あっ、こりゃ失礼。わははは」などという後で血を見るようなことは絶対に言わないところである。万が一、マスターが有象の過去に連れてきた女性たちの名前を言い出し始めたらたら二日くらい完徹することになるだろう。最近、あの女精神科医の処方している薬の効き目が薄くなって来ているようで、有象の色欲と絶倫が戻りつつある。それがいいことなのか悪いことなのか有象本人にもわからない。


 その証拠に今晩、連れて来たのはもちろん前回の『日本史特講』のガイダンスで、有象がバストのカップを訊いたら、ごく素直に「Bです」と言った容姿のいい女性新入学生である。

 すでに、学園内のカフェでは昼食やお茶をして何度か会っているので、プロフィールなどは詳細に知り尽くしている。有象は話し上手であるが、それ以上に聞き上手でもあるのだ。時々、自分が神奈川県警の捜査一課の刑事になっていたら『落としの無蔵』とあだ名されていたのではないかと妄想する時がある。


 ご紹介が遅れた。有象の横に座るまだ若い彼女の名前は佐竹希さたけのぞみ。秋田県出身の二十歳。一浪をしての入学だそうである。

 その一浪の理由が、あまりゲラゲラと笑っては失礼なのだが実に可笑しいエピソードで、昨年の冬に受験のために上京する日の朝、希が二重扉の内側を開いた時に、室内で飼っているペットの秋田犬“ぐるまん”くん(オス・五歳)が希がここからいなくなると気づきとっても寂しかったらしくて突然背後から襲いかかって来たのだという。“ぐるまん”くん(オス・五歳)にとっては単なる愛情表現だったのだろうが、彼は体重120キロの超大型肥満秋田犬で、性格は甘えん坊さんだがその一方で凶暴かつ体重と筋肉をフル活動させた時の短距離での突進力が恐ろしいほど強い。その“茶色い弾丸”に思いっきり背中へと不意に突撃された希は風除け扉に顔面から思いっきり突っ込んで頭部を大きく裂傷して大出血。さらに両肘、両膝、背中を強打したうえに右肘完全脱臼、右肩甲骨骨折、頚椎捻挫と全身に無数の大怪我を負い、気絶してしまって動揺した家族の連絡によりやって来た救急車で病院に緊急搬送。入試どころか約四ヶ月の入院生活を送るハメになったのだそうだ。当然、昨年の大学受験は断念せざるを得なかった。


 しかし、幸いにもその秋田美人特有の白くて美しいお顔は無傷だったのか、あるいは形成外科の先生の腕が抜群に良かったのかは知らないが、現在は問題なくとても綺麗である。ここ最近の『有象ランキング』ではトップクラスだ。

 今年の上京の際には家族会議で『“ぐるまん”くん(オス・六歳)引き留め大作戦』を立案して“ぐるまん”くん(オス・六歳)の室内にある犬舎近くに若いメスの秋田犬“めりいちゃん”(三歳)をあてがい、そちらに気を惹かれて“ぐるまん”くん(オス・六歳になりました)が十分に発情しているうちにササっと逃げるように家を出発して秋田新幹線に乗り、無事に横浜までやって来られたという顛末だという。そういう犬は庭で買えばいいのにと有象は思った。でも、秋田県は寒いところだからねえ。


 しかも有象的にはとても喜ばしいことに希は、この現代の日本では稀有な存在というよりほぼ絶滅種であるともいえる、小説家・有象無蔵のマニアックなほどの大ファンであり、もはや全ての出版社で絶版にされている有象の単行本や文庫本を東北中の古書店を訪ね歩いたりインターネットで探したりして、だいたいを二束三文で(!)購入し、それを何度も何度も中学生の頃から愛読して来たそうだ。

