第6話 日本史特講1 ガイダンス
有象無蔵はむかし読んだ筒井康隆の『文学部 唯野教授』の中に書いてあった「大学教授は講義の始業十分後に教室に入り、終了十分前には教室を出る」というような感じの一文にいたく共感して、以後は必ず自分もそうするようにしている。
大学の講義は普通九十分で一コマだが、人間の集中力がそんなに長く続くことはない。あまりにもみっちりやったら学生もダレるし、自分も気力が減退し喉が疲れる。
『龍角散タブレット』でもこっそり舐めておけば喋りながらでも喉が潤っちゃうのかもしれないが、有象は飴やガムの類が大嫌いなのだ。
というのも子どもの頃、不二家の『ノースキャロライナ』を噛んだら虫歯の詰め物が取れてしまい気が動転したことがトラウマになっており、さらには大人になってからもロッテの『キシリトールガム』を噛んでいたら差し歯がぽろっと取れたりした挙句、行く歯医者、行く歯医者が全てものの見事に腕が悪くて、今では上の歯がほとんどなくなってしまった。そのために一回は入れ歯を作ったのだが、今度はその入れ歯を支えるための差し歯が左右両方抜けてしまい、流石に面倒くさくなって歯医者に行くのを止めてしまった。
なぜもこんなに歯医者運がないのだろう。これは歯科大学の基礎的教育がなっていないのだ。もっとまともで腕の立つ歯科医を育てろ! と日本歯科医学会にクレームをつけたいくらいだ。
ただ、幸いなことに有象は鼻の下が長く、しかもおちょぼ口なので大笑いしたり大口を叩かなければ彼が“歯なしジジイ”だとは誰にも気がつかれない。黙っていれば見た目だけは相変わらずのハンサム教授なのだ。
それはそうと、かつて昭和の大横綱・双葉山は「人間の集中力は五分しか持たない」という名言を……たぶん五分ぐらいだったと思うのだが、ちょっと自信がない。インターネットで調べればいいのだがこれも面倒くさい。まあ、とにかくそれらしきことをあの『我、いまだ木鶏たりえなず』というこれまた名言を残した立派な横綱が(連勝が69でストップした時に恩師の先生、たぶんお医者さんに電報を送った際の文面)、おっしゃったそうである。ということはそんなに立派でもない普通の人間たちは一日のうちのほとんどを集中しないでぼんやりと生きているということになる。しかし、それくらいでいいのではないかと有象は思う。
ずっと精神を張り詰めていたらじきにストレスで心身がおかしくなる。一度おかしくなった精神は容易に治らない。下手をすれば強烈で薬価の高い精神安定剤や抗鬱剤、睡眠導入剤漬けになってもっともっとおかしくなってしまう。あれらは悪魔の薬なのだ。『精神科医は今日もやりたい放題』という恐ろしいタイトルの本もあったくらいだ。(有象は読んだ。恐ろしい内容だった)ブラック企業でクソ上司や変な同僚にビクビクしながら働いていたら鬱病にでもパニック障害にもなるのは当たり前である。それらの心の病がこじれてしまって統合失調症や双極性障害という二大精神病になったら取り返しがつかないことになる。とにかく常にリラックスした状態でいることが大事だ。
こんな世知辛い世の中でせめて自分の受け持つ講義の学生には余計なストレスを感じさせないようにしたいと有象は強く思う。そのためには自分が教壇でピエロになって笑われてもいい。強くなりたい。やさしくなりたい……いけない、こんなところで斉藤某のミュージックを唄っていたらJASRACに見つかって、印税分をお金取られてしまうわ。(まず、見つからないかな? 誰も読んでくれないからね)さて、冗談が過ぎた。そろそろ講義に行くか。
有象はもそもそと研究室を出て行った。
有象の講義に使用される教室は大抵が大講堂である。五百人くらいは収容できるだろう。さて、新型コロナ対策はどうなっているのだろうなんてことはフィクションなので全く考慮しない。
