第六章 聖なる知の集積地(学府編)
第82話 好きだと伝えたい。
1.
「火の神降ろし」の次の日の朝。
レニとリオは、朝食前にキオラから呼び出された。
太母であるキオラの部屋には、慈父とイズルもおり、レニとリオは厚い毛皮を何層にも敷き詰めた敷物の上に座るように勧められた。
並んで座った二人の前で、キオラが口を開く。
「さっき、イズルたちがクルシュミの
「あれなら、荷運び用の一番大きい橇を走らせても問題がない」
イズルが重々しく口を開いた。
この無口なユグ族の若者にしては珍しく、水色の瞳に強い興奮を浮かべている。
「信じられん。一夜であんなに厚い氷が張るとは。昨日までは、犬ぞりを走らせるのも躊躇うほどの薄さだったのに」
イズルの言葉に、レニとリオは思わず顔を見合わせる。
目が合うと同時に、二人は嬉しそうに笑い出した。
「良かったね、リオ」
「レニさま、これで、北へ行くことが出来ますね」
喜びで手を取り合う二人の前で、キオラとイズル、慈父が並んで居住まいを正す。
二人が気配に気付いて手を取り合ったまま目を向けると、キオラがリオの美しい容貌にピタリと視線を当て、床に手をついた。
「異国から来た『水の器』よ、ユグの一族を代表してご尽力に感謝申し上げます。どうか我らがユグ族の、感謝と恵みを受け取っていただきますよう」
貴い身分の人間を前にしたかのような恭しい態度で、キオラは口上を述べ丁寧に礼をする。
キオラの両脇にいたイズルと慈父も、それに倣いいっせいに頭を下げる。
リオは戸惑った口調で言った。
「そんな……
リオの言葉に、キオラは首を振る。
「いいや、リオ。あなたはユグのために命を賭けてくれた。冬に湖が凍るか凍らないかは、我らの一族にとっては生き死にに関わる重大なことだ。この恩を、ユグの者は誰一人忘れないよ。今日から、あなたは『客』ではなく、ユグの友人だ。もちろん、レニもね」
キオラに目を向けられて、レニは嬉しそうに頷いた。
イズルがリオを見つめて、おもむろに口を開いた。
「ユグは受けた恩は忘れない。今後何かあれば、遠慮なく頼って欲しい」
リオにピタリと当てられた空色の瞳には、感謝と畏敬の念以外の熱い感情が揺れている。
リオは瞳を伏せて、三人に向かって深々と頭を下げた。
「ご厚情に感謝いたします」
2.
二日後の早朝に学府に向かって立つことに決めた二人は、部屋へ戻り出立の準備を始めた。
「レニさま、橇の中ではもう一枚、服を重ねてお召しになって下さい。外套はキオラさまからいただいた、裏地が狐の毛皮のものを羽織られると良いですね。これが一番温かいそうですから。……レニさま?」
明日の旅路で、レニにどんな格好をさせるべきか熱心に考えながら荷造りをしていたリオは、ぼーっとした表情で自分の顔を眺めているレニに怪訝そうな眼差しを向ける。
リオに青い瞳を向けられた瞬間、レニは顔を赤くして顔を下に向けた。
昨夜、クルシュミの湯で口づけを交わしたとき、レニは、何がしかの展開があるのではないかと胸を高鳴らせた。
しかしリオは特に何かを求める素振りは見せず、その後はレニの体を流したり、髪を洗ったりと王侯貴族に仕える入浴係のようなふるまいに終始していた。
その間、レニの胸の高鳴りはずっと続き、部屋に戻って二人きりになったときには、心臓が破れて倒れるのではないかと思うほど緊張は高まっていた。
寝台の掛け布の中に足を入れた状態で、リオに半身を抱き寄せられたときは、ついに! という言葉が頭に浮かんだ。
そのあと口づけされた時も、「リオとならばそうなっても構わない。むしろ、そうなることをずっと望んでいた」という気持ちを精一杯、態度や表情に表したつもりだった。
だが。
その後、リオは寝台に横たわったレニの体に掛け布をかけると、普段通りの恭しい口調で就寝の挨拶をし、離れていった。
横になってもしばらくの間は、この後にもしかして……という期待で眠ることが出来なかった。
朝までこのモヤモヤした気持ちを抱えたままでいるのか、いっそのこと自分からリオに気持ちを聞いてみようか、いや、それだとリオは遠慮して気持ちなど言えないのではないか。
同じところを行ったり来たりする思考を繰り返すうちに、いつの間にか眠ってしまい、気が付くと朝だった。
朝、起きた後も、リオの様子は特段普段と変わらない。
だがレニの面倒を見るその動きには、昨日まではなかったもの……あえて言うなら、「こう接したい、というリオ自身の意思」のようなものが感じられた。
しかし肝心の「リオの意思」が何であるかが、いくら考えてもわからない。
(これも……これも、妹みたいにしか思っていないってことなのかな? 前にも『お姉さん代わりと思って欲しい』って言っていたし……)
(妹みたいなものだから、ここまでで我慢してねっていう意味なのかな?)
(ううっ、わからない。リオの気持ちが……)
パッセに相談したい、とレニは頭を抱える。
リオは側に寄り、その顔を覗き込んだ。
「レニさま、お加減が悪いのですか?」
レニは自分の物思いから覚めて、慌てて首を振る。
「う、ううんっ! ぜっ、全然……」
「ですが、顔が赤くなっております。お熱でもあるのではないですか?」
「だっ、大丈夫! 大丈夫だから!」
頬に触れようとするリオの手から逃れるように、レニは顔を横にそらす。
リオは一瞬、手の動きを止めたが、やがて優しく、だが断固とした動きで横を向いたレニの顔を自分のほうへ向けさせた。
リオの顔を直視することが出来ず、かと言ってはっきりと視線を逸らすことも出来ず、うろたえたようにあちらこちらに瞳をさまよわすレニを見つめて、リオは柔らかい笑みを浮かべる。
ごく自然な動きで顔を寄せ、唇を重ねて愛でるように撫で甘く吸った。
レニの瞳に浮かぶ羞恥が陶酔に変わったのを見てとると、リオはゆっくりと唇を離し、額に額をあてる。
「熱は、ないようですね」
口元に手を当てて、真っ赤になって俯いているレニの頬をもう一度優しく撫でると、リオはまた荷造りに戻った。
レニは、そのほっそりとした優美な後ろ姿を見ながら考える。
(リオ、何でキスするの?)
(何で、そんな優しい目で見るの?)
(私のこと……どう思っているの?)
たくさんの疑問が駆け巡る中、だが一番大きな思いは、レニの中でもう抑えようがなくなっていた。
(リオのことが好き)
(そう、伝えたい)
(リオが私のことを、主人としてしか思っていなくても、妹みたいにしか思っていないとしても……)
(私は、リオが好き)
レニは決意した。
伝えよう、この気持ちを。と。
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