第5話 新年度

 春、四月。


 とっくのむかしにサクラは散ってしまったが、今年も大豆戸町の丘には桜色のほっぺをした新園児やらランドセルおばけの新小学一年生やら紅顔の新入生やら、美しい花のつぼみたちがエッチラオッチラと急な坂道を上ってくる。幼稚舎や小学部の入学式を観に来られた運動不足気味のご両親などは青息吐息のようである。


 天熊総合学園の最寄駅である東横新線の『天熊寺前』駅からすぐの天熊寺参道には寺の境内まで行かれる方用のエスカレーターとエレベーターがあるのだが、校則で学園の園児、児童、生徒、学生になぜか教職員までもが文明の利器の使用は原則禁止にされている。現理事長である諸葛純沙の強い要望であったという。

 有象は若い頃、テニスや草野球などをちょっぴりやっていたが、中年の域に達してからは汗をかくのが大嫌いになり、鴨居にある豪邸の縁側で陽光を浴びながら読書するのを唯一の趣味とするインドア派に転向しており、運動不足というより無運動状態であった。そんな男にこの大豆戸町の坂道はまるでアイガーやK2の氷壁にしか見えない。「理事長は絶対にSだ!」と心で呪う。駅ナカの自販機で買って飲んだスポーツドリンクがそのまま汗になって体内を素通りして蒸発していく。毎日、なにか損をしたような気になる有象であった。


 かつて有象は大学やテレビ局への行き帰りに運転手付きの高級車を用いていた。その運転手は父の代から一途に勤めてくれていて、しかもドライビングテクニックが最高で安全だったために有象も安心して後部シートにもたれていられた。しかし、先年、運転手は高齢で運転に自信がなくなったという理由で自動車運転免許(二種だった!)を返上して田舎の山形県に帰ってしまった。有象は相当な額の退職金を渡すことでしか感謝を表せなかった。元運転手はその金を元手に帰農して、秋には新米の『雪若丸』を食べきれないほど米俵で送って来てくれる。「おいおい、年貢じゃないぞ」と言いながら有象は大きな嬉しさとちょっぴりの寂しさを感じるのだ。

 ちなみに有象は完全なるペーパードライバーの証であるゴールド免許保持者である。しかし、読書のしすぎで視力が落ち、眼鏡使用にするか、返納しようか迷っている。


 さて、天熊総合学園は幼稚舎から大学院まであるが、エレベーター式の学校ではないということは前述したと思う。中学部在校生も高等部、大学に進むためには試験を一般の受験生と同様に受けなくてはならない。もちろん、成績優秀者には推薦制度があるが、本当に有能で積極的に学問に取り組む姿勢がないと推薦されない。狭き門である。もちろんそれを決めるのは諸葛理事長だ。

 ただし、一般入試の科目は筆記ではなくて面接一本である。面接だけで受験生の能力がわかるのだろうか? そう疑問に感じる向きもおられるだろうが、この学園の面接官の眼力は恐ろしいものがある。


 まず、面接者席の左端に座るのは、天熊総合学園最高顧問・物干団ものほしだんという身長2メートル、体重などは150キロくらいある巨漢である。眼鏡をかけているが黒目がちの瞳は受験生の心の内まで見透かしているように見えてかなり怖い。ちなみに、この男の正体を知っている読者さまがいると作者はとても嬉しい。それはともかくとして、見た目は怖いが物干は受験生をリラックスさせるような雑談をする程度で厳しいツッコミを入れる質問は一切しない。どちらかというと受験生を心から応援しているようにも見える。

 その対の右端には物干よりも、もっと大きい身長2メートル半、筋骨隆々でぶ厚い筋肉に法衣を纏った華麗宗天熊寺住職の雷音金愚らいおんきんぐ上人が巨岩のように座っている。最近、住職より背が高かったアメリカ人男性が亡くなったため、ギネス認定協会から『現存する男性最長身長記録保持者』および『現存する最長身長の僧侶・聖職者記録保持者』に認定され『ギネスビール』一生分を記念に貰ったらしいのだが、雷音は酒が一滴も呑めない下戸なので「全然嬉しくないです」と語っている。どんな格闘技の選手にも負けそうもない大男だが、僧侶だけに彼も受験生に物干よりは多少、厳しくともやさしい質問しかしない。ちゃんとした僧侶は変な問答はしないのである。心を見るのだ。