学園運営の総務的なことに有象は全然関心を持っていないし意図的に関わらないことにしている。面倒は嫌いだ。それに自分自身はある地下組織が秘密かつ独自で開発した“完璧で長期間抗体を維持できる新型コロナワクチン”を去年の春からもう八回くらい打っている。完璧なのになんで八回も打つんだという疑問も残るが、まあいい。ああ、このことはくれぐれも厚生労働省にはご内聞に。
それはともかくとして、毎年のことながら有象の講義の初回(履修決定前のガイダンス)は異常なまでに人気が高い。
それと言うのも、どこの部活動かサークルか学生運動かは全く知らないが、毎年新入生相手に『単位が取りやすい教授・准教授・講師ランキング』なるものを校門の外で550円(税込と書いてあるが絶対に消費税の確定申告はしていないよなあ)で販売している輩どもがいるのだ。なぜ、校門の外で販売するかは言うまでもないだろう。学園内の校庭などで無断で物品を販売していたら、本校舎最上階にある理事長室の窓から諸葛理事長が射つ弓矢の餌食になるに決まっているからである。理事長はそれは法律違反だと注意喚起に来た法学部の某教授に対して「睡眠薬の液体を先っぽに塗ってあるだけ。鏃はつけてないです。街に迷い込んで出て来てしまったクマやイノシシを捕まえる際の動物園の飼育員か地元猟友会の方々と同じです」と言ったらしいが、SNS上にある匿名による過去の目撃談では「確実に矢が学生の心臓を貫いていた」とか「射られた矢は学生の額に突き刺さり、まるで平将門や木曾義仲の最期のようだった」という某文学部学生の証言もまことしやかに都市伝説のように囁かれている。だいたい地元の猟友会が持っているのは殺傷用のライフルだろう(この横浜市にも猟友会は存在する!)。「あの女ならやりかねない」と有象は噂を聞くたびに鳥肌が立つ。何せ、理事長の弓は『十人張り』だと言う。そんな強弓は鎮西八郎為朝並みの膂力がないと放てない。あの白くて美しい細腕のどこにそんなパワーがあるのだろうか? 尋常な女人ではない。
話が逸れた。
『単位が取りやすい教授・准教授・講師ランキング』において有象は毎年、特Aランク、つまり最も単位が取りやすい「楽勝な」教授になっている。当たり前の話だ。有象は滅多なことでは学生に「D判定」、要するに落第点をつけない。むかしからそう決めているポリシーだ。有象は文学、今年はそれに日本史もつくが、これらはあくまでも「嗜みの学問である」と常日頃から考えている。もっと砕けた言い方をすれば「知っていても知らなくてもどちらでも実生活にほとんど関係ないし役にも立たない、少々品の良い趣味の延長みたいなもの」だともいう気持ちなのだ。そんなどうでもいい講義の単位を落とすことで、学生たちの明るい未来に暗雲が立ちこめるなどという非道な真似はしたくないし、逆恨みされて刃物か何かで刺されたら自分が損だ。有象は刃物恐怖症なのである。
実は二度目の結婚の時に有象は新妻から「浮気をいくらしてもいいけど、わたしの妹にだけは手を出さないでね。もし、手を出したらあなたを殺すわ」とものすごく寛大なことを言われたにもかかわらず、精力絶倫だった彼は元々有象に惚れ切っていた新妻の妹にまんまと誘惑されてあっさりと深い関係を持ってしまい、しかも妹が新妻にあっけらかんと打ち明けたために、宣言通り新妻に極太の千枚通しで身体中を複数回刺された。幸い内臓まで凶器の先端は達せず、生命に別状のない全治半年の重傷だけで済んだが、自宅にパトカーや救急車がサイレンをバンバン鳴らしながらやって来たので、ご近所さんに多大なご迷惑をかけ、しかもご近所さんからワイドショー的にかなりワクワクされてしまった。人生の汚点の上位ランキングに入る出来事である。
もちろん、それが原因となって二度目の妻とはすぐに協議離婚したが、元妻は殺人未遂の刑で懲役五年、いまだ獄中にいる。できれば永遠に出て来ないでほしい。
有象の刺された身体には北斗七星のような傷跡が今も残っていて、冬になると痛む。しかし、心の方はもっと傷んでいる。最初から妹の方と結婚すればよかったと。その妹は事件の後、姿を眩ましてしまった。惜しいことをした。
