第3話 国文学者兼小説家 有象無蔵

 有象無蔵は東京大学大学院文学部国文学科博士課程修了のエリートであった。彼は日本文学における地口、駄洒落、ジョーク、ユーモアを研究するという今までになかった切り口で学界に登場し、そのウイット溢れる学説と文章は素人でも読みやすく、大学講義のため、学生向けのテキストとして発行した『ユーモア文学の歴史』(東京大学出版会)は「誰が読んでも面白い。簡潔な文章が秀逸」と新聞や雑誌の書評で絶賛され、一般の書店でも売れたため異例の二十五万部まで行った。

 さらに彼は幼少時から親の知り合いであった天才噺家、初代・萬願亭道楽に付いて古典落語を稽古していたため、話し方がとてもスマートで、大学で教鞭を執るようになってからも「わかりやすくて面白い」と学生たちからの人気を得て、ついには『座席が取れない大学講師』とどこかのイタリアンレストランのオーナーシェフみたいな噂が飛んだ。(でも、落合シェフってテレビのバラエティーにはしょっちゅう出ているので、作者は「テレビに出ないでレストランにいなさい!」と個人的には思うのである)


 新進気鋭の国文学者として知名度の上がった有象には当然、外部からのセミナーや講演会の依頼も多かったが、彼はそれらを全てノーギャラで受けていた。

 実のところ有象の家は、横浜市緑区のほぼ全ての土地を所有する大地主で、超大金持ちであり、両親が亡くなった今では彼が有象家の当主に収まっている。当然、多額の固定資産税などを支払ってはいるが、住民やビル管理会社などから賃借料が何倍にも増えて返って来る。金には全然不自由しない身なのだ。

 なにせ、緑区役所や緑警察署なども彼の店子なのだ。地域での発言力も強いのだが、彼は文学バカで政治には無関心なために特にその手の発言をしない。選挙に出てほしいと与野党両方から懇願されたことが何度もあるがいつも固辞している。ただ、たまに酒に酔った時などに「戦後の農地改革がなかったら青葉区、港北区、都筑区も私の家の土地だったんだよねえ」と自嘲的に言うことがある。ちょっと殿さま気質ではあるらしい。


 彼の人気ぶりを目敏いテレビマンたちが見逃すはずはない。しかし、有象は独立行政法人の教員であるので最初は公共放送の高校講座に依頼されて出演した。彼の草刈正雄というより竹野内豊的なスィートだがちょっとビターな風貌と、見かけとはまるで違う立て板に水でまるで噺家のような語り口は、高校生よりも偶然、午後のひとときにテレビをつけてしまった奥さま方から人気が出て来て、彼の出演した『高校現代文』のテキストは公共放送の高校講座史上初という異例の大増刷になった。ちなみにテキストに有象の写真は講師紹介の部分にしかない。

 それからは大学に特別許可を貰って民放のクイズバラエティーやワイドショーのコメンテイターとして出演する仕事が増え、その博識ぶりから『プロフェッサー・ダンディー』というあだ名が定着するほどお茶の間に浸透した。おかげでお笑い芸人のダンディー坂野の仕事が激減。坂野は改名を真剣に考えたという。


 テレビで活躍する一方で彼は豊富な語彙力を活かした純文学小説を書き、それがまるっきりユーモアとは無縁の本格悲恋小説だったために「いつもの彼の文章とは雰囲気が全く違う」とこれまた話題となり、その年の下半期『芥川龍之介賞』候補となり、見事に受賞した。


 彼の名声はとんとん拍子で上がり、あっという間に教授まで上り詰めたが、学界では「学者がテレビに出てり小説を書いたりするなど恥である」や「タレント教授め!」というやっかみが多くあり、徐々に他の教授たちとの溝が生じだした。東大は独立行政法人なので、度がすぎた副業はご法度であり、有象は毎回特別な許可を貰ってテレビ出演していたが、それも他の教授陣にはいい顔をされなかった。アカデミア特有の嫉妬である。


 実は偏屈で人嫌い、孤独と書籍を愛する有象は全く周りの目など気にしていなかったが、ある日、教授人生を揺るがす事態が起こる。

 彼は自分の一般教養の講義の初日に遅刻して教室に駆けて入って来た新入生の美少女と、目があった途端、すぐに恋に落ちてしまい講義終了後には結婚を約束して肉体関係を持ってしまったのだ。

 相手はもう十九歳だから別に真剣に愛し合っていれば問題ないと有象は思ったが、マスコミは大騒ぎになり、他の教授たちからは「破廉恥至極!」「禁断の果実を齧れば、失楽園行きだ!」「ロリコン野郎!」と罵倒され、バカらしくなった有象は大学を辞職する気持ちになったが、結局のところ有象の余りある才能を惜しんだ東大総長が神奈川県立大学への出向を有象に命じるという微妙な大岡裁きで有耶無耶な結論が出た。