 しかし、いくら優しく話をされても二人の肉体から放たれる迫力だけで自分を見失う受験生は結構多いらしい。だが、勝負はここからだ。


 例年ならばここで我が国の考古学界、史学界の至宝、名無野権兵衛特別超名誉教授の出番なのだが、今年度は超教授がアフガニスチャンへ遺跡発掘調査に行ったっきり帰ってこないので欠席である。

 有象などは名無野がイスラーム原理主義者に拉致されたりテロで死亡していたりしないかを確認するのが楽しみ、ではなくて心配で毎晩テレビニュースを観ているのだが、なんだかおかしなことになっていて、名無野に対しサリバーン政権から「臨時大統領になってくれ」と依頼があり、名無野は「まあ、とりあえず学術調査が済んだら考えますね」などと呑気なことを言っているらしい。さらにサリバーン政権に反抗する勢力であるはずのテロリズム組織・イチュラム国(IT)までが「ナナシノ待望論」を正式に表明しているらしい。国連も仲介に動き出しているとの未確認情報もあるらしくて「そんなことしたら私がノーヘル文学賞を獲る前に、超名誉教授がノーヘル平和賞候補になってしまう。なんという人望なのだろう」と有象は感嘆してしまう。普段はただの禿頭の百歳間近な爺さんなのに。


 名無野が不在のため、町田学園統括校長が面接官入りしている。この人は、何かあると「教師生活二十五年!」と言って嬉しくても悲しくてもすぐに男泣きするのだが、教師生活二十五年なんて言うのは絶対に大ウソである。。最低でも三十五年か四十五年は勤続していないと全く年齢の計算が合わない。つまりは愚直な人物に見えるが本当はかなりの“クセもの”なのだ。だから、受験生への質問も意表をついたものになり、皆が言葉に一瞬詰まってしまう。いい人そうに見えるやつほど腹の内は読めないということだ。有象も、日頃から町田には注意するようにしている。


 そして、席の真ん中に青いオーラを放って座るのは理事長、諸葛純沙である。国内では防衛大学校でしか学べなかった軍事学を私立大学として初めて学問として捉え、軍事学部を創設したとんでもない傑女である。もちろん公表当初は、いわゆる平和主義者や左翼、護憲主義者、極左から猛抗議を受けたが全く意に介さず、その是非を問う公聴会に彼女が姿を表した瞬間、男も女もLGBTQもSOGIもイヌもねこも口を閉じて会場がシーンとしたという。彼女のあまりに気高く冷たい美しさ。目が合ってしまうと年寄りなどは心臓がガチガチと凍るような痛みを覚えて死んでしまいそうになってしまうほどの空気感で、皆が彼女を直視できずに軍事学部の設置はなんだか満場一致で呆気なく決まっていた。そして皆、よくわからない恐怖に駆られて会場からすぐに逃げ出したらしい。あくまで伝聞だが……

 諸葛理事長は地球人ではないというヘンテコな噂もSNS上にはあり、彼女自身はその質問をされるといつも微笑して否定も肯定もしないのだ。誠にもって神秘の人だ。

 ああ、理事長は面接で質問はしない。ただ、受験生の目を見ている。だいたいの受験生が目を背けてしまうが、目をしっかり合わせる受験生もいる。そういう子は間違いなく合格する。


 さて、高等部・大学の入試合格者はいまどき珍しく、インターネット、学園のホームページ上では一切発表されず、校内張り出しもない。通知は全て郵送で届く。不合格者には封書一枚だが、それが合格者となるとまるで『チャレンジ1ねんせい新年度号』並に分厚く重いものが届く。開けてみると、

