第186話 あの娘がだれの子か。

「そのようなことは、おたわむれにも口になさいませぬよう。妃殿下の名誉に関わります」


 エリカはリオの強い眼差しに一瞬怯む。しかし次の瞬間、そんな自分に腹を立てたように、リオの頬を扇で軽く打った。


「誰に向かって物を言っているのよ」


 エリカは忌々し気に吐き捨てると、もう一度、今度は強くリオの頬を打つ。

 背けられたリオの顔を強引に自分のほうへ向かせると、エリカは囁いた。


「今晩、エウレニアの部屋へ行きなさい」


 リオは表情を凍りつかせた。その顔は、死刑の宣告を受けた罪人のようだった。

 エリカはリオの様子など気にもとめず、高圧的な笑いを浮かべて話を続ける。


「お前の手管で、あの子を夢中にさせるの。出来るでしょう? シンシヴァも、ずいぶん入れ込ませたみたいだし」


 エリカは、後ろに控えてシンシヴァに皮肉な笑みを一瞬向けた。シンシヴァは表情を崩さず、聞こえない振りをしている。

 リオは大きく瞳を見開き、その場から飛び退った。


「太后陛下……お許しください! どうか……どうかそれだけは!」

 

 その場で膝まづき、必死に訴えるリオをエリカは見下ろす。

 苦しげなリオの姿など、まるで目に入っていないようだった。


「エウレニアは、お前が男だって知らないのでしょう? 知れば喜ぶんじゃない? 『お姉さん代わりのお友達』だなんてお笑い草だわ。見ていれば、すぐにわかる。あの子、お前に骨の髄まで惚れこんでいるわよ。アイレリオの名前を与えるくらいだもの。我が娘ながら信じられないわ。王妃の身で、お前みたいな卑しい性奴に」


 恐怖で蒼白になったリオの顔を、エリカは覗き込む。


「このことがバレれば、宮廷は大騒ぎでしょうね。国王の妾が男で、王妃と密通したなんて。アホで陰険な宮廷の雀どもが、涎を垂らして飛びつきそうな話だわ」

「ど、どうか……陛下、お考え直し下さい。私には……そのようなことは出来ません!」

「出来ない?」


 エリカの顔からは笑みが消え、代わりに強い苛立ちが表れ始めた。


「そんなわけないでしょう? お前、今までどれだけの人間と寝てきたのよ。あのグラーシアに飼われていたんでしょう? その後、国王に鞍替えして、ここにいるシンシヴァともオズオンとも寝ているじゃない。今さらそこに小娘が一人加わったからって、何だって言うのよ!」


 リオはエリカの顔を凝視し、震える唇から呟きを落とした。


「なぜ……ですか?」


 エリカは、鑑賞していた工芸品が突然喋りだしかのような顔つきで瞳を見開く。


「何……? 何ですって?」

「なぜ……そんなに、レニさまに辛く当たられるのですか?」


 呆気に取られた顔で自分を見つめるエリカの顔を、リオは仰ぎ見る。


「……娘ではないですか、貴女さまの。たった一人の血をわけた娘ではないですか。レニさまが一体、何をしたとおっしゃるのですか!」


 リオが言った瞬間、エリカの瞳が怒りで燃え上がった。力まかせにリオの体を突き飛ばすと、その肩に閉じた扇をしたたかに打ち下ろす。

 硬い木の枠が骨に当たる凄まじい音が響き、リオは苦痛に呻いた。だが打たれた肩を押さえて、なおもエリカの顔を見上げる。


「レニさまは、少しでいいから愛して欲しいだけです、母親である貴女に。ただ必要として欲しいだけです! それなのに……」

「黙れ……黙れ! この……この無礼者!」


 エリカは激昂し、力まかせにリオの肩を打ち続ける。リオはその殴打を浴びながら、顔を上げ言い募った。


「あなたさまの宮廷での暮らしが例え不幸だったとしても……それはレニさまのせいではないではない! レニさまは何も関係ない。それなのになぜ……!」

「娘だからよ!」


 不意に……リオの声をかき消すように、エリカが絶叫した。それまでの取り繕われた太后の声とは違う、まるで殺されかけた獣の咆哮のような叫びだった。

 エリカを抑えるように手を肩にかけていたシンシヴァも、自分の腕の中で緑の瞳をギラつかせ荒い息を吐く女の顔を見る。

 呆気に取られているリオの顔を、エリカは感情の浮かばない見開かれた目で凝視した。


「娘だから、我慢できないのよ」


 エリカの眼差しは、リオではなく別の人間を見ているようだった。


「何で憎むか、ですって……? あの嫌ったらしい赤毛を見ればわかるでしょ!」


 震える声で悲鳴のように叫んだあと、ふとエリカは、目の前の人間がリオであることに気付いた。

 表情を悪意によって作り直し、耳障りな笑い声を立てる。


「お前だって、嫌になるわよ。あの娘の父親が誰かを知れば」

「……父親?」


 リオは感情の抜け落ち声で呟いた。


「レニさまは……カティス陛下の御子おこでは……」


 突然、エリカが笑いだした。それは部屋中に響き渡るような爆発的な哄笑であり、世界を内側から食い破ろうとしているかのようだった。

 エリカは瞳に浮かんだ涙を拭おうともせずに、笑いながら言った。


「カティスさま? そんなわけがないでしょう? あのかたは、私が嫁いだ時には、私のことはおろかご自分が誰なのかさえ、わからなくなっていたのよ」


 エリカは一瞬、唇を噛み、そうして無理に呼吸するように息を吐き出した。


「私が妻になった時、あの人の心はもう死んでいた。アイレリオの母親のカーシャ様が殺された時に……」


 私は死人の妻になったのよ。

 エリカは声であるかどうかもわからないかすれた囁きを漏らした。

 リオは生気が抜け落ちたエリカの顔を、瞬きもせずに見つめる。

 それ以上、動くことすら出来ないリオのほうへ、エリカは振り返った。その瞳は爛々らんらんと輝き、口元には狂気じみた笑いが再び浮かんだ。


「どうしたの……? 聞かないの? あの娘の父親が誰か。お前が憐れんでいる、私が愛さない、捨てたと責める、あの子が誰の娘か……!」

「陛下……エリカ様!」


 激昂して叫ぶエリカを、シンシヴァが横から押し留めようとする。

 エリカはその手を振り払うと、膝まづいているリオの目の前に立った。

 打ちのめされたように俯いているリオを、どこか勝ち誇った表情で見下ろす。


 リオの心には、最前からあるひとつの答えがはっきりとした形となって浮かんでいた。その答えが、自分を見下ろすエリカの顔を見た瞬間、確信に変わる。

 心の中に、レニの姿が浮かんだ。

 楽しそうな顔、嬉しそうな顔、照れたような顔、怒ったような顔。

 周りがどうあっても、リオにとってレニは、いつでもただの普通の少女だった。自分が生まれて初めて恋をした人、ただそれだけだった。


(レニさま……)


 リオは心の中に浮かんだレニの笑顔に呼びかける。その視界が涙で歪んだ。


「知っていて……」


 唇からかすれた声が漏れた。


「……知っていて、アイレリオ殿下はレニさまを育てたのですか?」


 リオは呟いた。


「知っていて、レニさまに自分の父親を殺させたのですか……?」


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