 しかし、どのみち有象は最高学府の赤門からは追放されたのである。その直後、有象はその女子学生と結婚したが気が強い彼女とは一年も持たなかった。彼女は今、文藝夏冬で編集長をしている。異例の抜擢だった。才女だったのだ。


 神奈川県立大学に移籍した有象は、モチベーションがダダ下がりし、毎年みすず書房発行の『太宰治 滑稽小説集』テキストに指定して、若き日に作成した講義ノートを使い回していたが、ある年、学生たちが「先生、テキストが出版社品切れで入手できません!」と指摘されて慌てて調べたらその通りだった。その年は『青空文庫』からダウンロードして講義を続けたが、翌年からはほぼ雑談だけで講義をしていた。話芸と蘊蓄だけはまだ持っていたのだ。

 その一方で有象は自分のゼミを持ち、学生に文学賞に応募できるような文芸作品を書かせるということをさせていたが、ゼミ生は絶対に美人しか取らなかった。そして、また彼女らと乱倫を行うというアンモラルなことをしていた。要は有象という男、一皮剥けば大の女好きなのである。

 これが、大学にバレてついに神奈川県立大学から放校されてしまった。


 ところが大豪邸でヒマを持て余していた有象の元にお台場の湾岸テレビから「夕方のニュースショーの男性MCになって貰えないか? メインは人気女性フリーアナウンサーなのだが、ちょっと主婦層がメインの時間なので、ウケが悪い。むかしブレークしていた、いい男が『鉢植え』でいるとひょっとして多少は主婦層にもウケるかも。フリーアナウンサーもあなたのファンだったらしいよ」という失礼なオファーがあったが、あまり深く物事を考えないようにしている有象は「ヒマつぶしにはいいか。その人気フリーアナウンサーも拝んでみたいし」と思って承諾した。ところで『鉢植え』というのはテレビの業界用語で「黙って立っていればいい」という置き物扱いというくらいの意味である。


 夕方の時間帯、湾岸テレビは他のチャンネルから視聴率で後塵を拝していた。そこに突然、かつてよりは多少老けたが相貌だけは依然として滅茶苦茶格好がいい有象が現れ、制作陣も驚くほど女性キャスターと軽快なやりとりをして、またも主婦層を中心に話題沸騰となり、視聴率がグンと上昇した。

 だが、読者ももう勘づいているだろう。有象は半年も経たぬうちにフリーアナウンサーにツバをつけ、半同棲状態になった。これを『週刊文夏』の文夏砲にスクープされ、湾岸テレビとフリーアナウンサーの所属事務所両方の上層部の逆鱗に触れ、緊急降板させられた。女性週刊誌などが「有象はビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領と同じ病気だ」と書くので、有象は遠い親戚たちに強制入院させられた。


 有象をカウンセリングした精神科の女医は「有象さんは『セックス依存症』というより『甘えん坊症候群』ですね。お母さまは?」と有象に訊ねた。

「私は乳母に育てられました。母は早くに亡くなったので顔もわかりません」と有象は答えた。

「やっぱりねえ」女医はホテルのベッドで答えた。もちろん全裸である。


 その後、よくわからない処方薬を飲まされ、有象の女癖は一見、治ったように見えるのであるが……


 もう隠居をしようと有象が考えていた時、新設の日本芸術大学から教授のオファーが来た。昔取った杵柄であろうか? 非力な有象は杵柄などという重たいものを持てないが。

 日本芸術大学は日本大学の芸術学部を模したような学校で、自由な校風であった。文芸、美術、演劇、演芸、音楽など文化を担う若者を育成する大学である。当然、有象は文学の教授であったが、担当するクラスに、子役から大人の女優への転身に苦しんでいた後の大女優、水沢舞子やテレビ、映画で活躍する黒上純子、この時は芸能事務所にも所属しておらず、バイトで生計を立てていた、現在の人気俳優、加藤虎将らがおり、芸能に深い造詣のある有象は彼らに適切なアドバイスをしたり、学生たちのために舞台の脚本を書いてあげたりした。なので、俳優だけでなく、演出や裏方志望の学生たちや舞台の背景画を描く画家志望の者も有象を信頼し『パオパオ集団』というユニットを作って定期的に上演をして大いに評価を上げた。ちなみに“パオパオ”とは有象の象の字から来ている。


 その後、有象は理事長と大喧嘩をして日本芸術大学を辞すが、大女優となった水沢舞子が天熊総合学園のお偉いさんの事実上の養女であったことから、なんとか教養学科の教授待遇で迎えられた。

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