また話が逸れた。これが野球だったら「おい、ノーコン!」と捕手にどやされるだろう。しかし、捕手はまさか刺しには来ないだろうな。ああ、捕手は「女房役」って言うし、盗塁ランナーを刺殺するからなあ。と繰り返すトラウマ。
おあとがよろしいようで。
とにかく、そのランキング冊子を見た新入生たちは皆、有象の講義をとりあえず履修したがるので「三密」「四密」になって定員が毎年大オーバーでたいへんな騒ぎになるのである。
そのため、履修者を絞るために教務課の職員が毎回、くじ引きを作って定員以内に無理矢理収めるのことになる。くじ引きというのは勝ち馬投票券と同様、誰も返却しないで破って空に撒いてしまうので、教務課の職員たちは毎年、学園のサーバーに収められている『有象教授・くじ引き☠️』ファイルを開いてプリンターで印刷する。そこまでは機械がやってくれるが、最終的にはハサミで一枚一枚切らなくてはならないので春恒例の大残業をしての手作業になる。なので、教務課の職員連中は有象のことを軽く……たぶん……軽〜く恨んでいるだろう。まさか、教務課の職員までハサミで刺してこないだろうな? その被害妄想のために有象は故・殊能将之氏のメフィスト賞受賞作『ハサミ男』がいまだに読めないでいる。
そうした教務課の若い衆たちの苦労の上で実施されるくじ引きで当選した学生だけが本学園最大の教室である大講堂で待っている。しかし、別に有象の講義を真剣に聴きたいという希望を持つ学生などは年におそらく二人くらいしかいないと思っているので有象は気楽なものだ。緊張の「き」の字もない。自分に真の教師としての人気がないことくらいはこの自信過剰・身勝手放題のエロ教授でもわかっている。
さて、有象は大講堂の前に聳える本学園創設者(匿名希望)の個人的趣味で造られた樫の木の重い大扉を開ける。非力な有象としてはできたら自動ドアにしてほしかったところだ。それに、樫の木なんてどうしてわざわざ使うのか意味がわからない。
「こんにちは。担当教授の有象無蔵です、よろしく。ええと、みなさんご存知の通り、本来この『日本史特講』を受け持つはずのテレビの雑学バラエティ番組でもお馴染み、里見教授は少し前になんの神仏のご利益か知りませんがとても子宝に恵まれ過ぎちゃって、今年度は育児休暇取得のためお休みです。伝聞によりますと、里見家の六つ子ちゃんはみんな元気だそうです。よかったですね。私など子種がなくて、家が潰れる……ああ、それは独り言でして、幸せいっぱいな里見一家にはなんだかもうすでにジャパンテレビが張り付いていて、六つ子ちゃんの成長をずっと追いかけるドキュメンタリー番組を制作するそうです。ミルク代は稼げますね。里見先生も背は小ちゃいのに一気に“ビッグダディ”になってしまいましたな。あれはテレビサンライズだったかな? どうせなら奥さまも、あと二人頑張って産んで八つ子ちゃんにしちゃったならば『令和の南総里見八犬伝』になったかもしれないのに惜しいですねえ」
有象はギャグを言ったつもりなのだが、学生たちは
最近は電車に乗った時、有象以外の客が皆、スマホの画面を見つめていることがよくある。これは一時期問題になった『ゲーム脳』よりも恐ろしい『スマホ脳』だと思う。有象もスマホはiPhoneの最新機種の最上位機を常に購入しているが、ほとんど時計の機能しか使っていない。誰からもメールもLINEも来ないからだ。友だちがほぼいないから当然だろう。それはそうと乗客が皆、スマホ画面に集中してくれているおかげで電車内が静かで読書が進むので良いのだが、スマホばっかり見ていると、今に尻尾が生えてくるのではないかと心配になる。
これも、昭和のCMのパロディーなのだがわかるかな〜わかんねえだろうなあ〜。
ちょっと昭和のギャグを詰め込み過ぎたようだ。
「さて、この授業は『日本史特講』ですが、今日は履修希望票提出前の、野球で言えばオープン戦、デパ地下で言えば試食のおばちゃんですから、さらっと聴き流してくれればいいです。途中退席もご自由にどうぞ。
