第184話 ただのレニじゃないか。

 レニは動転しながら乱れた夜着の裾を直し、顔を赤らめながら聞いた。


「リ、リオ、ど、どうしたの……? 急に……」


 レニの中には、困惑と共に多少の期待もあった。もしかしたら、リオも自分とこうなることを求めていたのかもしれない。

 しかしそんな仄かな喜びは、リオの顔を見た瞬間、跡形もなく消え去った。

 仄かな灯りの中に浮かんだリオの顔には、強い苦痛が浮かんでいた。

 何かに……誰かに強いられてここに来たのだ。そしてそのことは、リオに身を刻まれるような苦しみをもたらしているのだと、すぐに分かった。

 レニは、夢の中でイリアスに抱かれていたリオの姿を思い出す。

 目の前のリオは、夢で見たのと同じ表情をしていた。

 言葉を失ったレニのほうへ、リオは力なく手を伸ばす。指先を微かに震わせながら、レニの赤い髪を撫でる。


「レニさま……」


 リオは無理に押し出すように、声を絞り出した。


わたくしが……このように触れるのは、お嫌ですか……?」


 リオの瞳は涙で潤んでいる。宝石のように美しく目を離すことが出来ないのに、見ていると胸が詰まるほど哀しい気持ちになる。


「私がレニさまのすべてに……初めて触れる者になるのは、お嫌でしょうか……」


 レニはジッとリオの顔を見つめる。夢と同じように、リオの滑らかな白い頬には涙が流れている。

 レニは、その涙を凝視しながら言った。


「リオ、どうしたの? 誰かに……誰かに言われたの?」


 言った瞬間、リオは表情を見られまいとするかのように顔を僅かに背けた。

 それは何にも増しての明確な返答に思えた。

 レニは怒りに突き動かされて、鋭い声で問いを発する。

 

「誰に言われたの?」


 リオが反応するよりも早く、レニの頭の中に答えが浮かび上がる。


「叔父さん? 叔父さんでしょう?」 


 その言葉を発した瞬間、レニの心は確信に満ちた。


「叔父さんに脅されて……ここに来いって命令されて、それで来たの? そうなの!? リオっ。また……また、ひどいことをされたの!?」

「違います!」


 不意に。

 レニの声をかき消すように、リオは叫んだ。

 レニがハッとするほど、リオの声は強かった。

 レニはリオの余りの反応の激しさに驚きながらも、なおも自分の思考を追いかけて呟く。


「叔父さん、じゃないの? じゃあ誰が……」

「誰でもありません」


 リオの叫びに、レニは戸惑ったように視線をさ迷わせる。

 なおも他の誰かを探そうとするレニの顔に、リオは涙で潤んだ瞳を向ける。


「おかしいですか? 私が自分の意思でレニさまを求めることが」

「え? ち、ちがっ、違うよっ」


 顔を背けたリオに向かって、レニは慌てて言った。


「だって、リオが凄く辛そうだから。やりたくないことをやらされているんじゃないかって、そう思って……!」

「やりたくないこと……?」


 リオは呟いた。


「レニさまは、私がこんな風にあなたに触れたくはない、と思っているのですか? 一緒に旅をしていた時も、あなたのことなど触れたくもないのに奉仕していたと……そう思っていたのですか?」

「そ、それは……」


 言い淀むレニの前で、リオは顔を上げた。その美しい容貌は、自分の中にある強い感情を抑えきれない苦痛で歪んでいた。


「私には意思などなく、ただあなたに言われたから一緒に宮廷を出たのだと、ずっとそう思っていたのですか?」


 レニは激情で燃える目の前の翠の瞳を、ただ見つめる。その瞳に宿る炎に、燃え尽くされるような心地がした。


「あなたにとって、あの旅は何だったのですか? ただ、外の空気を吸ってみたかっただけの……ほんの一時の夢だったのですか? なぜ私があなたに付いていったのか、なぜずっと一緒に旅をしたのか。本当にお分かりにならないのですか?」

「リオ……」


 なんと答えて良いか分からず、レニは震えるリオの肩に手を置いた。


「レニさま」


 リオは顔を伏せ、震える声で呟いた。


「私の気持ちは、一度も変わっていません」

「え……」


 肩に置かれたレニの手を、リオは握り締める。


「私の気持ちは、ずっと変わっておりません。あなたを初めて見た時から……今までずっと」

「初めて見た時?」


 戸惑うレニを見つめて、リオはゆっくりと手を伸ばす。

 薄明かりの中に浮かび上がったリオの顔は、苦痛に満ちていながら、どこか甘い陶酔があった。


 私は……他の男たちに抱かれている時、いつもあなたを抱く夢を見ています。


 リオの声は小さく、世界から閉ざされた寝台の中で、レニの心に直接響いているようだった。


 他の人間ではなく、あなたに隅々まで触られ、抱かれて支配され、鳴かされているのだ、と。

 こうしていたぶられることで、あなたの怒りを、悲しみを、寂しさを受け止めているのだ。いつもそう思っているのです。

 苦痛を、恥辱を与えられるほど、あなたに背負わされた重荷を分かち合うことが出来る。そう思うとどんな苦しみも痛みも喜びに変わります。

 そういう夢の中でだけ、私は生きることが出来たのです。


 リオは顔を近付け、レニの唇を優しく吸った。


 レニさま。

 私を許して下さい。

 どんな形でも、あなたを私の夢の中へ連れていくことが出来る。

 そのことに震えるほどの喜びを感じることを。

 こうするしかないのだ、と言いながら、本当はこうなることを夢見ていたことを。


「リオ……」


 レニはリオの頬を流れる涙を見ながら、ただされるがままになっていた。

 リオの触れかたは、壊れやすいものを初めて扱うかのように優しく丁寧で、そのことが何故かレニを悲しくさせた。

 リオはレニの唇を吸い、額に頬に首筋に唇を当て、震える指先で夜着をゆっくりと脱がそうとする。その動作はひどく鈍く、たどたどしく、前を合わせている結び目を引こうとして何度も失敗した。

 リオの動きは徐々に力がなくなって緩慢になり、やがて止まった。そうしてそれ以上何をすることも出来ないと言うように、しがみつくようにレニを抱きしめるだけになった。


「リオ……」

「何で……」


 リオはしっかりとレニを抱きしめながら、食い縛った歯の隙間から呟きを落とす。


「何で……誰もあなたのことを考えないんだ。あなたは……こんなに、小さくて可愛くて……優しい人なのに。ただ、誰かに愛されることを望んでいるだけなのに……!」

「リオ……」

「グラーシアの血が何だ、父親がなんだ……。生まれが何だって、どこに生まれたって、女帝であっても、あなたはいつだってあなたなだけじゃないか!」 


 リオはレニの小さな体がそこにあることを確かめるように、腕に力をこめる。


「世界中を旅することを夢見る、ただの……レニじゃないか……」


 体を震わせながら、リオは声を殺して泣き続ける。

 レニはリオの腕の中で、ただジッとしていた。

 やがてそのハシバミ色の瞳に、強い光が浮かび上がった。

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