 その憧れの有象が行う講義を受けたいがためにわざわざ地元の秋田大学ではなくて天熊総合学園大学を受験したという。

 入試面接の際、以前ご紹介した暴悪な面接官連中を一見して希はものすごく恐ろしくなり戦慄のあまり完全に自分を見失ってしまい「有象先生の大ファンなのです」と言えなかったのですと有象の前で後悔の泣き顔を見せたが、有象に言わせてみれば、もしもその時に「有象の小説が好き」なんて希が口にしていたならば、あの冷徹非情な諸葛純沙理事長は絶対に「この娘は脳みその出来がとても異常で、しかもかなりの変態です」と不合格にしていたであろう。災転じて福となすだ。おかげで春から縁起がいい。そう、有象は思った。


「先生、今晩は美味しい天ぷらをご馳走になってありがとうごぜ……いえ、ございますだ……いえ、ございます」

 まだ上京して日が浅いので、希はときどき秋田弁が出る。本人はそれをかなり恥ずかしいことだと思っているようだが、有象は逆にとてもかわいく感じるし、現在は国語教育が日本中で一元化されているので全国どこの地方でもだいたいの標準語を話せるのだからあまり気にしないでいいとも思う。

 極論を真面目にすれば方言はその土地土地の郷土の歴史と文化の象徴だからしっかり未来に残した方がいい。ただ、今ここでそう言うことを話してしまうと、希は逆に羞恥の意識を強くしてしまうから、有象はあえて聞き流して、方言には一切触れないようにしている。

「佐竹くん、あの『天キチ』というお店は『ザ・サザンクロースオールスターゲームズ』のキーボード・ハツ坊さんのご実家なんだよ」

 有象が自慢げに言う。

「えー、あなな有名なバンドの!」

「そう、あそこはわりと老舗だから。私は父方の祖父が存命中の頃からたまに連れて行って貰って揚げたてをご馳走になってたんだ。そうそう、桑畑圭佑さんとも何回かご挨拶くらいはしたなあ。ところで佐竹くんはさあ、もしかして源氏の名門・佐竹氏の末裔じゃないよね?」

 希はさすが秋田県人なので酒が『なまはげ』並みに強い。そして口数が少なくてさっきから無言でグイグイ呑んでいるのに全く顔に出ていない。同じペースで呑んでいたら有象の方がグロッキーになり、お愉しみのあちらが営めなくなる。そこで、有象は希になるべく多く喋らせた上で大量のアルコールを呑ませ、自分はなるべく聞き手に徹してチェイサーを飲むことで潰れないようにするという作戦を考えていたので、突然こんな見当違いの話を振ったのである。ところが、

「はいぃ。我が家の父さまは佐竹家の第三十代当主の従兄弟でございますう」

 うっ、微妙な立ち位置だな。わりあいと近いけれど決して本家ではないのね。

「母さまはそんで……そして、安東氏の出身ですう」

 希が続けて話す。

「えっ、安東氏って後の秋田氏じゃないですか! あなたは母方で言えば秋田の棟梁ですよ。安東氏の出なんて言わないで、秋田氏の末裔って言った方が格好いいなあ。今後はそうしなさい」

 そう、おだてつつ有象は希の武家の血は結構濃いなあと少し不安になる。このお付き合いがただの遊びだと知れたら突然怒りだして、家宝の日本刀で斬殺されるかも知れぬ。火縄銃だってありそうだ。ああ、繰り返されるトラウマ。それもこれも有象の女癖の悪さが原因なので自業自得なのだが。


 有象は大酒豪らしい希をおだてにおだてて日本酒、ワインにウォッカまでショットで立て続けに呑ませて、自分は烏龍茶をブランデーだと偽る『だいぶ前の月9での舘ひろし作戦(主演は若き日の西田ひかる!)』でようやく希をふにゃふにゃになるまで酔わせた。

「佐竹くんはまだ若いからお酒の呑み方を知らないなあ。困ったねえ。ねえマスター、お会計とハイヤーの手配をお願いします」

 わざとらしく全てを希に責任転嫁してみせる、有象。

「かしこまりました」

 そういうマスターの口元だけが微妙に笑っている。目はサングラスで見えないのだがきっといやらしく、やに下がっていることだろう。「万事承知ですよ」という風貌だ。

 そうして、有象はまんまと希を自宅にお持ち帰りして今年度初の若いご馳走にありついた。さすがは秋田小町だ。白くてきめの細かい餅肌が吸い付くようだ。そして、やはり武家の末裔だけあって、酔いが覚めて現在の状況が掴めてくると逆に攻めに転じて来た。うわあ、すごい! きっと、内に燃える何かがあるのだろう。