わたしはいつも思うのです。日本史を学ぶのに日本のことだけ見ていても仕方がないと。つまりは『世界の中の日本史』を学ばなくては現在ではなんの意味もありません。現在の人類は元々、アフリカ大陸で誕生したと言われています。みなさんは少し前のニュースで、アフリカ大陸において世界最古の現代人の女性の遺骨が見つかり『旧約聖書 創世記』にちなんで『イブ』と名付けられたのを覚えていますか? いいえ、頭痛薬ではありませんよ。それに『アダム』も『東京事変ではなく林檎』も『ちょっと齧った林檎のAppleのロゴ』も見つかっていませんし「林檎を齧って歯茎から血が出ませんか」と訊くCMをやっていた俳優さんの遺骨も出て来ていません。ちゃんとお墓があるでしょうからね。確か、福田豊土さんでしたな。ああ、この辺で、面白くなかったらもうどんどん退出していいですよ。まだ、ガイダンスですから。もうこなくても、来週から出直してくれてもどちらでもいいです。本当ですよ」
有象が言うと、何人かの学生が出て行った。
「ありゃ、まだ結構残ってくれましたね。例年、ああこれは『文学特講』の方なのですが、この辺りで残ってくれる学生数が一桁になるのですが。今年の新入生のみなさんは結構まじめなのかな? 干支は? 星座は? 身長は? ごめん、言いたくなかったら言わないでいいけれどバストは何カップ? ああそう、Bかあ。正直、私の好みです! 答えてくれてありがとうね」
有象は手前の席にいた好みのタイプの女子学生に軽くアプローチしてみた。なんだか、ちょっとイケそうな気がする!
「まあ、とにかく今日はリラックスしてください。では、続けます。このアフリカで見つかった現人類のご先祖さま。元は樹上生活をしていたおサルさんです。その中で危険を顧みず地上に降り、さらに勇気と好奇心で遠くに歩き出し、ユーラシア大陸に入って、さらにどんどん東に進んでいきます。この好奇心こそ人類の脳を発達させ、大脳新皮質という『思考回路』と『記憶装置』ができてきます。樹上に残ったおサルさんたちは身の安全は保証されましたが、脳が発達しませんから、ずっとおサルさんのまま今も群れを作って生きています。ただし、オランウータンは群れを作らないそうです。これはたまたま私がエンターテインメント小説を書くために読んだ本に書いてありました。あの、私が文壇の権威ある中編の新人賞である『芥川龍之介賞』作家だってみなさん知っていますか?」
学生たちはシーンとしている。有象は(どうせなら、直木三十五賞を獲っておけばよかった)と内心思った。
「まあ、それはそれとして。人類のご先祖さまが東の果てまで行くとどうなるでしょう? 原始時代初期はシベリアとアラスカは陸続きだったので北米大陸に行き、ネイティブ・アメリカンになったり、さらに南下して南米大陸まで行って、インカ、アスティカ、マヤなどの文明をもっと後になって作った人類がいます。
その一方で中国、朝鮮半島まで来て、なんと海を渡って日本まで来た人類もいます。朝鮮南部と九州北部はとても近いのです。これが原日本人の一部です。あの、次回かその次ぐらいにお話ししますが『純粋な日本民族』などと言うものは先住民であるアイヌ民族しか存在しませんからね。南や北から来た人類に今の奈良県や島根県で集団生活していた人類などが複雑にミックスされたのが日本人です。これは勘違いしないでください。よろしく。さて、南北アメリカ大陸をユーラシアの人々が知るのは十五、十六世紀の『大航海時代』ですから、だいたいそれ以前のユーラシア大陸の人たちは日本を『極東の島国』と認識しているわけです。さて、人類が文明というものを築き始めたのは古代四大文明ですね。ナイル・メソポタミア・インダス・黄河なんていう全て川のほとりで定期的に弱い洪水が起きて土地が肥沃したところにできるのですが、そこまでやっちゃうと『世界史特講』の
有象は終了十分前に思い扉を開けて去っていった。
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