第4話 やってみましょう!

「た、大変です。皆さん!」

 教養学科講師共同研究室に、副学科長の御座鳴法治おざなりほうじが慌てて駆け込んできた。教養学科は教授といえども個人の研究室は無い。なので所属している教授、准教授、講師とも、この部屋で一同に介している。部屋といっても適度な広さはあるし、パソコンなど必要なものも用意されているが助手という存在はない。自分の資料は自分で作成する。アシスタントのいない漫画家のようだ。でも、仕方がない。だってここは吹き溜まりだから。本人たちも薄々、自分の立場は自覚しているようである。待遇に文句を言う者はいない。お給金をもらえるだけ、今の世の中では幸運なのだ。

「なにがそう大変なんですか? 年甲斐もなく全力で走っちゃって。心臓発作を起こしてしまいますよ」

 経済学の烏兎日月うとにちげつ講師が御座鳴に訊ねる。

「はあ、そうでしたな。はあ、はあ、ホント年甲斐もなく……ああ、急に身体中の筋肉が痛くなりました」

 御座鳴が両手の掌を膝の上に置き、息を整えている。髪の毛の後退した額に汗が滲んでいる。

「ほう。筋肉痛がすぐに出るってことは副学科長、まだまだお若い証拠ですな。わたくしなど週一でテニスをすると三日後に足がつりますよ」

 心理学の関東鯛三かんとうたいぞう特任教授が御座鳴をおだてる。

「なにをおっしゃる。関東先生は御年八十歳でしょう。私はまた五十九歳ですよ。先生のお歳でテニスができるなんてとても素晴らしいことです」

「そうだ、そうだ!」

 皆が拍手する。関東をおだてておくと彼が司会をしているラジオのジャパン放送、午前の名物長寿番組『テレフォン人生相談』でレギュラー解答者が休みの時に起用して貰えて、若干のギャランティーとちょっぴり世間での知名度が上昇するという特典がつく。それに関東は心理学者として著作も多くそこそこの有名人だ。何故ここにいるのか、誰もわからないのであるが誰も訊ねたりはしない。

「ええと、副学科長。ところで肝心の大変なこととは?」

 気の短い有象が盛り上がっていた雰囲気をぶち壊す。一気に空気が重くなったが、彼はそういうことに慣れているので平気だ。

「ああ、そうなんです。現在、産休中の里見先生なんですが……」

 イヤな空気が流れる。現代の医学でも100%無事に出産できるとは限らない。

「まさか!」

 生物学の城戸円子きどまるこ講師が悲鳴をあげる。彼女はまだ若いし、研究や論文作成は優秀なのだが、超怖がりで、実験用のマウスの解剖どころかどうしても触ることができないために失格講師となり、ここに追いやられた。

「いえ、違うんです。城戸先生、落ち着いて下さいね。ええと、里見先生の奥さまが六つ子を出産されて、母子ともに健康ということで、大変喜ばしいのですが里見先生から『これはとても妻任せにできない』と一年間の育児休暇だか休職の希望が学園に出されまして理事長は彼女の一存で育児休暇を許可しました」

「えー、それはおめでたい!」

 皆が浮かれる中、有象は、

(排卵誘発剤が禁止になっているこのご時世に六つ子とはねえ。里見夫人はハツカネズミか昆虫か? それともマンボウか? ああ、流石に億兆クラスも産んではいないか。しかし、みんな元気に育って立派な労働者になれば、将来は私の老齢年金を生み出す下支えになるからいいか)

 と考えて、とりあえず喜びに沸く部屋の雰囲気に溶け込んだふりをしておいた。

 ところが御座鳴が、急にしかめ面をして、

「ところが喜んでばかりはいられないのです。理事長が『教養学科には史学科からの人員補填はしません。誰かに日本史特講を兼任させるように』とあのクールビューティーな顔をさらにクールにしておっしゃるので、私は恐怖で凍死しそうになりました」

 と告げる。

「えー、どういうことですか?」

 皆が先ほどと違った「えー」を発する。

「はあ、名無野特別超名誉教授がいらっしゃれば状況を変えられたかもしれませんが、特別超名誉教授の腰巾着に過ぎない私には理事長と目を合わせることもできず……力不足で申し訳ないです」

 御座鳴が深々と陳謝する。

(おお、『役不足』と言わず『力不足』と正しい日本語を使ったな。感心な腰巾着だ)

 有象は心で思う。

「ええ、従いまして、この中で日本史を教えられる先生はいらっしゃいますか? 一般教養ですから、大したことを教えなくても大丈夫ですよ。高校の教科書程度で大丈夫でしょう」