 ただ、しかし「だはあ〜」「だはあ〜」とよがる声は……うーん、やっぱり鄙の娘だね。まあ、それはそれで燃えるのだけど。


 翌日というか、もう現実には今日なのだが有象には『日本史特講』の講義が入っている。しかし、理事長の嫌がらせか優しさか知らぬが夕方近くの五限目なので起きるのはゆっくりでいい。もう少し眠ってからシャワーで昨夜の酔いとラブアフェアの疲れを身体から洗い流して、コーヒーをドリップしつつ大量に購入した日本史の書籍をパラパラと読もうと考えている。代理とはいえ、講義をする以上は学生たちの「ため」になることを話したい。


 ところで、まだ午前五時半なのに、なぜに自分はすでに起きているのだろうかと有象は疑問に思った。いつもは決まって八時起床なのだが?

 そして、遠くからリズミカルな打撃音がすることに気がつき、

「ああ、そういう娘だったか!」

 と心で叫び、キッチンに早足で向かう。


(やっぱりだ!)

 キッチンに着いた有象は顔を右手で覆って天を仰ぐ。キッチンでは普段使っていない炊飯器から湯気が立ち、IHコンロは鍋とフライパンに占拠されている。そして(服役中の)元妻がかつて使用していた白くてちょっと長すぎる割烹着を纏った希がまな板の上で長ネギを細かく刻んでいる。有象の邸宅には野菜や朝食用の材料などないのに希はいったいどこで調達して来たのだろう?

 有象は自分の失敗に慄いた。容姿が都会の中でも日本人離れしていてイケている希をイマドキの街の娘と考えてしまっていたが、彼女はやっぱり出羽国の人間なのだ。東北地方の人々は宮城県を除いてとても情が深い。宮城県を外したのはあそこだけは仙台を中心に伊達政宗のお膝元という東北随一の都会であり、他県とは一線を引くほど人々のプライドが高いという県民性と、彼が実際に旅行した時の実体験からの考察であり、あくまで個人の感想である。だから、クレームは受け付けない。

 ちなみに福島県はあの悲惨な大震災、原発事故の後に一回行ったが、みなさんとても親切な人たちだったと記憶している。それまで福島県民は「自分たちを北関東人と言い張っている」との噂を聞いて蔑んでいた有象だが一回の旅で心が温かくなり、福島県を心で応援している。頑張ろう!


「あれ、先生。起こしてすまったか? すびまっせん。おはようごぜいます」

 にこやかに笑う希。

「おはよう。しかし、佐竹くんねえ、朝からそんなことまでしなくていいんだよ。ウチは電話一本で朝食デリバリーがすぐに届くんだ」

「いんや。昨晩、先生に“大人の女”にしてもろうた上はしっかり、先生の嫁っこになるための勉強もいたさせねば!」

 そうだよなあ。そう思うよな。都会の女どもと違って希は貞操観念がしっかりしているのだ。ご両親の躾がとても良かったのであろう。だから、身体を一回許した以上は結婚まで気持ちが一気に飛ぶのだ。まあ、若くて美人で性格もいいから有象としても、この際結婚したっていいのだが、あの理事長が「また、学生に手を出しましたね」と冷たい目でこちらを見たり、セックス依存症らしい自分の女癖の悪さに妻となった希が怒り狂って、また血を見ることになったりしたら、またたいへんだし、えらく面倒だ。

 特に希の場合、そのお家柄から諸国の源氏の末裔たちが馬に乗って来るか、新幹線・飛行機・電車・バスなどの公共交通機関。もしくは自動車やトラック、大型バイク・スポーツサイクル等で我が家に結集して、火矢を一斉に放ち、乱入してきて最期は人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のようにパジャマ姿で庭に引き出され「有象どの、お覚悟を」と大星由良之助(?)に脇差を渡されて、いやいや切腹させられる。「エイエイオー!」と掛け声が轟き、その後は希が長槍に有象の首級を突き立て、神奈川県警緑警察署に集団で出頭ってなんだかユーモア小説のネタになっちゃうよ! 純文学作家である自分には書けないが……