『合格おめでとうございます。春休みの間に同梱のテキストを学習し、我が校の学習レベルに追いつくよう努力してください。入学式の前に、テストをおこないます。低得点の方は入学を取り消しする場合がございますので心しておいてください。では、四月にお会いできることを楽しみにしております』

 という理事長の言葉と、十冊のテキストが入っている。これを見た合格者は愕然とすることになる。しかし、これは春休み中に不良行為を行わせず、ダラダラした生活を過ごさせないための脅しで、実際にはテストなど行われない。


 さて、大学の入学式。教授ら講師一同は礼服での出席が義務付けられている。礼服に汗じみを付けたくない有象は自宅にハイヤーを呼んだ。様々なスキャンダルで世間的には権威を失墜したが、まだまだ有象家の威光は横浜市緑区近辺では衰えていない。電話一本でハイヤーが超特急で駆けつける。贔屓の会社は『マリンズ交通』。プロ野球の横浜マリンズが川崎から移転した時に改名されたそうだ。その前は『港町タクシー』という社名だったらしい。

 それとは関係なく有象は熱烈なマリンズファンであり、近隣の金持ち仲間と『マリンズを死ぬまでにもう一度優勝させる会』に入っている。しかし、ここ最近は弱くて全くもって不甲斐ない。以前、風花というちょっとおかしな迷監督がおり、期待通りおかしな采配を振るい、その時代は漫画チックで面白かったが、今は元・名ばかりエースの横須賀大介よこすかだいすけが監督になってここ三年くらい最下位に低迷している。今年も開幕から八連敗している。ダメだ。

「投手は監督にしてはダメなんだよな! やっぱり、捕手か二塁手だよな」

 と大の大人がプロ野球ごときで本気になっていて、ちょっと痛い。


 タクシーが正門に着いた。もちろん会計は掛払いだ。それだけ有象家は地元で信用されている。

 車で来たせいか時間が早いようで、まだ誰も正門の周りにはいない。有象はあまり気にせずに学園に入った。その瞬間、

「シューッ!」

 と有象の目の前を何かがよぎった。

「うわっ!」

 と後ろを振り向くと正門横のに白羽の矢が突き刺さっている。なんという膂力だ!

「り、理事長、私を殺す気ですか!」

 矢の飛んできた方には弓道着姿の理事長が立っていた。朝日を後ろから受けて神のように気高く美しく凛々しい。

「本気で殺すなら外すことはない」

 淡々と理事長が言う。

「こ、これは完全な殺人未遂ですよ! 警察呼んじゃいますよ!」

 全身に震えを感じながら有象が必死に抗議する。

「学園内は私有地ですから……有象先生、当学園は原則、自動車通勤は禁止です」

 淡々と話す理事長。

「理事長、私有地だって人殺しはダメですよ。それに、今日は礼服ですから汗じみを作りたくなかったんです。あの坂はキツすぎます」

 有象は第二撃を恐れつつ反論する。しかし、この理事長に社会常識は通用するのだろうか?

「普通のスーツで来て、ここで着替えればいいでしょうに」

 理事長がまともな事を言った。

「ふーん、教養学科には個室も更衣室もありませーん!」

 有象はヤケになって反抗した。

「トイレには個室があります」

 またも真っ当な意見。

「確かに、この学園のお手洗いは清潔です。でも、制服から私服に着替えて渋谷に遊びに行く女子高生のような事を中年真っ只中の私がしたくないです。とても恥ずかしい」

 有象にも多少はプライドがある。

「それはそうですね。教養学科に更衣室を作りましょう。では、今日のところは見逃してあげるわ」

 理事長は筋の通った意見には聞く耳を持っているようだ。


 入学式で理事長は夜空のような振袖を着て祝辞を述べた。美しすぎる。この人はまだ二十代なんだと隣にいた町田に聞いて、有象はびっくりした。


 さらにびっくりしたことは、入学式の間に教養学科共同研究室に更衣室ができていたことだ。なんて仕事の早い女性なんだろう。有象は感心してしまった。


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