第187話 どんな下らない夢でも。

14.


 室内は先ほどまでの興奮が嘘のように、奇妙なほどの静けさに覆われていた。リオの唇から漏れた問いに、エリカは妙に密やかな声で答える。


「知っていた、でしょうね。アイレリオは、カティス様がどういう状態かも知っていたから」


 リオは顔を覆う。

 指の隙間から、涙が流れ落ちていく。


 レニさま。


 リオは必死にその名前を呼ぶ。


 レニさま、レニさま……。


 肩を震わせるリオを、エリカはしばらく気が抜けたような顔で眺めていた。だが余りにその嘆きが長く続くことに、再び怒りがわいたようだった。

 半ば苛立ったように半ば嘲るように眉をしかめる。


「何よ、何であの娘の心配なんかするの? あの子は、お前を買った男……あのグラーシアの娘なのよ? お前だって、あいつにひどい目に遭わされたでしょう。私だって……」


 声を震わせ出したエリカを、シンシヴァが慌てて支える。


「エリカ様」

「大丈夫よ、手を放して」


 エリカはシンシヴァの手を払うと、リオのほうを向き直った。


「お前、母親のくせに、なぜ自分の娘を愛さないのか、と言ったわね?」


 エリカ自身は、先ほどまでと同じように自分が嘲笑を浮かべていると思っていたに違いない。

 だが、リオの目にはエリカが笑いながら、自分と同じくらい泣いているように思えた。そうして何故かその顔が、ほとんど似たところがないレニの顔と重なる。

 その顔のまま、エリカはリオの瞳を覗き込み囁いた。


「いいわよ、愛してあげる、あの忌まわしい子を」


 顔を上げたリオに向かって、エリカは微笑む。


「あの子がお前の子種を宿せばね」


 打ちのめされたように項垂れるリオから視線を外して、エリカは楽し気に言った。


「あの子が国王ではない男の子どもを宿せば、オズオンの目論見はご破算。あの子もお前も私も、オルムターナも仲良く破滅する」


 エリカは顔を上げて、不意に愉快そうに笑い出す。音程が狂った楽器が奏でるような、妙に甲高く発作的な笑いだった。

 まるでこの部屋だけではない、世界のどこか別の場所に届かせようとするかのようにエリカは喉をのけぞらして吼えるように笑った。 


「ああ、いい気味! 本当にいい気味! 私を人身御供に差し出したこの国も、私を踏みにじった男の子供も破滅する! アイレリオを裏切った奴らと私をこんな目に合わせてのうのうとしている、新しい国を作ったお偉い男ども全員に吠え面をかかせてやれる! ははは! ざまあみろ。あいつらの顔に唾を吐きかけて、ヘドロをぶちまけてやる!

 あの子が私の代わりにそうしてくれたら! 私が憎んだあいつらに復讐してくれたら! 国王を裏切って卑しい男娼に身を許して子供を産んだ売国妃、そう宮廷人たちにとって見るもおぞましい存在になってくれたら! あいつらの顔を嫌悪で歪ませるような、汚辱にまみれてくれたら! そうなったら、私はあの子を愛せそうな気がする。私と同じ地獄を生きるなら、あの子のことを抱き締めてあげられる!」


 エリカはしばらく笑った後、床に手をついて力なく手をついている、リオのおとがいに手をかけた。

 涙に濡れたリオの顔を両手で挟んだエリカの手つきは、今までとは違い柔らかく優しかった。


「ねえ、リオ。お前がエウレニアとの間に子供を作ったら、私はあの子もお前たちの子供のことも心の底から愛するわ。誰かに露見すれば、すぐにみんなで仲良く始末されるでしょうけれど。それまでのあいだは、優しい母親でいてあげる。あの子はお墓の下に行くまで、母親に愛されて幸せな気持ちでいられる。それがお前の望みなのでしょう?」

「私の……望み?」

「そうよ」


 リオは既に涙も乾いた虚ろな眼差しを、エリカに向けた。

 しばらくエリカの顔を眺めたあと、リオは小さなかすれた声で言った。


「私が断ったら……レニさまは……」


 エリカは頬をひきつらせ、リオの顔から忌々しげに手を離した。それから言葉を吐き捨てる。


「さあ? 国王との間に子供が生まれるまでは、生かしておいてもらえるでしょうけど。その後はどうなるのかしら? 殺されなければどこかに閉じ込められて一生を過ごすんじゃないかしら? 私には関係ないわ」