「先生、どした? ご飯が冷めてしまいますよ」

 希の言葉で妄想から現実に帰って来た。卓上にはご飯、豆腐と長ネギの味噌汁、ハムエッグとレタスのサラダにブラックコーヒー。ごく普通のメニューなのだが、離婚してからメイドや使用人たちも暇をやって出て行ってから有象は自炊などしないというかセンスがなくて最初からできないから、野菜や卵など買ったことはないし、缶詰や冷凍食品などの買い置きもない。なのに、なぜこんな新婚さんのような朝食が作れるのか?

「佐竹くん。これらの食材はどうやって手に入れたの?」

 有象は訊ねる。

「はいー、朝四時半に目覚めたのでご近所を散歩していたら、土の匂いがしたので寄ってみると畑があって、野菜などの無人販売所があったのでお金を置いていただいて来ました。さらに行くと鶏卵の販売所もありました。調味料と米はコンビニで購入しました。先生のお宅の周りは畑がいっぱいありますた。嬉しくなりまっした」

 微笑む希。そうなのだ。住宅地より農地の方が税金が安くなるため、市場に出さない野菜を作る畑、なんちゃって農家がこの辺りには多い。それは結局、土地を貸している有象家の節税にもなるのだが、有象自身には経済感覚が全くないので信頼できる組織に業務委託して『株式会社有象ホールディングス』という持株会社が有能な弁護士・行政書士・司法書士・税理士・経理士・宅地建物取引責任者などが財産等を管理してくれている。有象は代表権のない会長で株式の70%を所有している。残り30%は地下組織に委ねているが、そのトップは正義感の塊なので乗っ取られる心配は無用だ。


 それはそうと、土の匂いから野菜などを見つける手際の良さ、ましてや料理も秋田人なのに塩辛くなくて美味しい。もしかして希は理想の女房ではないかと有象は少し考えを改めた。問題はそれより自分の色欲である。いつも複数の美女と関係を持っていないと不安になってしまうのだ。あの女精神科医に頼んでもっと性欲が衰える処方薬を出して貰うしかないなあと有象は考えた。

「先生、お口にあいますたか?」

 希が訊いて来る。

「うぬ、人生で最高の朝食だよ」

 有象は微笑んだ。歯がないのは昨晩の交合でもう知られているだろうからもっと大笑いしても良かったが、なぜか恥じらってしまった。昨晩の方がもっと恥じらうべき行為をし合っているのにね。

「先生、わたす二限目の講義があるので後片付けが間に合わないみたいなのです。申すわけありまっせん」

 希が悲しげに言う。

「ウチには食洗機があるから私がやっておくよ。それにホームヘルパーさんが毎日来てくれるから大丈夫。さあ、学生は勉強第一。シャワーを浴びてお行きなさい。あなたはすっぴんでも綺麗だから、保湿剤を塗るくらいでいいのだろう?」

 有象が言うと、

「先生、女の肌はすぐに老化してすまいます。基礎化粧品や日焼け止めは若いうちからキチンとせねばなりまっせん。若い時美人の方はそこを手抜きするから齢を重ねると醜くなるんす!」

 ほう、しっかりしているなと有象は感心した。鄙には稀なる宝を引き当てたかもしれない。

「そうですか。ところで佐竹くん。今のアパートを引き払ってウチに住みませんか? 部屋はいくらでも空いているし、家賃・光熱費など無用だが」

 高待遇だと思うが、なぜか希は断って来た。

「先生、それでは同棲と言うふしだらな関係になります。我は実家から仕送りを貰っていますのでご心配なく。いずれ、先生を両親に紹介できて婚約に至ったら、こちらに来させていただきます。でば」

 なんと、身持ちの堅い。しかし、身体はもう許しているが。


「でば、先生。行って参ります」

 希が出て行き、有象はちょっとした緊張がほぐれて、二度寝してしまった。

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