第81話 二人で温泉
32.
胸に巻かれた布と短いズボンだけの下着姿になったレニは、体に何回か湯をかけた後、思いきって温かい泉の中に飛び込んだ。
湯に浸ると、冷気と共に疲労が全身から洗い流される。
「リ、リオも入りなよ。風邪、引いちゃうよ」
レニは、白い
レニの言葉にリオは少し逡巡した。
ようやく「はい」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をし、ゆっくりと白い布に包まれた体を湯に入れた。
レニは、顔を上げることが出来ず、ジッと熱い湯気が立つ水面を見つめる。
これまでも朝晩クルシュミの湯に入ったことはあるが、リオと一緒に入るのは初めてだった。
温泉だから、とはいえ、下着しかつけていない状態でリオといることに緊張と気恥ずかしさを感じる。顔が赤く熱を帯びているのは、決して湯のせいだけではない。
「あっ、あったかいねっ!」
何とか沈黙をうめようとレニは、声を上げる。
白く立ち上る湯気の向こう側から、「はい」という小さな声が聞こえた。
リオはこの状況に、何も感じていないのだろうか。
レニが怖々と横に目線を向けると、リオもレニと同じように顔を俯かせており、表情はよくわからなかった。
沈黙が怖く、かと言ってこの状況や自分の心境にふさわしい言葉を思いつくことも出来ずに、レニは空を見上げる。
夜空に広がる蒼い光の織り物を見た瞬間、胸の中が再び先ほど感じた感動で満たされていった。
「リオの舞い、凄かったな」
レニは心の中に、先ほど見たリオの舞いを思い浮かべる。
燃え上がるかがり火の中で舞う姿は、その炎を従える火の神に見えた。まるで、リオ自身が蒼白く燃える炎になったかのようだった。
レニはその姿を見つめながら言った。
「すごく、すごく綺麗だったよ」
それから、自分の感情の発露を取り繕うために、慌てて付け足す。
「明日にはきっと、湖も凍っているよ。ユグの人たちにも、喜んでもらえるね」
少しの沈黙の後、リオの声が白いモヤの向こうから届いた。
「私はユグのために、この役目をお引き受けしたわけではございません」
リオの声に宿るものに胸を突かれて、レニは顔を上げる。
リオは密やかな声で話を続けた。
「ユグのかたには、お世話になっているので申し訳ないと思っております。ですが私は、この話を受けてから、ただひとつのことしか考えておりませんでした」
「ただひとつのこと?」
リオは囁くような声音で言った。
「レニさまと、二人で旅を続けたい。そのために湖を凍らせたい。私が考えていたことは、それだけです」
レニは湯の中に視線を落とす。
リオの青い瞳が、自分のことを見つめているのがわかり、急速に顔が熱くなっていく。
レニさま。
名前を呼ぶリオの声は、よくよく気をつけなければわからないほど微かな震えを帯びていた。
「そう思ったのは、私があなたさまにお仕えする者だからではございません。いつまでも、あなたさまと二人で旅をしたい。それは、私自身の願いです」
顔を上げられないままでいるレニに向かって、リオは言った。
「私がこの世界で望む、ただひとつの願いを叶えて欲しいと……そのことだけを舞っている間、祈っておりました。それが叶えば、他には何もいらない、と」
レニは湯から手を出して、自分の頬に触れてみた。そこはいつの間にか、蒸気以外の熱い何かで濡れていた。
(リオも)
(リオも、私と一緒にいたい、二人で旅をしたい、って思っていたんだ)
あの舞いがあれほど美しく、見る人の心を打ったのは、リオ自身の祈りの結晶だったからだ。
それがわかった瞬間、瞳から涙がこぼれ落ちた。
今まで感じていた不安や焦りが心から流れ落ちていくかのように、後から後から涙が溢れてくる。
「リオ……ありがとう」
レニは、顔を掌で覆って呟いた。
「ありがとう」
不意に手を取られ、優しく顔を上げさせられる。
気が付くと、すぐ目の前にリオの顔があった。
リオは、湯の中でレニの体を抱き、片手を頬をつたう涙をそっとぬぐった。
何かを探し求めるかのように、レニの瞳をジッと見つめる。
強力な魔法にかけられたかのように、目の前にある美しい容貌から目をそらせず、動くことが出来ない。
心臓が割れんばかりに高鳴り、このままでいると倒れてしまいそうな心地がした。
「レニさま」
リオの緑色の彩を帯びた青い瞳には、ひどく切なげな光が宿っている。
リオはその表情のまま、囁くように言った。
「よくやったと、そう褒めていただけるのですか?」
「よ、よ、よく、よくやった、なんて、そ、そんなの……私、私が言えることじゃあ……リ、リオはほんと凄くて……」
真っ赤な顔でしどろもどろに言葉を紡ぐレニの頬を、リオは壊れ物にでも触れるかのように優しく撫でる。
「褒美を賜ってもよろしいですか?」
「ほ、ほっ、褒美?」
慌てたようにあちこちに視線をさ迷わすレニを見て、リオは微笑んだ。
それからレニの体を引き寄せ、その唇に唇を重ねる。
レニは驚いたように、ハシバミ色の瞳を大きく見開いた。
唇で唇を柔らかくなぞられ愛撫されると、甘く温かい幸福感で全身が満たされていく。
その感覚に身をゆだねるように、レニは瞳を閉じた。
長い口づけの後、レニは遠慮がちにリオの胸に赤い頭を預ける。
「リオは、もう私に触るのが嫌になっちゃったのかな、って思っていた」
リオは湯に沈んでいたレニの手を取り、恭しく唇を当てる。
「何故、そう思われたのですか?」
「触られるのが嫌そうだったから……」
リオは顔を上げたレニのことを、強い力で引き寄せる。最初は優しく、次いで深く口づけた。
おずおずと開かれ差し出される舌に、自分の舌を絡め、口の中を丹念に、時に貪るように愛撫する。
先ほどの慈しむようなものとはまったく違う、激しく求められていると感じる口づけだった。
瞳を閉じてその激情を受けとめ応えていると、声にならないリオの思いが心の中に流れ込んでくるような心地がした。
レニさま。
こんなに近くにいるのに、なぜあなたは俺のことを、こんなにも知らないのだろう。
あなたの側にいられるなら、俺はどんな屈辱も耐えられる。
こんな汚れた体など、何度でも喜んで差し出す。
それで、世界中を冒険するという、あなたの夢が叶うなら。
でも。
本当は少しだけ夢を見る。
この女の姿を脱ぎ捨てて、俺自身としてあなたの側にいる夢を。
あなたの隣りであなたを見つめながら、叶わない夢を見ている。
レニ……。
俺のたったひとつの火……。
「リオ」
レニはリオの名前を呼び、その存在を求めるように自分から深く唇を押し当てた。
(私、ずっと探していたんだよ……あなたのこと。ずっと、会いたかった……!)
(あなたが好き)
(あなたのことが、ずっと好きだった……)
二人は湯に腰まで浸かったまま、お互いの存在を確かめ、強く抱き締めた。
遥か頭上では、青い光のベールが夜空を覆うように広がっている。
それは、朝には湖が凍るに十分なほど大気が冷えることを伝える、最初の兆しでもあった。
(「第六章 聖なる知の集積地(学府編)」に続く)
★中書き★
第五章を読んでいただきありがとうございます。
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よろしくお願いします。
次章、レニとリオはついに学府にたどり着きます。
引き続き二人の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
苦虫
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