 興味がなさそうに言うエリカの顔をリオは仰ぐ。


「陛下、私をレニさまのお側にいさせて下さい……。レニさまを一人にしないと……もう決して一人ぼっちにはしないと誓ったのです。どこまでもお供すると……」


 エリカは床に膝をつき、苦悩に歪んだリオの顔を覗き込んだ。


「あの子がお前の子供を宿せば、もちろん一緒にいさせてあげるわよ。父親だもの」

「そんなことをすれば、そなたはすぐに殺される」


 シンシヴァが横から固い口調で口を挟む。

 エリカが苛立った声で制止しようとするのにも構わず、シンシヴァはリオの顔を見つめて言った。


「王妃との密通は重罪だ。ましてやその子供を国王の子と偽って玉座につけようとしたとなれば、露見した瞬間に大逆罪で殺される。悪いことは言わない。寵姫、私のもとに残れ。所詮、王族同士、天の上の者どものもめ事だ。私たちに何の関わりがある。巻き込まれる必要はない」

「フフフ、確かにそうね」


 シンシヴァの言葉に、エリカは気を悪くした風もなく笑った。


「私が王都に行ったあとは、シンシヴァにこの街は任せるつもりよ。この者のことだから、オルムターナはなくなってもエリュアの行政官の地位くらいは口先三寸でもぎ取れるでしょう。シンシヴァはお前のことを随分気に入ったみたいだし、この男のモノとして楽しく暮らせばいいじゃない。国王の愛人なんかより、ずっと気楽だと思うわよ?」


 リオはシンシヴァのほうには目を向けず、食い入るようにエリカの顔を見つめて言った。


「私がレニさまのもとへ行けば……レニさまが受け入れて下さったら、本当に……私の命が尽きるまでは、レニさまのお側にいさせていただけますか?」

「寵姫……!」


 声を上げようとしたシンシヴァを、エリカは片手を上げて制した。そうして真っすぐに自分を見つめるリオの顔を、無表情のまま観察する。

 それから抑揚のない、しかしはっきりとした声で言った。


「いいわよ。エウレニアがお前を受け入れたら、私はエウレニアの母親として、お前はエウレニアの夫として、死ぬまでのあいだあの子の家族として過ごしましょう」


 エリカは小さく笑い、自分に言い聞かせるように呟いた。


「どうせすぐに終わることだもの。そう思えば、どんなに下らない夢の中でも生きられるわ」


 リオは項垂れて瞳を閉じる。

「束の間でもその夢の中で生きられる」そのことに喜びを感じながら、リオは涙を流し続けた。



※※※


 壊れ物に触れるような柔らかい手つきで肩に触れられて、夢のようなまどろみから目を覚ます。

 横を向くとレニが脇に腰掛け、優しい眼差しでこちらを見つめていた。

 自分の頬が、夢の名残で涙に濡れていることに気付き、リオは指の先で頬を軽くこする。

 レニは心配そうに眉を寄せて、リオの目元に滲んだ涙を跡を見る。


「リオ、何か嫌な夢を見たの?」

「いいえ」


 リオは首を振ると、慌てて起き上がった。


「申し訳ありません、レニさまのご寝所で眠ってしまうなど……」

「そんな……いいよ」


 レニは首を振り、少し考えてから目元を赤らめて言った。


「旅をしていた時は、いつも一緒に寝ていたよね」


 言われてリオの心の中にも、旅をしていた時のことが浮かんだ。

 レニへの恋心をはっきりと自覚していなかった頃は……正確には自覚しないようにしていた頃は、よくひとつの毛布に一緒にくるまって眠った。その小さな体の温かさと柔らかさは、リオの心に生まれて初めて安らぎと幸福感を与えてくれた。

 この小さな毛布の中が世界のすべてになればいいのに。

 リオはレニの寝顔を見つめている時、いつもそう願っていた。

 例えつかの間だけでも、その夢がかなうなら……。

 リオは手の中のかけ布を握りしめる。

 関係を持った、と口裏を合わせてもらえば、王都まで一緒に行けるのではないか。その後、僅かなあいだだとしても、二人でいられるのではないか。

 あの毛布の中にいた時のように。

 外の世界のことは何ひとつ関係なく。

 そう考えるリオの肩に、レニがそっと手を置いた。


「リオ、ここから出られるように準備をしておいて」


 何でもなさそうに言われたレニの言葉に、リオはハッとして顔を上げる。視界に入ったレニの顔は、優しく柔らかいままだった。


「私は母さまのところへ行ってくるから」

「レニさま」


 リオは身を乗り出して言った。


「私も……私も一緒に参ります!」

「リオ……」


 困ったように目を逸らしたレニの顔を、リオは懸命に覗き込む。


「一緒にお連れ下さい、レニさま」


 いつも通り物柔らかで丁重な言葉とは裏腹に、リオの声には梃子でも動かなさそうな強い意思が込もっていた。

 一瞬、レニの顔に泣き笑いのような複雑な表情が浮かぶ。

 リオは、俯いたレニの手を取り、しっかりと握りしめる。レニはしばらくジッとしていたが、やがてその手を握り返した。

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