 御座鳴がお願いするが、誰も返事をしない。

「世界史特講の韋弦佩いげんはい先生なら可能ではないですか?」

 烏兎日月が無責任に言う。

「ワタシ、本来ハ中国史ガ専門ネ。ヨーロッパ史ダッテホントハヒヤヒヤモノヨ」

「ああ、そうでしたね」

 韋弦はかつて講義で『毛沢東語録』をテキストに採用しようとしてここに飛ばされたのだった。この国で共産党は暴力革命テロ組織扱いだ。

「ソウイウ烏兎センセイダッテマルクス経済学デショ。当然レキシニ詳シイハズネ」

 韋が逆襲する。

「いやあ、世界史だったらまだしもねえ。でもそうすると韋弦先生のテリトリーを奪っちゃうことになります。世界史と日本史は別物ですよ」

 烏兎が開き直る。

「うーん、困りましたね。体育の中山先生は無理でしょ?」

 御座鳴が中山金二なかやまきんじ講師に訊ねる。

「ハイ! もちろん無理であります」

 中山が気持ちよく自分をバカと認めた。

「御座鳴副科長がやればいいじゃないですか? 名無野特別超名誉教授の愛弟子なんだから」

 たまりかねたように有象が突っ込む。

「それが……私、先生の研究の事務仕事と金庫番しかやっていなくてですねえ。要するに実態は特別超名誉教授の事務方の秘書に過ぎないのですよ。フィールドワークに私が行くとなぜか現地の匪賊やテロリストに私が襲われるからという理由で今回も日本に留め置かれている状況でしてね……あれ、そんな有象先生は古典の解釈もできますし、趣味は歴史小説を読むことではなかったですか?」

 御座鳴が有象に訊ねる。

「まあ、そうですけれど。小説はあくまでフィクションですからね」

「いいんですよ、日本史などフィクションで。だいたい、日本人の知っている日本史は司馬遼太郎先生の作ったものですよ。それに歴史などというものは遺跡の発掘や新史料の発見でガラリと変わるのですから、常識などはあってなきものです。ほら、斎藤道三だってむかしは一人で成り上がったことになっていましたが、現在は父子二代で偉業を成した説の方が有力でしょ? 有象先生ならば、とりあえずこれを読んでいただければ、きっとできますよ」

 御座鳴は山川出版社の『詳説日本史』の教科書を出した。いまは高校では世界史が必修で日本史は選択だと有象は誰かに聞いたから、この教科書は最新版ではないだろうと有象は思った。

「ええと、コマ数が今の『文学特講』に加えて倍に増えるのですから、ギャラも当然、倍になるのでしょうね?」

 有象が少しだけ乗り気になる。

「ああ、その辺りは理事長と校長にお訊ね下さい。有象先生はすごいお金持ちなんだからお金のことなんか気にしなくていいでしょ? それに若い女学生もたくさんいますよ。要は学生に物事を教える教授としてのやりがいですよ。ふふふ」

 御座鳴は当然、有象の過去の女性スキャンダルを知っている。有象は例の女精神科医に処方されているよくわからない薬で性欲が減退はしているが、そういう話をされると野生の力がどこからかムクムクと湧き出して来る。

「わかりました。私が犠牲になりましょう。その代わり、月例会議の資料作成などの事務仕事の月番からは外して下さいね。苦労の分配。烏兎先生、マルクスさんもそう言っていたよね」

「はあ、そうでしたっけ?」

 烏兎はおそらく『資本論』を読破していない。せっかく今、マルクス経済学がちょっとしたブームになろうとしていると言うときにもったいない話だ。有象は『資本論』を過去にマッドな研究者の妄想小説として読んでいる。彼は活字キチガイなのだ。


 有象は春休み中の週末に『詳説日本史』を読み、

「まあ、よく書けているがつまんないなあ」

 と独り言で感想を述べると、出入りの『友人堂書店』の外商に連絡して、中央公文庫版と講談社学術文庫版『日本の歴史』全巻と小学館文庫、井沢元彦『逆説の日本史』、それに専門書の類を数冊、速攻で持って来させて超速で読み込んだ。

「なんだ『逆説の日本史』はまだ完結してないのか。でも、明治維新までわかればいいな。あとのものは難しいから学生にストレートに話しても珍紛漢紛だろうな。こちらの専門書なんて新入生に読ましたら泡を吹くかも知れぬ。私の脳で離乳食のようによくよく噛み砕いて小さなスプーンで食べさせてやらねばならぬ」

 

 有象はおもむろにキャンパスノートと鉛筆を机から出して、講義の台本を作り出した。日本芸術大学時代にやったエセ脚本家の気分が戻って来る。講義とは学生相手の落語、講談、一人芝居、トークショーのようなものだと彼は考えているのだ。


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