第179話 リオとの再会
9.
レニが母であるエリカの下を訪れて、共に王都に行くことを承諾したあと、涙玉宮内はその準備のためににわかに慌ただしくなった。
旅の日程の相談やら王宮で着るための服の採寸やら付き人となる侍女や護衛との顔合わせなどで時間を取られ、想像したよりも忙しい日々を過ごすことになった。
エリカから会わないかという言付けが来たのは、再会から七日ほど経ったころだった。
「ごめんなさい、エウレニア。せっかく会えたのに、時間が取れなくて」
エリカはところどころに水路が流れ、色とりどりの美しい花が咲き乱れる広大な庭園を案内しながら言った。
並んで歩く
エリカは、豊満な香りを漂わす花々を見渡す。
「エリュアは水が豊かで温かいから、色々な種類の花が咲くのよ。他の場所じゃ見られない花もたくさんあるわ」
「うん、部屋に飾ってもらっている花も見たことがないのがあるもんね」
レニは母の美しい横顔を見つめながら答える。それからふと、小さな声で尋ねた。
「母さま、王都からの迎えはドラグレイヤの兵なの?」
エリカはハッとして振り返ったが、レニの視線がジッと自分の顔に向けられているのに気付くと慌てて視線を逸らす。
「さ、さあ? どうなのかしら? 私はよくわからないわ。全部、シンシヴァに任せているから」
レニは無言で後ろを振り返った。
シンシヴァはすぐに胸に手を当て、頭を軽く下げる。
「シンシヴァさん、迎えはドラグレイヤの兵が来ているみたいだけど指揮官は誰なの?」
レニの声は普段からは考えられないほど、感情の抑制がきいた硬質なものだった。
シンシヴァは胸に兆した動揺を表さないようにしながら、用心深い口調で言った。
「なぜ、ドラグレイヤの兵だと……?」
「言葉の調子とか雰囲気ですぐにわかるよ。南方の人間とは全然違うもの」
淡々としたレニの返事を聞いて、シンシヴァは内心舌を巻く。
自分はこの「妃殿下」を少し見くびりすぎていたようだ。
シンシヴァは密かに考える。
母親との再会とこれからのことに心を囚われ何も見ていないと思いきや、見るべきものはしっかり見ている。
それに自分に問うときの「答えが返ってきて当然」という空気はどうだ。人に自分の望みを叶えさせるために威圧する必要すら感じていないのだ。
シンシヴァは無理にその場の空気に抗うことは止め、恭しさだけを込めて答えを口にした。
「太后陛下並びに妃殿下の王都への
「叔父さんが来ているんだ」
気付かなかった、とレニは口の中で呟く。
この闊達で気の優しい少女にしては珍しく、口調に苦みがあることをシンシヴァは素早く見てとる。
「差し出た申しようではございますが」
シンシヴァは殊勝な様子を作りながら言った。
「妃殿下と大公殿下は、さほど親しくはない間柄と伺っております」
口にすると同時に、エリカのほうをチラリと見やる。
「そうなのよ、エウレニア」
シンシヴァから視線を向けられて、エリカは慌てて言葉を添えた。
「あなたは、オズオンとは余りうまくいっていないと聞いていたから。私もそうなの。あの人と会うのは久しぶりだけれど、ちっとも変わっていなかった。相変わらず下品で嫌な男だわ。だからね、あなたにも会わせる必要はないと思ったの。不愉快になるだけでしょ? 打ち合わせや接待は、ぜんぶシンシヴァがしてくれているし」
後半の言葉にこもった強い実感が伝わったのか、レニの雰囲気は穏やかなものに戻る。
レニはおずおずとエリカに聞いた。
「母さまも……叔父さんのこと、好きじゃないの?」
エリカは口にするのも嫌だと言いたげに、口元を扇で覆った。
「あの人のことを好きな人なんていないわよ。凄い嫌な男じゃない」
「フフッ、そうかも」
思わずと言った風にレニが笑いを漏らしたのを見て、シンシヴァがさりげなく口を挟む。
「もちろん妃殿下がお会いしたいのであれば、大公殿下にお伝えして私どもが責任を持って場を用意させて頂きます。ただ今のところは、大公殿下のほうも特にその必要を感じておられないようなので」
レニは少し考えたあと言った。
「うん、わかった。何か叔父さんに用事が出来たら、シンシヴァさんに伝えるね」
「かしこまりました」
エリカは扇の陰で、ホッとしたように息を吐く。それから気を引くように笑みを浮かべた。
「エウレニア、そんなことより……あなたが会いたいだろう人に来てもらっているのよ」
「会いたい人? 私が?」
怪訝そうなレニの表情を見て、エリカは腹を満たした猫のように満足げな顔になる。
「あの
エリカは少し先にある、水路に囲まれた白亜の美しい東屋を指し示す。屋根からは幾筋かの清流が流れ内部の温度を冷やす、エリュア特有の技術が使われている。
東屋の中に座る細い人影を見た瞬間、レニはハッとして足を止めた。
信じられない、そう言いたげにハシバミ色の瞳が大きく見開かれる。
「エウレニア?」
訝しげな母の声でさえ、レニの耳には届いていなかった。
彫像と化したかのように、その場に立ち尽くすレニの気配を感じたのか、東屋に座っていた人物も立ち上がりレニのほうへ顔を向ける。
二人は数瞬の間、世界から切り離されたかのように、ただお互いの存在だけを見つめていた。
東屋にいた人物がゆっくりと、白い腕をレニに向かって伸ばした。レニだけを求めるように真っ直ぐに伸びた指は、その先が微かに震えていた。
緑色の彩りを帯びた青い瞳から、涙が溢れて空気の中に流れ落ちる。
「レ……」
吐息のようにかすれた声を聞いた瞬間、レニは熱い生命の息吹を体内に吹き込まれたかのように不意に動き出した。
その人物だけを見つめて、東屋に向かって全速で駆けていく。
そうして、ずっと心の中で求め続けていたその名前を振り絞るようにして叫んだ。
「リオ……! リオっ! リオおぉぉぉーーっっ!」
「レニ……っ」
リオは自分の腕の中に飛び込んできた小柄な体を受けとめると、固く抱き締める。
お互いの存在を確かめ求め合うように抱き合う二人を、エリカは扇を握りしめたままジッと見つめていた。その翡翠色の瞳が暗い陰に覆われていく。
「……リオ?」
朱い美しい唇から漏れた声は、毒々しい憎悪によって揺れていた。
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